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読書感想文 テ・鉄輪


入江敦彦著「テ・鉄輪」
読了。現実と創作の交錯、織り交ぜられる現実にある光景がとてつもなく面白く、哀しい。大路小路の蜉蝣から沸き上がる人間の欲望や懊悩からくる幻想は時に美麗で時に残酷だ。

 過去と現在、虚構と現実、逢瀬と別離、欲望と絶望。この物語の舞台となる都は相反する二つのものが表裏一体となっている。そしてそれがとてつもなく美しい。
京都千本通り五辻のわたり。西陣生まれの濃い濃い京都人が書いた、幻想怪奇物語。
「追儺」に「おにはそと」というルビが振ってあって大変素晴らしい。意味するのはただの節分の豆まきであるのだが。
平安の朝廷で月卿雲客らが集って行った追儺式に己の四季折々の行動を擬える、まるで己が千年前のやんごとなき都人であると思っている。それは、確かな根拠と憧憬の入り交じった、自慢とどこからともなく来る宿命、京都の人間にしか書けない感覚。王朝の美意識に憧れいつだって回帰し回想、実体験するには時空の隔たりがあるようでないようで、そんな都に生きる人間のヤヤコシイ人間と京都という意志を持った都市と、怪異の事情がこの小説の主題である。

この都は死者との距離が近すぎないか。ふとそう思う。節分から春祭り、盂蘭盆会に秋。春夏秋冬、念仏狂言をやっている。それほど懇ろに供養しなければならないほどこの都大路には妄執に駆られた亡者がひしめいているのだろうか。

 鎮魂の為の念仏狂言は生者ではなく死者達のもの。京の春を彩る舞妓芸妓達の舞台は、甘味料を纏ったどこまでも人工美の虚構の夢の女による一幕である。

 この小説の主人公が構える店。松原、洛中のやや下の方にある何の変哲もない京都ネイティブの住まう小さな小さな路地にそのキャフェーは在る。
店の主は関水キリ(せきみ きり)関もキリも物事の区切りを彷彿とさせる特にこの関は此の世とあの世の関黄泉平坂の関ではないかと思ってしまう。
彼女は一人の、飄々とした摑みどころのない何の変哲もない京女(京女には稀によくこう言う人物が居る。よぅ知らんけど。)

それは、謡曲にも残る、旦那に裏切られた故に鬼女に豹変してしまった鉄輪の女の依代である。この都市には、ただ現代に生きている何の変哲もない人物に過去の、歴史的人物や過去の事象がオーバーラップして憑依しているのではないかと思われる事がある。遊戯王のもう一人の僕を宿した武藤遊戯が大量にいる都市だと思ってもらえれば良い。いやヒカルの碁の方が適当かもしれない。


都人達は、己の産まれてもなかった時代、天皇さんが東に去にはった時代の屈辱を生々しく覚え、街中が焼け野原になった先の大戦“応仁の乱”を見て来たように語る。

 此の都に産まれたものは絢爛豪華、庭に桜花が爛漫に咲き誇り、黄櫨染に薫き染めた主上の薫香が馥郁と香る内裏の、王朝文学の夢の世界を、理想だと信じている。
 そうして、自分たちは平安の月卿雲客の子孫なのだと。それは連綿と受け継がれて来た祭礼や、日常に潜む毎晩のお菜であったり、棲んでいる通りの名であったり、面倒な言葉のやり取りや因習であったり。解り易いものは季節ごとに店先に並ぶ和菓子、染織、陶芸漆芸、或いは千年間職を守り続けて来た有職、花街に守られ続けて来た美意識であろう。

 その美意識の根源は源氏物語や伊勢物語、歌枕だったりする。蟠り眠り続けて来たそれがたとえば俵屋宗達や尾形光琳。近代では神坂雪佳、上村松園の絵筆を借りて突然に爆発、開花する事だってある。もっともっと書ききれない文学でも美術でも芸能であれ、沢山の風流人、雅に取りつかれた人間は居る。
 宮脇売扇庵の花天井はそんな雅に取りつかれた都人達の博覧会だ。


京都人は美しい檻に棲んでいると言ったのはフェロノサだそうで、これは著者が他の本「怖い怖い京都教えます」だったかで述べている。

 そして、都人達は此の都に対して何らかの役目を背負っている。
それは自覚しているものと与えられて自覚する間もなくそうなって仕舞っている場合がある。この物語の主人公であるセンセと関水キリもそうであろう。

入江センセは京のまち歩きやら、おいしいもんやらの紀行文やエッセイが多いけれど、このセンセが倫理や道理を無視したどこまでも残酷で血肉の薫ような残虐や、牡丹の花に止まる胡蝶や女郎蜘蛛、因果を抱いて散る西陣聖天の御衣黄や、閻魔堂の普賢象桜のような背徳的な耽美な場面をその彩管のような筆致で描いたのなら、その文を見てみたい、と思う読者の幻覚は最も酷な形で叶った事となる

彼女の店には斬りたくても己の力では到底切れない縁を持った人々が訪れる。縁切りの井戸とされている鉄輪の井戸の水を求めてである。

その縁切りは一筋縄ではいかない。人間の欲と嘆願とそれぞれが身に宿している人ならざる過去に住み、京都の魔力で浮かび上がる人であった何か、や神や仏がそれぞれに乗り移り不可思議な呪いを巻き起こす。

 織機の音が往来する下長者町に生まれ、世が世なら俵屋宗達や尾形光琳、と同じ職である扇絵師の親を見て育った。
 知らず知らずのうちに王朝美の理想への回帰というような意識は己の中に降り積もり、此の美の都に何かしらの役目が己にもあると思うのだ。此の美の都の美を愛し、己もそれを奉じ、いつか一歩間違えれば殉じるというような。

「金繍忌」と「施画鬼」はその美に殉じてしまった人の哀しい物語。

「あの子は死んだのではない」「あるべき姿になる為に壊されたのだ」「京という都市が望む王朝美への回帰を果たす為に」

産まれたばかりの赤子を不慮の事故で失った青年金継を得意とする骨董の目利きかつアーティストである彼の、どこまでも純真で取りつかれたかのような歪な解釈。

取りつかれて、飲み込まれたらこうなるのだと言うような。


さて「修羅霊」という話の中に印象的な台詞がある。


「金比羅さんは、もともと【クンビーラ】ちゆうインドの神さんでな」
「ガンジス川に住む鰐を神格化したもんやったそうな。敵をどこまでも追って、外法かけてシュシュシュと波を掻き分けて進む、修羅・羅刹の【乗り船】でもあるそうや。そら、見込まれたら逃げられまへんわなぁ」という台詞がある。

あ、怖。という感じだが神仏との距離の近い京都人はご利益や功徳をサプリメントや健康補助食品みたいに思っている。
目の病気には「目疾地蔵」、身代わりなら「矢田寺」苦しみを抜いてくださる「釘抜き地蔵」。
学問成就と雷除けは「天神さん」
芸事上達は車折の芸能神社に御所の白雲神社に、厳島弁財天。商売繁盛の戎神社に豊國神社。
 最近の流行は粟田神社や鍛冶神社に鍛冶稲荷に花山稲荷だろうか。

だからね、安井金比羅神社は効く。それ故に己の諸事情、お相手のプライベートお構いなしの絵馬の内容が閲覧できたりする。絵馬覗きは愉快な趣味だが、その強い願いから来る怨恨の念の欠片のようなものを受ける事もあるような気がするので矢田寺と安井金刀比羅神社は注意して欲しい。

悪縁を絶ち良縁を結ぶ神様、しかも崇徳上皇が讃岐で熱心にお籠りになられたのが金比羅神社だという。
 私もイケメンな艦乗りの恋人に出会えますようにとでも願掛けしに行こうか。お礼参りは欠かしゃせぬ・・・と歌われるのは北野天満宮、だが。

京都人は神仏との距離が近い、そして時間的感覚は平安時代とは陸続きで不意にその魂が憑依する事がある。そして過去と現在の境目も曖昧で、往来にはすぐ彼岸の陰が滲む。それ故に不可解な怪異じみた悲劇が起きる。この都市は、切れへん縁を切ってくれる装置、自浄作用を必要とする、その役目を背を和され、よりしろにされたり水先案内人にされたりする人間が居る。

京の都は、この都自身も、棲む人間も業と因果から逃れられない。

その京の都を維持して行く為に都自体がとんでもない怪物可否とか解らないギリギリのナニかをうみだすか、イッちゃっている人が図らずもその役目を果たしてしまうのか。

そんな幻想譚がこの小説だ。

此の都は恐ろしい。そして深い。そして誰よりも可愛くて可憐、美しい。
妖艶。

京都は永遠の魔性の女なのだ。
恋をしてしまったら最後。
魅入られてしまえば終わり。
愛してしまったら地獄。

身を焦がし破滅へ向かう恋程、酩酊しているときがあまりにも甘美なのだ。その縁を断ち切ろうとすると更にもがき苦しむ事になる。

さて、縁切りカフェへおこしやす。


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