見出し画像

誰にも、自分を「利用させない」ってことがとっても大切。おかしいなと思ったら自分で自分に訊けばいいのダ。

昨日、友人と話していて、
信仰と宗教の話になって
私は、このnoteでも何回か書いてるんですが
「信仰」と「宗教」は分けて考えるべき、と常々思っておりまする。
天を仰いで宇宙(もしくは自分がHOLYだと思う何か)を信じることと
「教義」に倣って生きよう、とする事には大きな隔たりがありますよね。

自分の中の大切でナイーヴな感覚であるからこそ
誰かに絡めとられてしまうリスクがとっても高くて
絡めとる方法に長けた人にとっては、まさに文字通り
「赤子の手をひねる」が如く簡単なことだったりします。

だからと言って
疑心暗鬼になって、周囲に向かって逆毛立ったハリネズミみたいに刺々しく生きていくんじゃ、何のために生きているのか分からなくなる
それこそ「本末転倒」<(_ _)>

宗教だけじゃないんですよね。
自分が大切に思っている信条や、人間関係や、価値観だって
簡単に人質になってしまう。

自分の操縦かんを誰かに預けたり
不安に蓋して依存したり、自分を自分で説得しなきゃいけなくなったら
そこはかとなく「違和感」をちゃんと感じるはずなんだけど
その「違和感」を無視するように「躾られてきた」から
一瞬、何か過ってても、一度動き出したら、後に退けなくなってしまう。
違和感って言うブレーキを踏む勇気がなくなってしまう。

浅はかだから誰かに利用されてしまうんじゃなくて
これは何処にでもあることで、誰しもそう言うリスクと隣り合わせ。
誰かを(意識的にも、無意識的にも)利用しようとしてると
十中八九、自分も誰かの駒になってるものですよね。
あれ、と思ったら、立ち止まる。
私は、人を利用しようとしてるんじゃないか?って
自省し続けていないと、ついつい「取引」をしてしまう。
「取引」を持ちかけたら「取引」に自分も応じなきゃいけなくなっちゃうんですよ。
そして、進んだ方向のハンドルを自在に動かせなくなってしまう。

指針となるのは常に自分の心。
心にモヤっと「違和感」が浮かんだら
センシティブに、一旦停止。

日常と言う宗教に自分を絡め獲られないように。
自分との時間をそこここに作る、日常に挟む一旦停止線。
利用する側は常に「急げ!立ち止まってる暇はないぞ!」って
煩く五月蠅く言ってきますから
だって、
誰もが一旦停止して、自ら違和感に気付いちゃったらヤヴァイもんね。

誰かに自分を利用させない。
立ち止まる勇気とともに生きていこう。

全ての友人たちに健康と幸運を!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?