教育実習を経て

教育実習の中でいったい何が学びになったのかを考えたい。おそらく子どもの実際・事実から考えるということである。教師ができることはおそらく限りがある。その限りは授業のデザインだけであろう。また,学ぶ場の準備以外他にはないであろう。では,教師は授業で何をするのか。それは子どもの事実からどこに躓きがあるのか。どこに学びが生まれているのか。そしてその学びはどのように広がっているのかを子どもの事実から考えることではないだろうか。他の実習生との反省会においてかなりギャップを感じたのだが,「黒板の字が云々」「話し方が云々」「個々の安全性は・・・?」「グループ構成は・・?」など授業の様子ではなく,授業の方法論の反省をする先生が多く見られた。それらの検討は指導案作成・指導の段階で終わっているはずである。また,検討会などで話すような内容ではない。

ここで授業観察について考えたい。教師がすべての子どもを見ることは限りなく不可能である。教師一人に対し30人ほどを見るなど到底かなわない。だが,そこで教師は教師でどこかで学びの機会を作らなくてはならない。では,授業観察を行う先生たちは何を見るのか,そしてどこを見るのか。私は教師の授業の学びは観察者にあると考えている。観察者は唯一関与せず授業を客観的に見ることができるのだ。だが,先のように表面だけを見ていては学びにならない。それは授業者の学びにも個人の学びにも,他の観察者の学びにもつながっていない。ではどこを観ればよいのか。それはその単元における本物・本質は何か。どのような学びを大切にするのか。自分が先生の立場に変わったならばどのように関わるのか。などが重要であるのではないかと思う。どこを大切にするのかというのはその単元の地を持つことである。その地は子どもたちが「躓き」や「変容」の中で見せてくれているのだ。だから教師はそこを見落としてはいけないのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?