サイード・ハウワー「イスラーム的自由とは何か」

サイード・ハウワー(1989年没)

 シリア・ムスリム同胞団の70年代後半~80年代前半における中心的イデオローグ。ムスリム同胞団のイデオローグの中でも特に多作家であり、内容はイスラーム信仰の基礎からイスラーム運動の具体的戦略まで多岐に渡る。スーフィー教団との関わりも深く、『我々の精神的教育法』や『篤信者の階梯』等スーフィズムに関する著作も残している。


「自由(hurriya)」

 不信仰者の社会では「自由」というスローガンが高く掲げられている。共産主義体制にあるような国家が何を行ってもよいという「国家の自由」、人は何よりも経済活、政治、行動の自由を望むとの認識から民主主義体制にあるような「民と国家の自由」の膾炙によって、人は至高の目的として動物的な生活を望むようになり、動物のように服をその身から剥ぎ取り、動物のように同棲するまでになったのである。彼らの嗜好すべては動物的なものとなってしまっている。

 一方でイスラーム的社会における「自由」とはそのようなものとは正反対である。イスラーム的社会では個人のレベルにおいても国家のレベルにおいてもまず何よりもアッラーへの従属性と、イスラームと固く繋がるイスラーム法の規範をスローガンに掲げる。ムスリムとムスリム社会の安らぎと望みは、政治、社会、経済、日常の実践あらゆる側面においてアッラー唯独りに帰依し、かの御方の命令に従うことにのみ存在する。したがって、ムスリムはアッラーへの従属を説く法に従い、それを義務となし、(人間が法に従うことを)彼を創造したアッラーの権利とみなすのである。このような僕性(ウブーディーヤ)は、万物をかの御方への帰依に用いるという、人間の峻厳なるアッラーへの感謝の実践として顕れる。そしてここに、ムスリムと不信仰者の道は分かたれるのだ。不信仰者とは、万象を創造主の存在の忘却のために利用するが、ムスリムは食べる時も飲む時も服を着る時も感嘆の声を漏らす時も病に苦しむ時もこの真理を守りアッラーへの従属を唱えるのである。イスラーム的社会における自由とはイスラーム(法)の施行の中に存在するムスリムの自由に他ならない。

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