恥ずかしいけど気持ちいい
あなたには、ある日突然、アニソンが歌いたくなるとき、というのがないだろうか?。
なぜだか無性にアニメソングが歌いたい。
それも、口ずさむといった程度のものではなくて、大声を張り上げて、歌うというより「がなりたてる」といったほうがいいような。
理由はなんだっていいのだが、歌は「アニソン」でなくてはならないのだ。
そんなときは、仲間を誘ってカラオケに行く。
まあ、ひとりで行ってもいいのだが、それではちょっと寂しいので、仲間を誘う。
その仲間は、アニメソングのわかる人物でなければならない。
できれば、いっしょに乗って歌ってくれる人が望ましい。
間違っても、アニソンを歌う自分に対して、冷ややかな目線を投げかけるような人間であってはならない。
いや、アニメソングをバカにしている人間とは、絶対に同席できない。
アニメソングには、必ず誰か「仲間」が必要だ。
いっしょに歌ってくれれば言うことはない。
本音を言えば、いっしょに歌って欲しい。
アニソン・カラオケには、なぜか「仲間」が必要なのだ。
アニソンを歌うという空間を共有してくれる仲間、その時間を共に過ごしてくれる仲間。
ひとりで歌うアニソンはなぜか虚しい。
ひとりで歌うなら、風呂の中で十分である。
いや、別に風呂の中でひとりで歌うアニソンも悪くないけれど、家の人にも聴かれると、ちょっと恥ずかしい。
アニソンは、できるだけ恥ずかしくない環境で歌いたいと思う。
ということは、カラオケで歌うアニソンは「恥ずかしくない」のである。ということは、アニメソングは「恥ずかしい」のか?
―――そう、アニメソングは「恥ずかしい」。
少なくとも、わたしは恥ずかしい。
恥ずかしいから、見ず知らずの人のいる前ではふつうは歌わない。
わたしがアニメ好きであるということを知らない人の前では絶対に歌わないだろう。
親戚の結婚式でも、例外はあってもたぶん歌わない。
恥ずかしいから、カラオケボックスみたいな暗くてあまり健康的とは言えない空間で、なぜか仲間とひしめき合いながら歌うのである。
では、なぜ恥ずかしいのか?。
アニメソングは子どもの歌だからか?。
子どもの歌だったら、なんでも恥ずかしいのか?。
必ずしも、そういうわけではないだろう。
アニメソングが「子どもの歌」であるという定義に首を傾げられる御仁もおられるかもしれないが、手短に説明すると、アニメソングは広義の「子どもの歌」と捉えられる。
理由は、以下の通りである。
アニメソングが「アニメソング」と呼ばれるようになったのは、おそらく1970年代の終わり頃、すなわち〈アニメブーム〉の頃である。
それ以前は「テレビまんがの歌」だった。
「テレビまんが」には、教育番組や特撮などの子ども向けテレビ映画も含まれていたが、とにかくそういった子ども向けのテレビ番組を総称して「テレビまんが」と呼んでいた。
だから、「テレビアニメ」は長い間「テレビまんが」と呼ばれていた。
(ちなみに劇場用アニメは「長編まんが映画」と呼ばれていた。)
もちろん、その頃は、まんがは子どもの読むものであった。
というわけで、アニメソング、すなわち「テレビまんがの歌」は、子どもの歌なのである。
以上、説明終わり。
しかし、単に「子どもの歌」というだけで、そんなに恥ずかしいと感じるものだろうか。いや、それ以前に、カラオケで歌いたいと思うこともないのではないか。
問題は「歌いたいという欲求」が生じることなのである。
しかも、「歌いたい」けれども「恥ずかしい」。
人に聴かれたくないけれども仲間が欲しい。
この矛盾した感情のせめぎあいが、アニメソングを歌うに当たっては常に生じるということだ。
これは、アニメソングが単に「わたしたちが子どものころに見た、テレビまんがの歌」であるという理由だけから来るものではなさそうだ。
この「恥ずかしさ」の正体は何者なのか。
それは、自分の裸を見られている恥ずかしさに、おそらく通じている。
カラオケボックスに仲間とこもってアニメソングを歌うことは、その恥ずかしさを軽減させる。安心して歌うことができる。
心の準備ができていない人前でいきなりアニメソングを歌うのは、全裸で大通を闊歩するのと同じくらい恥ずかしいことで、人格を疑われる覚悟がないと出来ない。
これは、気心の知れた仲間と、温泉や銭湯に入っているのと似ているのではないか。
いや、銭湯の場合(温泉でも)、赤の他人と一緒になることのほうが多いわけだから、少し違うかもしれない。
しかも、銭湯では人の裸をじろじろ見ることは失礼とされるし、これ見よがしに裸を誇示することもない。
あまり、連帯感というものを共有しているわけではない。
しかし、アニメのカラオケには、ある種の連帯関係が必要なのは事実だ。
「これからわたしはアニソンのカラオケを歌うぞ!」という共犯関係。
「ちょっとだけ、自分の歌を聴いて反応してもらいたい」という密かな欲望。
これは、風呂屋で自分の裸を見せて、他人に何らかのリアクションを期待しているのと同じことである。
この場合見る側も裸であるという大前提がある。
ここには、お互いの裸を見ても、恥ずかしいと思ったりしない、させないという空気の醸成が必要なことは、いうまでもない。
これはかなり奇妙な関係だ。
お互いの裸を見られても恥ずかしくない間柄、そういう了解ができている関係。アニソンのカラオケを歌うためには、そんなメンタルな関係が予め要求されているのだ。
言い換えれば、アニメソングのカラオケを聞かれるということは、自分の裸を見られるに等しいということだ。
しかも、歌う歌によって、「どんな裸か」ということを、赤裸々に告白することにもなる。
あるいは、歌によってその人の「羞恥心」の度合いが計られることがあるかもしれない。
わたしにとって恥ずかしくない歌が、あなたにとってかなり恥ずかしい歌であることは、十分に考えられる。
もちろん、その逆もあり得る。それでも、アニソンをカラオケで歌うという場においては、お互い様なのである。
人間、裸ではどんな恥ずかしい姿であっても、日常的には服を着て生活している。それを脱ぎ去って入る風呂場で、裸が恥ずかしいとか恥ずかしくないとかというのは、考えてはいけないことなのだ。
だから、他人様がどんなに恥ずかしい歌を歌っていても、あからさまに「恥ずかしい歌を歌っているな」という態度を表してはいけない。アニメソングは恥ずかしくて当たり前。
むしろ、恥ずかしい歌を堂々と人前で歌える勇気を、賞賛するくらいでありたい。
しかし、恥ずかしいくせに、なぜか燃えて歌ってしまう。
いや、恥ずかしいからこそ、入りこんで歌ってしまう。
全身全霊を込めて、上手い下手は関係なく歌いこんでしまう。恥ずかしければ恥ずかしいほど、熱くなって歌う。
アニメソングを熱唱してしまう人、多いでしょう。
たぶん、わたし自身もそんな一人だ。自分ではそんなつもりはなくても、端から見ていると絶対に熱く歌ってしまっている。
その頃には、「恥ずかしい」という意識はどこかに飛んでしまっていて、わたしの脳内には「気持ちいい物質」が分泌されているはずだ。
アニメソングは恥ずかしいけれど、気持ちいいのである。
恥ずかしさを通りすぎたところにある「心地よさ」「快感」。
これは、ある種、裸になった開放感に似ているのではないか。
何もかも曝け出すような快感である。アニメソングを歌うことによって、わたしたちは何かから解放される。
心の秘密を打ち明けたような、すっきりした感覚を手に入れることができる。
バカなれる、と言い換えてもいい。
アニメソングは心を裸にするのである。