Re:8月の抜け毛

 蒸し器のなかで蒸されているシュウマイにでもなった気分になる、暑くて暑い夜。ありふれたボランティアサークルの活動を終え、最寄り駅に着くころには午後9時をまわっていた。せっかく都内の大学にしたのに、最寄り駅付近はなかなかの住宅街で月と星の輝きは地元と同じくらいでうんざりする。
 「暑い……」
私は独り言を呟いた。それくらい、暑いのだ。下着が透けないように着ているキャミソール一枚まで脱いでしまいたいほど暑い。さっさと一人暮らしをしているアパートに帰って冷房をつけようと思いながら夜道を歩いていると、あいつが通りかかった。
 片耳が少し欠けている、サバトラ柄の猫。いつも性格の悪そうな目をしているけれど、一人暮らしの身である私はこっそり親近感をわかせて、トラちゃんと呼んでいる。
「トラちゃん、最近どう?」
私はバイトでせっせと貯めたお金で買った、サマンサタバサのバッグから100円ショップのビニール袋を取り出した。トラちゃんはがさごそとしたビニール袋の擦れ合う音でこちらに近づいてきた。相変わらず目つきは悪い。
「そんな悪い目をしてる子には、あげないよー」
トラちゃんはこちらに歩み寄ると、体を私の足にこすりつけはじめた。いつものトラちゃんのおねだりの仕方だ。
「しょうがないなー、あげるよ」
私はそう言うと、袋から猫用クッキーを取り出した。かつおの風味がするらしいが、そんな匂いは感じない。これも私のバイト代から捻出している。貧乏学生なのに無駄遣いであるとは思っている。
 『ぎゅー』
変な鳴き声。この鳴き方はおやつが欲しいときの鳴き方だ。私は一枚取り出して、手のひらに乗せてしゃがんだ。
トラちゃんはのっそりとした動作でクッキーをくわえた。いつもは奪うようにして食べるのに、今日は様子が違う。
「どうしたの、トラちゃん」
私はトラちゃんの顔を覗き込んだ。一応、クッキーを食べることに夢中らしく、こちらのことには一切目をやらない。
「あれ」
私はトラちゃんの口の端に、ピンク色の何かが付いていることに気付いた。これ、何だろう。
「トラちゃん、別の人に何かもらったの」
『ぎゅー』
私の少し寂しい気持ちは無視して、おやつの催促ですか。私はもう一枚、クッキー手のひらに乗せた。また、のっそりとした動作でクッキーをかじる。
 「もー」
最近、彼氏もサークルの子にとられたので、気分は悪い。トラちゃんまで私を。
 「トラちゃんは野良だもんね」
私はわしわしとトラちゃんの頭を撫でた。それはもう、豪快に。
「トラちゃんは、みんなのアイドルだもんね」
『ぎゅー』
返事をしているかのようなタイミングで、おやつの催促をされた。私は思わず噴き出した。動物への笑いの沸点は何故か浅いものだ。
「はいはい、もう一枚ね。これで最後」
私はまた手のひらにクッキーを乗せた。トラちゃんがクッキーをもそもそと食べてる間、私は体じゅうを撫でまわした。
「じゃあ、またね、トラちゃん」
100円ショップの袋をサマンサタバサに入れ、肩にかけなおすと私は立ち上がった。トラちゃんに手を振ると、私はアパートへの道へ歩きだした。
 振った手には、トラちゃんの匂いと、トラちゃんの抜け毛。トラちゃんの細い毛は、きっと生え変わりのシーズンだからであろう。少し寂しいけれど、帰ったらちゃんと手を洗おう。
 アパートの扉を開け、手を洗い、クーラーが効いてきた頃には、トラちゃんの抜け毛のことはすっかり忘れていた。こんなふうに、元彼のことも忘れられたらいいのに。
 私はテレビをつけて、ストックの缶チューハイを開けた。

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