見出し画像

すべて消したい、生きてるね

「同じ中の違う」か「違う中の同じ」か。
たくさんのバックランプの光を見て思った、同じ光を放つそれぞれ違う箱の中を想像してそう思った。
こんなことを今日ツイートした、
けどこれはただ単に感じたこと、例えば「あーなんかお腹空いた」と同じなので、何の生産性もない。だから、この感じたことから「私」を考察してみたい。堅苦しくないよ。

私は「違う中の同じ」に惹かれる。変わっている人、つまり人と違う人がまず気になる。単純に目を引くのもある。で、その人の「変わっているけれどみんなと同じところがある」ことに惹かれる。そこが自分と同じだとさらに惹かれて好きを感じるが、私は多分十分変わっているから私と同じでもみんなと同じことにはならないだろう。でも、それでも2人の間では"同じ"なのだから君も嬉しさ感じて欲しいよ。私はここにいるよ、って。君もみんなと違うことに少しでも不安や苦しみを感じたことがある人ならばわかるよね、。
「同じ中の違う」を見つける方がすごいな、難しいなと思う。私はだけど。まず、一見総合して多数派に見える人に興味持ちづらい。あと時間がかかる。
私は単純な人間だからね。きっと。てか間違い探しみたいに人を見たり評価したり、生きるのはつまんない!そんなの嫌だ!多面性がある生き物なのになんなんだよな〜。そこがギャップとか言って面白いんじゃんね。なにがみんなと同じでみんなと違う、だよ。どっちもないのに。だけど今の生きづらい私はどっちもあるように感じてしまっている。私はある一面を見て、「ああこの人はこういう人間で、ああいう場面ならああするタイプの人だな。」とか思いがち人間なんだけどそんなの嫌だ〜、って思うと同時にやっぱりそういう自分も好きだと思ったりする。というかそういう人が私は好き、になりやすい気がする。でも私はもうちょっとだけ、想像やデータで決めないでもっとちゃんと一人一人と関わっていけたら嬉しい。

ところで、好きってなにかな。好き
好き 好き 好き。
最近の私は「ここ(好きの上限)にいくのはまだだな」って、心の中の恋愛のバロメーターで好きの大きさを測っている気がする。それで、上限に達しないと"好き"と認定しない。上限に達することなんてあるのか、と思う。きっとない。ないのか、前はあったのにね。「その人のためならなんだってできる!優先順位は一位!」みたいな以前のような情熱がないことは、悲しいことのように思えてくる。けど、穏やかな恋愛よりかは情熱的で刺激的な恋愛をしたい。これ思ってるだけなのかな、わからない。
大人になったのかも、とも思う。好きの感じ方が変わったということ。同じ好きでも「やばいキュンキュンし過ぎて死ぬ!!」みたいな感じじゃなくて、「あ、好きだなぁ」くらいの感覚。情熱のなさに不安になるけどこれでいいんだ、きっと。ちゃんと好きだと願う。今好きな人いないけど。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?