みんな大好き!70年代アニメソングの謎

 わたしはアニメソングのことを「恥ずかしい、恥ずかしい」とばかり書いているが、わたしだってこどものころからアニメソングを「恥ずかしい」と思っていたわけではない。
 それどころか、「かっこいい」歌として捉えていた。
 そう、アニメソングは「かっこいい」のである。
 もう、この世のものとは思えないくらいかっこいい歌はいくらでもある。
 ところが、そういったアニメソングは、かっこよければかっこいいほど、恥ずかしさの度合いはいやましに増すのである。
 言い換えれば、子どものころに夢中になって見たアニメの主題歌ほど、「恥ずかしい」ということになる。
 「かっこいい!」と魂は叫んでいるのに、もう一人の自分(おそらく、大人になってしまった自分)は「恥ずかしい」といって、足を引っ張っているのだ。

 なかなかアンビバーレントなものである。


 まあ、そういう歌を「恥ずかしい」と感じることが、大人になった証、と言うことかもしれないが、多くのアニソン好きの人は、そんなもう一人の自分が止めるのを振りきって、アニメソングという魂の解放区へ飛び出して行く。
 しかし、どの時代のアニメソングでも「かっこいい」かというと、そうではない。
 断言していいが、かっこいいアニメソングは70年代に集中している。80年代以降にもかっこいいアニメソングがないとは言わないが、魂を揺さぶるようなかっこいいアニメソングは、誰がなんといっても70年代の産物である。
 カラオケにもたくさん入っている。
 カラオケには80年代以降のアニメソングも多いし、タイアップソングとして一般のヒットソングに混じってしまった90年代以降のアニメソングも当然入っているが、70年代のアニメソングはほぼ定番曲として入っている。
 面白いのは、70年代にはまだ生まれていなかったか、生まれていたとしてもリアルタイムで見たことのあるはずのない作品の主題歌を、アニメ好きの若い人たちが知っているということである。
 アニメを見たことがなくても、歌だけは知っている、という作品はあんがい多いのではないか。これはもう、歌だけが一人歩きしているといっても、過言ではない。
 反対に、最近のものになると、歌は知っているけれど、それがアニメの主題歌とは知らなかった、というもののほうが多いのではないか。
 うっかりしていると、「え、あの歌、アニソンだったの?」なんてことは、いくらでもある。
 歌だけが一人歩きしているといっても、それがアニメソングとして認識されているかいないかでは、かなり意味が違ってくる。
 肝心なのは、初めて聴いたときにその歌がアニメソングか、そうでないか、はっきりわかるかどうか、ということである。
 たとえば70年代のアニメソングのほとんどは、十中八九、アニメソングだとわかる。
 なぜかというと、アニメのタイトル、もしくは主人公の名前が歌詞に詠み込まれているからだ。
 これはもう、絶対にそれとわかる。
 タイトルでなくても、必殺技だとか、武器の名前だとか、魔法の呪文や主人公の置かれた状況だとか、とにかく、なにか作品とダイレクトに結びつく決定的なことばが含まれている。
 具体的な名詞でなくても、アニメソングにしか普通使われないことばというのもある。
 「正義」「勇気」「友情」「愛」とといった抽象名詞や、「怒り」「悲しみ」という感情を表すことば、「飛べ!」とか「戦え!」とか、「行け!」といった、命令形の動詞がやたら多いのも特徴だ。
 こういったことばがちりばめられた歌が、他にあるだろうか。
 抽象名詞が頻繁に出てくるという意味では90年代初頭に流行した『人生の応援歌系歌謡曲』が、感情を表す言葉が出てくるという意味では『演歌』が、それぞれあるにはあるが、それ以外にわたしはあまり思いつかない。
 そんな歌詞をすべて持った歌を、わたしはアニメソング以外に知らない。
 しかも、こういったことばは、あまり日常では使わない。
 ここに挙げたことばをここ数日、わたしはたぶん口にしていない。
 こういったことばを日常あまり使わないのは、そのことばがあまりにもストレートで、意味が強いからだ。
 ことばの持つエネルギーの価が高いと言い換えてもいい。
 たとえば「正義」ということばを声に出して言おうとすると、少しどきりとするし緊張を伴う。
 耳で聞いても、不意にそのことばが入ってくると、びっくりするのではないだろうか。
 なんだか、不用意に使ってはいけないことばというか、口にする方も耳にする方も、心構えが必要なことばという気がするのだ。
 そんな「高いエネルギー価のことば」で構成されていたのが70年代のアニメソングであり、それが特徴となっている。
 しかも、これらのことばは、生きていく上でたいへん大切なことをばかりである。
 人間として、尊重せねばならないことばである。
 逆にいうと、アニメソングはそういった強くて重いことばをじゃんじゃん湯水のごとく使っても、違和感のない歌だ、ということになる。
 そこには当然、そんな歌詞を載せられても、いっこうに遜色のないように楽曲にも工夫がなされていたに違いないのだ。
 音楽的なことを詳しくここで述べている余裕はないが、アニメソングは音楽面でもまた、「かっこよさ」を追求されたのはいうまでもない。
 多彩なリズムの種類や、打楽器、管楽器を多用した構成によって、アニメソングは子ども向けの音楽の中でも、より刺激的で斬新な音楽ジャンルとなっていった。
 アニメソングはかっこいいことばの羅列を、より補強し送り出すために発達した音楽だといえるのである。
 考えてみればアニメソングを構成する「かっこいい」という要素そのものが、非日常的なのではないか。
 かっこいい人、というのは、そんじょそこらにいるものではないからこそ、「かっこいい」のであり、ヒーローたり得るのである。
 世代を越えて、若い人にもアニメソングがアピールする理由は、この辺りにありそうだ。
 普遍的といってもいい価値のあることばでつづられた歌詞が、耳で聴いて心地よく、刺激的なサウンドに乗って歌われる。
 しかも、歌ってみて気持ちいい。
 非日常的なことばを、堂々と使える気持ちよさ。
 しかし、裏返すと非日常的なものというのは、なにかが突出して普通とは違うということでもあり、ちょっと視点をずらすと「恥ずかしい」ものに変貌してしまう。
 目立つことはかっこよくて、気持ちのいいことでもあるが、同時に恥ずかしいことでもある。
 わたしたちが70年代のアニメソングを「かっこいい」と同時に「恥ずかしい」と感じるのは、「気持ちいいこと」の表と裏だといいかえることもできるが、あの頃、すなわち70年代的価値観においては、具体的でストレートな表現をそのままダイレクトに受けとめられる素直さが、わたしたちにはあったのだ。
 子どもだったから、素直なのは当たり前と言えるかもしれないが、「正義」や「友情」といったことばが、確かに意味を持っていると信じられた時代だった。
 世の中が、今ほど混沌としていなかったというか、まだ、目指す方向がはっきりしていたというか。
 高度成長期からオイルショックといろいろあったけれど、「未来」ということばに漠然とした希望を、かろうじて抱けた時代でもあったのだ。

 もしかするとわたしたちは、そんな夢のような未来を信じていた、あの頃の自分たちのことを気恥ずかしいと思っているのかもしれない。

 わたしたちが、アニメソングを恥ずかしいと思う心の奥底には、70年代という未来があった時代への、ノスタルジーと憧れがあるのではないだろうか。