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間延びした午後のようなまぶしさ

青年団若手自主企画vol.81 宮﨑企画『つかの間の道』(2020年1月12日19:30回@アトリエ春風舎)を観劇してきました。僕は、作演の宮﨑玲奈が上京以来長らく一緒に俳句をやってきた仲間のひとりであって、そして、彼女が俳句から離れていった過程を見てきました。

僕は演劇畑の人間ではないのですが、そして、現代演劇というものに関してごくごく僅かな体験しかないのですが、それでも作り手の呼吸を感じとることができたと思います。
それはキャストおよびスタッフの皆さんの技量によるところもあるのかもしれませんが、これまで時折感じていた”違和感”のようなものが、スッー……と霧の晴れるような思いがしました。


”繰り返す”ということ

舞台となる池袋、新木場、そして、このアトリエ春風舎のある小竹向原が、すべて有楽町線上にプロットされた街であるということ。

現実の都市と劇中の都市という次元、また春風舎そのものの建築構造を活かした役者の立ち回りという次元でも、フィクションとノンフィクションの輪郭を微妙にズラしながらダブらせていくような、構成的な演劇でした。

”違うけれども似ている、が繰り返してゆく”という感覚。間延びした午後のようなまぶしさとでもいうんでしょうか。「ここではないどこか」を欲望してはいるけれども、消費社会的な抒情と裏返しだったはずの「期待すること」を諦めている。tofubeatsが「ふめつのこころ(SLOWDOWN)」(4thアルバム『RUN』・2018)で歌ったいくつかのフレーズのもつ、駆け抜けるべき道もない世界の閉塞感を思ったりする。

「何かを待ってる時間のように長めに感じている」
「思ったより変わってはいけないし / そもそも変わりたいのかな?」
「大事な記憶 感触も 思い出せないし でも / 感情は無くなって 停滞感だけになって / 願い事が全部叶ってしまうより」

戯曲の下塗り自体は、ややもするとこの時代にあって素直すぎる嫌いはあるかもしれませんが。

とはいえ、その舞台上に配置された「さぼてん」や「靴」、それから、黒澤多生さんは「五本指ソックス」を履いていたかと思うんですが、そういったオブジェに対するフェティシズムを感じる余白が、観る側には残されていたように思います。特に僕が観た回の五本指ソックス(たぶん、五指に岐れていたと思うんですが・・・)には、いたく感心しました。


「人の道」と「つかの間の道」

アフタートーク中にウンゲツィーファ主宰の本橋龍さんがペットボトルの蓋を開けようとしながら、口をつけることなく途中で閉め直して話し出す、というような行動をとっていた記憶があるのですが、人間はそういうことをする。

演出としてもそういう人間の無意識性が劇中にちりばめられていて、後景にあるはずのオブジェや行為が、ぐっと前景化するような進行のところどころに、恐らく宮﨑が摂取してきたであろう短詩型の匂いが、フランベされているような、そんな作品でありました(もっとも、別の表現領域、それこそ映画や小説、もちろん現代口語演劇の先行作を参照していることは当然でしょうが)。

例えば、南風盛もえさんの台詞には佐藤文香の〈知らない町の吹雪のなかは知っている〉(『君に目があり見開かれ』所収・港の人・2014)を想起させる断片があったり、ハクビシンのエピソードなどは鴇田智哉の文章(「ふらんす堂通信」145号所収 田中裕明賞受賞記念特別寄稿「いること」・2015)を思わせるところがありました。

アフタートークで観客のひとりから話題に上った「劇中で黒澤多生さんが示すハクビシンのサイズが大きすぎる」というような感覚、我々ひとりひとりの中での「ハクビシン観」みたいなもののブレとズレ、そういうブレとズレをやりとりしながら暮らしが形成されているということ。

それから、池袋のエピソード、サンシャインシティと東池袋中央公園のくだりは、明らかに斉藤斎藤『人の道、死ぬと町』(短歌研究社・2016)を下敷きにしていました。

新木場サイドで発話される「夢の島」が飛行場予定地、海水浴場、ごみ処分場、公園とその用途が移り変わり、2020年、東京五輪会場のひとつになること。そしてそこに、第五福竜丸が展示されていること。

この場面で藤家矢麻刀さんが「流れつく」という動詞を発したことは、また、池袋サイドにも同様に照射されます。

巣鴨プリズンの記憶やその処刑場跡地が東池袋中央公園であること、江戸時代は寒村かつ辻斬りの頻発地域であったことや「池袋の女」といった俗信など、そのような地層の上に生活があり、そのような数々の時空を経由して、いま、われわれは、小竹向原に集まっている、のだということを、「突きつける」というよりも「漂わせている」のだと。劇中では池袋についてのそれらが語られることはありませんが、まず、どうしようもなく想起されてしまう。

東京を構成するそれぞれの街に対する宮﨑の興味は、宮﨑莉々香名義で作演を行なったムニ「川、くらめくくらい遠のく」(2018)で初めて強く打ち出された志向だったかと記憶していますが、「川、くらめくくらい遠のく」の観劇時に抱いた違和感は、「台詞が台詞であること」に起因していたような気がしています。

一方、今作では「台詞 / 声としての筋張り」のようなものが、うまく消化されていたように感じました。

その消化のための方策は、現代口語演劇においてはひとつの強力な「型」であることは間違いないのだけれども、「型」との距離感をどう捉えるか、という課題に対して今後どうアプローチしていくのか。それは、同様に短詩型文芸に関わる者として、興味を同じくするところです。

宮﨑玲奈として今回の公演を打った彼女が、俳句同人誌「円錐」「オルガン」からの暫くの沈黙ののち、2020年、年初の週刊俳句新年詠企画に宮﨑莉々香として〈正月も友達とゐて犬もゐる〉という句を寄せたことは、彼女なりに”距離感”というものを消化しはじめたことのあらわれなのかもしれないと、勝手に思ったりしました。


ものがたらないということ

物語には違いないのだけれども、「物語的」ではない方法で、何らかの、もっと断片として、語るということ。

韻文としての文芸作品を書いている自分にとっては、「物語でないこと」は少なからず誇りです。

現実においても、大きな物語に呑み込まれ、その物語では語り落とされかねないという危うさに対して、例えば「五本指ソックスであること」はひとつの抵抗なのだと、僕は考えます。

そういうものを書きとめていきたいというようなことをぼんやりと考えながら、有楽町線に乗り込み、コカ・コーラ(黒いラベルのゼロカロリーの方)を飲みながら、3年前に行ったカンボジアでのとある光景を思い出したり、しました。

ということを、書きとめておきたいと思います。

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