ガワだけのVTuber

デパートメントHというフェティシズム的なイベントに行った。

私はそうしたフェティシズムを観ることが好きなだけで、自身が表現することにはあまり頓着がない。しかしデパートメントHは、観客もほとんどが表現者であり、かたやラバースーツに身を包み、かたやパンイチで鞭を片手に「叩いてください」と、いろいろな性愛が空間に溢れていた。
そうした多様なフェティシズムのどれにも興奮したけれど、どれを見てもなお、私がそうありたいと思うことはなかった。どんな表現にも興味がわきこそすれ、どんな表現にも主体的な実践性を見いだせなかった。

変人奇人から常識人まで、幸運にもいろんな人と繋がることができ、彼らからいろんな価値観を知り得た。ときにはそれらが相反することもあったし、社会の倫理から外れたやつもいた。それでも私はそのいずれをも受け入れられた。70億もの人間がいれば、そういう人もいるだろう、なんて。
私自身の価値観の、無粋なほどの透明性、あるいは流動性みたいなものが、私という存在を限りなく薄くしている。確固たる私がない、という否定形での自己の認識。自己とは何かという問いに対する、外れ値のような解答。

現状の私には、言語と最低限の社会常識しか身についていないのか? 今の私は、たくさんの人と出会って、たくさんの価値観に触れる中で、自己を成立させる人格形成期なのか? ガワだけで中身のいないVTuberのような人間なのか?
ほとんどの人が小児のときにそれを終えているはずだと言うのに。私はいつまで子どもでいるつもりなのか。

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