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HITSUJI2

 高校入学時の健康診断で、Cという診断を得てしまった。Cが出たのは歯でも内臓でもなく、心だった。ライトが上部に付いている長方形の枠の中を通りすぎるだけで、私の心の中まで『診断』されるのは不愉快だった。
 学校からのメッセージをもとに、医療機関を受診した。学校のすすめる医療機関を迷わず選択した。心のお医者さんなんて、どこが信頼できる医療機関がわからない。
 やわらかなオフホワイトの壁紙に、誰もいないカウンターはベージュの木目調。昔の老人ホームみたいな医療機関だった。
 「8番でお待ちの方、診察です」
私は白衣を着た人間に促されて、診察室に入り、着席した。
 「神田紫野さんですね。今日はどうされましたか」
医者はおだやかで真面目そうなフィメールに思われた。
「学校の健康診断で…」
私はCだったことが不服であったことと、何を言ってよいのかわからなかったことの二つの理由で文末を濁した。
「学校からのメールを読ませて頂きました。少し睡眠が不安定なようですね」
「毎日しっかり眠れていると思うんですけど……。毎日決まった時間に起きて、寝れています」
「神田さん、そこではないんです。睡眠の質が問題です。よく夢を見られるでしょう」
「確かに、毎日夢を見ています」
「起きてから行動するまでに時間がかかってしまうことってありませんか」
「あることが多いです」
別の白衣の人間がパソコンをかたかたと打つ音だけの時間が数秒あった。医者はふんふんと首を動かしている。
 「神田さんにはもう少し深い睡眠をとる必要があります」
医者は髪を耳にかけながら言った。
 「スマートフォンはお持ちですか」
「はい」
私は怪訝そうな顔をしただろう。医者はパソコンの隣に置いてあったスマートフォンを私に見せてきた。
「この、アプリなんですけど、見えますか」
「はい」
医者はおもむろにかわいく眠っている羊のアプリにタッチした。羊が起き上がり、二センチほどの立体になってぴょんと跳ねた。
「この羊さんは、睡眠の質を記録するアプリです。寝言もチェックできちゃうんですよ」
医者はにこりと笑った。
「このアプリを受付で処方してもらって下さい。毎日寝る前に、この羊さんを起こしてください。お昼寝をする場合もです。あとはその羊さんが仕事をします。記録に二週間設けましょうか。二週間後の今日、またここに来て下さい。羊さんにあなたの睡眠の質を聞きましょう。もちろん、羊さんは私に寝言の内容を教えることはありませんよ。羊さんとあなただけの秘密です」
立体の羊はうとうとしだしている。医者はその羊の立体を人差し指でちょんとつついた。羊はその場で眠り出し、丸くなったと同時に画面の中におさまった。
「寝言を聞きたいときは羊を起こして、頭を撫でてあげてください。困ったことがあっても同じです」
「わかりました」
「ではこれで診察は終わりです。お大事にどうぞ」
医者はにこりとまた笑った。大事にする必要なことなんてないのに、と私はまだ不服な気持ちを持っていた。
 診察室から出ると、誰もいなかったカウンターに人間がいた。
「8番の方、処方と会計です」
私は座る間もなく、カウンターに向かった。強い紫外線をカットするための帽子をかぶった。
「スマートフォンをこちらに」
私はスマートフォンをベージュの木目調の箱に入れた。肌触りは木にそっくりだ。
「会計は1,580円です」
「スマートフォンでいいですか」
「はい、構いません。アプリの処方と合わせて行いますので、こちらにサインを」
枠が木目調のパネルにタッチペンで丁寧に書いた。
「ありがとうございます。スマートフォンもお返しいたしますね。お大事にどうぞ」
私はスマートフォンを手にして、医療機関をあとにした。スマートフォンのなかでは、羊がすやすやと眠っている。
強い紫外線が降り注いでいるのに、羊の毛のように密に雲に覆われた空を見上げて、私はため息をついた。酸性雨まで降りそうな気配だ。
私はスマートフォンの電源をオフにした。

 玄関の扉を開け、紫外線から身を守るためのコートと帽子を脱いで、そばにあったポールハンガーにかけた。
「ママ、ただいま」
私は玄関の吹き抜けに声を張った。
「おかえり」
ママの興味のなさそうな返事が聞こえた。ママは居間でテレビを見ているようだった。面白くもない下世話なバラエティー番組。ママはちっとも笑わずに、画面を見つめているだけだ。
靴を脱いで、姿見の私を見つめた。姿見は私の健康状態を表示した。相変わらず、心の健康はCのままだ。不愉快。
 私の好きな色であるやわらかな黄色、クリーム色と言ったほうが良いのか、その色調でまとめられた自室に入り、私はお気に入りのソファに座った。隣には幼稚園の頃からの相棒の大きなうさぎがちょこんと座っている。ところどころグレーになり、汚れが目立つようになってしまったが、週に一度は洗濯をしている。
 私はそのうさぎを抱きしめて、スマートフォンの電源を入れた。すぐさまグレーの林檎が映し出された後、ホーム画面に切り替わった。お気に入りのうさぎの画像を踏んづけるようにアプリを配列させるのが嫌だったので、ホーム画面にあるアプリは三つだけだ。高校の公式アプリと連絡帳、それから今日処方されたばかりの羊。
 私は試しに羊をタップした。
 羊は眠そうに眼をこすりながら起き上がり、画面から飛び出した。
「はじめまして、僕の名前は……、そうだ、僕の名前はまだないんだった。君が名付けてくれないかい」
可哀想な羊。名前もないなんて。
「じゃあ、メル。あなたはメルって名前だよ」
「ありがとう。素敵な名前を付けてくれたね。僕は君をなんて呼べばいいかい」
「シノって呼んで」
「わかったよ、シノ!今日からメルとシノは友達だよ」
勝手に友達が出来てしまった。
「シノ、今日はお昼寝でもするのかい」
スマートフォンの右上に表示されている時間は14時32分。土曜日だから、学校もないし、病院に行く予定しか入れていなかったからもうタスクもない。
「そうね。お昼寝するわ」
「それじゃあ、僕をシノの枕の横に置いてくれるかな。何かあったら呼んでね!」
「わかった。おやすみ、メル」
「おやすみ、シノ」
私はクリーム色の掛布団をかぶった。病院に行ったので緊張してしまったらしい。部屋着に着替えるのも煩わしく、そのまま横になった。
 もし、この羊が新しくできた高校の友人に見つかってしまったら、どう思われるだろうか。友人たちに心の健康がCだと知られてしまったら、軽蔑されるだろうか。そんな不安がのしかかって、私は眠りに落ちた。

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