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桜花奏 ➖蒔田慈音の少年の日➖


 ――ストラディヴァリウス。

 いつもそばにあったヴァイオリン。
 先祖代々大事に受け継がれてきたもので、唯一の友である。
 ふと顔をあげ、壁に埋め込まれた鏡を見ると、そこには常々劣等感に苛まれることになった日本人離れした情けない表情の顔があった。
 苦笑する。
 明日は士官学校の入寮の日である。
 その支度をしているところで、友との別れ難さに作業の手が止まっていたのだった。

 ……君を置いていかなければならない。

 なかなか決心がつかなかった。

 ***

 幼き頃――。
 小学校には通わせてもらえず、日参する家庭教師たちの授業を受けるという日々を過ごしていた。
 自分とは違い、弟は通学を許されていて、弟が語る学校での出来事、それから親しくなった友人たちのことなどが羨ましく、友達というものに憧れ続けた。そんなある時、

 ――僕がいるよ。

 大人用のヴァイオリンケースからそう声が聞こえた。

「え?」

 恐る恐る蓋を開けると、傷一つない美しい木目の琥珀色をしたヴァイオリンが姿を現す。

 ――こんにちは。僕が君の友達だよ。

「君が? 友達?」

 ――そう。僕の名前は、キング・マキシミリアン。よろしくね。君は、もう子供用のものではなく、僕が弾けるんじゃないかな。

「名前があるの? キング? マキシミリアン? ご先祖様と同じ名前?」

 ――ふふふ。それはちょっと違う。バイエルン大公のヨーゼフ・マキシミリアン様が気に入ってくださってご自分の名前をお付けになったんだ。そして、その後、ヨーゼフ様が君のご先祖様のマキシミリアン殿下に贈ったんだよ。

「へえ。マキシミリアン様が使っていたヴァイオリンなんだ……」

 ――君は、マキシミリアン殿下によく似ている。そっくりだよ。

 そう言われて、ぷいと横を向く。
 その昔、ヨーロッパから日本にやってきたという先祖の肖像画に似ていく自分の顔がいやだった。
 弟たちは日本人の顔立ちをしているのに、自分だけ異人のような顔で、それがたまらなく嫌だったのだ。

「……似たくなかったよ」

 ――どうして? とても美しいのに。

「とにかくいやなんだよ! すごく!」

 ――ふう。やれやれ、わがまま王子だな。まあ、いいや。ほら、持って。音を鳴らしてみて。

「大人用のヴァイオリンは初めてなんだ」

 ――大丈夫だよ。どうすればいい音が鳴るか僕が教えてやるから。

「うん」

 ――まずは音を合わせようか。

「うん。うわあ、大きい」

 ――大丈夫。ピアノの音を出して。

 言われるがままに近くのグランドピアノの蓋を開け、調弦用の音を出す。

 ――では、弓を乗せて。ほら、いくよ。

 弓を導かれるように弦の上に置くと、途端に信じられないほど美しいA音が響いていった。
 しばし呆然とする。

 ――うん、Aはこのままでいいね。

「今の。君が鳴らしたの?」

 肩から下ろし、浮き立つ気持ちを押さえられずにそう言った。

 ――何言っているのさ。君が弾いたんだろう?

「だって、今のはヴァイオリンの音じゃないよ」

 ――えっへん! これが僕の音さ。

「だって……」

 ――みんなはね、僕のことをヴァイオリンじゃなくてストラディヴァリウスという楽器だと言うんだよ。

「そ……」

 ――驚いた?

「うん、びっくりした! すごいね! すごいよ。マキシミリアン!」

 ――そうだろう? 気に入った?

「うん! すごく!」

 ――じゃ、これからたくさん遊ぼうね。

「うん!」

 そうして友達になったのだった。

 ***

 縋るように、恋い焦がれるように、必死に練習を重ねて習得していくと、マキシミリアンは以心伝心で応えてくれて、いつしか自分の身体の一部のようになっていった。
 周囲はヴァイオリンの天才だと騒ぎだしたが、それでも人前で演奏するという機会はなく、逆に、置かれた環境はますます厳しくなるばかりだった。
 弟たちとも距離を置かれるようになり、大人たちからは背負うものの重さを叩き込むように躾られ、多忙な両親に甘えることさえも許されず、「おりこう」でいることを求められた。
 それに否を訴える術などなかった。

 ――泣くなよ。笑いなよ。ほら、僕を弾いてごらん。きっと楽しくなるよ。

「私は独りぼっちなんだ。父様も母様も私が嫌いなんだ。きっとそうに決まってる」

 ――違うよ。

「どうして私は弟たちのように学校に行っちゃいけないの?」

 ――それは僕にもわからないけれど、きっと危険なことから君を守るためだよ。

「わかんないよ、ずるいよ。私は弟に生まれたかった! もう、こんなのいやだよ!」

 ――慈音(じおん)。君には僕がいるじゃないか。独りぼっちなんかじゃない。

 首を横に振る。

「……いつも独り言を言っているって誰かが父様に言ったんだ」

 ――ああ、君のことを見守っている人たちが心配したんだね。

「君と話をしているって言ったら、父様は近いうちにお医者様に来てもらうって言ったんだよ」

 ――そう。

「大人はみんな私がおかしいって言うんだ! じいやもばあやもねえやもみんな!」

 ――そうか。君はおかしくなんかないさ。

「誰もわかってくれないよ! 誰も!」

 ――慈音。僕が一番よくわかっているよ。

「マキシミリアン……。どうしてみんなには君が分からないのかな」

 ――それは……。

「君が話したことを言うと父様はとても悲しそうな顔をして、母様なんて泣くんだよ? そして謝るんだ。どうして? 謝る方がおかしいよね? 私はおかしくなんかないのに! おかしくなんてないのに!」

 ――慈音。

 大声をあげて床に伏して泣く。

 ――大人には僕の声が聞こえないんだよ。耳のせいなんだよ。大人になると聞こえなくなるんだ。

「本当に?」

 ――本当さ。だから僕も声をかけないんだ。

「父様が子供の時に声をかけなかったの?」

 ――うん、興味がなかったみたいで。でも、お祖父さまとはお話しをしたんだよ。

「そうだったの?」

 ――うん。大事にしてくれたよ。でもね、お祖父さんは誰にも僕のことを言わなかったんだ。言ったら取り上げられてしまう気がするからって。

「そうだったんだ」

 ――さあ。だから泣きやんで。大人の事情というものがあるんだから、仕方ないよ。

「大人になったら私も聞こえなくなる?」

 ――ううん。慈音は特別の耳を持っているから大丈夫だよ。

「聞こえなくならない?」

 ――ああ、きっと。

「約束できる?」

 ――約束するよ。

「うん。わかった」

 ――ほらほら、涙を拭いて。メンデルスゾーンを弾いてごらん。落ち着くから。

 鼻をすする。
 涙と鼻水でぐちゃぐちゃだった。

「…………モーツァルトがいい」

 ――はははは。はいはい。泣き虫王子。お好きなように。
 
 ***
 
 鏡から視線を落とし、抱き上げるように友を持つ。
 悲しみも喜びも全てを受け入れ、共に乗り越えてきた戦友でもあり、最も自分を理解してくれるかけがいのない無二の友であった。
 孤独の闇に取り囲まれても、弓を滑らせれば忽ち違う世界に飛ぶことができた。
 悲しみが襲った時、弦を弾くだけで一音一音に励まされ、いつしか心が軽くなっていった。

 ……この別れに自分は耐えられるのだろうか。

 こみ上げるものを堪え、明るい声を出す。

「さて、最後に何を弾きましょうか。マキシミリアン」

 ――君の好きなものを、慈音。

「シベリウス、チャイコフスキー、べートーヴェン……、うーん。何がいいだろう」

 ――では、僕からお願いしてもいいかな。

「ふふ。珍しいね。何がいいの?」

 ――BWV1001の2。

 ヨハン・セバスチャン・バッハの無伴奏ヴァイオリンソナタ第一番第2曲、フーガのことである。

 ――君に相応しい曲だと思うから。

「この曲が私に?」

 ――うん。君の豊かな感性を最も伝えやすい。

「そうなのですか?」

 照れくさくなる。

 ――それに……、窓を開けてくれるかな。花が咲いているみたいだから。

「いいですよ。よくわかりますね。庭の桜が満開だ」

 両開きの大きな窓を開くと春の息吹のような風が吹き抜けていく。
 同時に香りまで運んでくる。

 ――僕は空気と同化できるから。その花によく合っている曲だよ。

「承知しました。キング」

 ――嫌な呼び方。

「では何がよろしいでしょうか。王様」

 ――まったく皮肉野郎に育ったよ。

「恐れ入ります、陛下」

 ――ん、もう。さっさと調弦して!

 くすくすと笑いながら開放弦を鳴らしていく。

「はい。どうぞ。マキシミリアン」

 ――うん。では、始まりはその花の木の呼吸を表すように弾いてみて。

「木の呼吸だなんて斬新ですね、先生」

 ――この世に生きとし生けるもの、全てが呼吸をしている。それを互いに感じあう、そしてそれを表していけることが音楽の特性であり、価値のひとつであるからね。

「人も同じ生命体のひとつですね」

 ――人間の持つ力が最もすごい。怖いほどにね。

「前に演奏会が怖いって言っていたことが……」

 ――うん。怖いよ。人が多ければ多いほど空気が変わって、その空気も流動的で掴むのに苦労するからね。あれほどの力は他の生物から感じることはできない。

「ふ。人が怖いのは、私も同じだ」

 ――でも、君も人だ。

「そうだ……ね、残念ながら。ああ、私はとうとう君をそういう場所に連れていけなかった。それが残念です」

 ――大勢の人の前で演奏したかった?

「君をたくさんの人に見てもらいたかった。聴いて欲しかった」

 ――ありがとう。慈音。でもいいんだ。僕は今のままで十分なんだ。君と語り合えることに無上の喜びを感じているんだ。

 心が震える。

「……うん」

 鼻がつんとなり、紛らわすように窓の向こうの桜の木をみる。
 確かに何かが聞こえてくるような気がした。

 ――大地とつながる命の鼓動だよ。ほら、息を吸ってるよ。いい風が来る。さあ、入って。

「有り難いお客様ですね。では……」

 最初の音を鳴らす。
 とても自然な音となった。
 風にのったようなもともと自然界にあるような音である。
 桜の木がその音に気づいたように感じる。

 ――ほら。わかったみたいだよ。さあ、最高の演奏をしよう。

 了解、心の中でそうつぶやき、尖ったようなアクセントを用いたモチーフを弾いていく。
 その旋律に孤独で泣いていた自分の姿が浮かんでくる。
 その後のアルペジオはマキシミリアンが泣いている自分を励ますようである。
 くすりと笑う。

 ……私に相応しい曲ですか。

 ――ふふふ。本当はね、君と僕の物語。

 モチーフが変化していく。
 涙の数だけ成長する自分を表すように。
 それを支えるようなアルペジオ。
 繰り返されていくその形に、いつしか喜びがやってくる。

 ……ああ、面白いこともたくさんありましたね。マキシミリアン。

 ――うん、家の人たちが演奏を聴きたいって集まってきたことがあったね。

 ……みんなに君の音を聴いてもらいました。

 楽しかった思い出を和音で表現していく。
 短調でありながら、ほくそ笑んでいるように、二人の笑い声を隠すように、だから、クレッシェンドで盛り上げて、フォルテで!

 ――ふふふ。そう言えば、その時のみんなの驚いている顔が面白かったね。

 ……きっとあの時、みんなは君が喋っているということに納得したのでしょう。

 その後のアルペジオの軽快さはまるで踊っているようである。

 ……私がどれほど君が好きか、わかったのでしょう。

 ――慈音。

 変化するモチーフ。
 喜びの旋律に変わる。
 充実した日々を表すように。
 その後の様々なアルペジオは二人で過ごした日々を示すようである。
 ふたりで歩んできた日々。
 ふたりで時を刻んできた。
 心を溶け合わせて、心を同化させて、美しいものを感じて、儚さに憂いを感じて、いろいろなことを乗り越えていく強さに美徳があることを、それを作曲家が曲を通じて教えてくれていると学び、負けない心を育てた。

 ――バッハの真の気持ちはバッハにしかわからないけれど、こういう曲を書いたということでの困難さはわかるね。

 ……そうですね。だから皆、それぞれがそれぞれの困難に遭遇していて、そして乗り越えていっている。

 ――君に出会えてよかったよ、慈音。

 弓を持つ手が震える。

 ――しっかり弾いて。ほら、最後のアルペジオだ。

 フォルテのアルペジオ。
 まるでマキシミリアンの感謝の言葉のようである。
 スピードを落として、じっくりと弾く。

 ――ありがとう、慈音。

 駆け上がっていくようなクレッシェンドにマキシミリオンがその思いを音に変えていく。

 ――素晴らしい。実に素晴らしい音楽だ。

 ……マキシミリアン。

 涙が零れ落ちる。

 ――お別れだ。慈音。

 ……マキシミリアン!

 トリルを弾いた後、重厚な和音で曲は終わりを迎える。
 桜が拍手をしているかのように、そして、ともに泣いてくれているかのように花びらを散らしていた。

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