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虚しいという感情の構造。

マイナスな思考に陥ったら、私は自分へ言い聞かせるように「どうでもいいか」と考えるようにしていた。そうすることで自分自身に関連して繋がっていた出来事や、内容だったとしても、他人事のようにシラを切れた気になれて、気持ちが軽くなったようになるから。思い出せないが、いつのまにか、そんなフリを重ねるようになっていたし、気持ちを落ち着かせる為の癖として、できるようになっていたように思う。

一人になった時に、私は自然とマイナス思考へ陥りやすくなる。ろくでもないと感じられる考え方をするのは、生産性がないように思う。だから自分自身の有限である時間を、そんな生産性のない感想によって摩耗させて擦り減らしたくはないし、その他の必要性のある物事に対する意欲すら削がれてしまう気がするから。なるべく下手な考えで一日をブルーな気持ちにしたまま、無駄になってしまうくらいなら。早めに対処してしまえた方が、それはそれで良いと思っている。

生きていたら、しみじみと思わされるが。人間は大抵一度体験してみたことには慣れてしまえる強さがあるように。過去にあった似たような出来事が、もう一度この身に起きたとして、それがもう他人事の距離感にすら感じてしまうくらいに、心なんかが動かなくなっていくように思わされる。それが苦しさに対する抗体ができてしまったみたいな、そんな感覚としてあるように思える。

「なぜあの時、あれほど傷つくことができたのか?」それすらも繰り返しては思い出せなくなっていくようだ。だから、どうせ忘れて過ぎていく感情の、不必要だと思う苦痛な出来事にだけは早く慣れてしまえばいいと思える。得体の知れない突発的な感情に、一時的に飲み込まれそうになっていたとしても。それはもう過去にすれば、二度と同じようには味合わえることがないとなるなら。嫌なことになんて、早いうちに慣れてしまい、さっさと遠くにへと追いやるよう、今は楽になれば良いんだと思えてくる。

大抵のことになら、そうやって、すぐにでも気持ちが切り替えられる。この、どうでもいいと切り捨ててしまう行為は大抵のことには役立つ。ただそれでも、時々どうしようもないくらいに、そんなマイナス思考から抜け出せなくなる瞬間があって。そうした時は、やっぱり内心のどこかでは「どうでもよくない」と、思ってしまっている事なのだろうと解釈をしていた。

帰りの駅に向かうホームで、次に来る電車を待ちながら、乾ききった喉を潤すように水分を口に含んだ。響くアナウンスと、荷物を運ぶキャリーケースのガラガラと鳴らす音が、こんな無機質なホームをザワザワとさせているようにしていた。それを、その場に居た私は、集中するように聴いていた。人通りの多さを感じていて、それでもなお私は、まだ怖いくらいの虚しい感情でいっぱいになっている。

この場所に救いすらを感じないのは、きっと私も、他人も、この場ではお互いに「どうでもいい」と思っているし、思われているはず、だからだろう。こんなにも沢山の人に囲まれていながらも、自分自身も皆んなも、関わりなんてわざわざ持たないようにしている、お互いに孤立している存在なのだと感じさせられる。人がその場に居るとか、居ないとか、そんな物理的な要素だけでこの虚しさが埋まるわけでなかった。生きているだけ、それだけでは必要とされていない感覚の自覚をしているから、虚しさが迫ってくるのだろう。

これだけの人が居たとしても、拠り所のない居場所だと感じて思うのであれば、ここは自分の居場所ではない。私には一つ拠り所にしていた場所を失った、なんだかそうした虚しさを抱えていると、近くにいる他人に対しての見え方も変わってくるように思う。拠り所にしていた人から「どうでもいい」と切り捨てられた、さっきまでの出来事を嫌なくらい思い出して、彼も他人に変わったのだという感情を今に抱いていた。

気持ちが切り替わった人間は、興味があった人に対する執着する気持ちすらなくしてしまう。それでも私に関しては、まだ、気持ちの切り替わりのないまま彼と別れてしまった、気持ちよりも物理的な拒絶からくる、そんな未練が強く残っている。この気持ちが切り替わるのには、あとどれくらいの時間を要するのだろうかという不安にもなっていた。もしかすると、永遠にこのまま未練を残して、一生は終わってしまうんじゃないかと思わされるくらいに。必要以上に大切だと感じていたからこそ。真意とは裏腹のように失ったそんな喪失感を受けて、虚しさなんかが増大させられているんだろう。

そのような気持ちがあってから。本当に代えの効かない存在なんて、居ないのだろうとも考えさせられる。

彼にとって、私は不必要な存在に成り下がったということは。彼にはまた、新しい誰かとの出会いか何かでもあるのだろうと思う。そうして彼の隣に自分の存在が居なくなったとしても、そのうち代わりになる誰かが居ることになるのだろう。そうしたことがより私自身を虚しくさせる要因としてあるのだと思う。目を背けたくなるような現実なんてのは、過去にだけでなく、未来に対しても、不条理にも自分の価値の劣化が劣等感にへと繋がって、それを虚しさとして感情は表現してくる。

私自身に対しても同じことが言える。私にも新しい選択が増えたのだろうと思う、ただその考えに気持ちが、ここには追いついてはこない。非情だが無いものには無いと思うしかない。彼に私は必要ではなく、私にとって彼は必要ではなかった、そうした思い込みをするくらいで今は精一杯だ。この失ってもなお進む冷たい人間との摩擦が妙に、心をすり減らしていくように、どんどん虚しさを生み出していく。

虚しいというのは、必要としなくなるまで続く消費活動のようなもののように思う。全部が無くなるまで、ずっと続いていくようだ。

今日味わったこんな気持ちは、そのうちはどうでもよく感じてしまうことになるだろうと考えるけど。今の自分にとっては、本当はどうでもよくなかったことなのだ。

本当に虚しいのは、確かにあった感情を「どうでもいい」と思い始めだした時なのかもしれない。

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