「レ・ミゼラブル」たちの世界

少し前に、青年時代に折々心に移り行く由無し事をそこはかとなく書き付けていたノートを何冊か見つけ、読み返して、あの頃の灰色と言うか仄暗い(漆黒でも色鮮やかでもない)日々を思い起こしうんざりしてしまった。
何よりうんざりしたのは自分が今で言う「自己責任」だったり「新自由主義的」なことを書いていたことだ。曰く、今の自分はダメで、このままではジリ貧で、この状態から脱するためには強くならねば、変わらなければならない。変わろうともせず弱者に甘んじるべきではなく、まして弱者であることを権利のように振りかざすのは間違ってる云々。
黒歴史とはこのことだ。
鬱で会社を辞めたり、自分に発達障害的な傾向があることを知って以降、私のモノの見方は大分変わった。が、今の私からみてため息をつきたくなる様な言動を私自身していたという事実は、ネット上などで眉をひそめたくなるようなヘイト発言を繰り返す人達と私とは地続きということで、なんとも暗澹たる気持ちになる。
まあ、人間とはそういうものと、諦めるしか無いのだろう。

先日、家族みんなで「レ・ミゼラブル」のミュージカルを観た。
ダイナミックでパワフルで完成度が高い舞台はとにかく圧巻で、面白かった。エンターテイメントとはこれ、と言う感じ。
感想としてはそれ以上は無いのだけど、そこはそれ、観ながら感じたことをいくつか書いてみようと思う。

1.ミュージカルは情報圧縮度や感情刺激度が高い

ミュージカルを馬鹿にする人がよく言うのが「意味もなくなんで歌うんだ」と言う言葉。密やかなラブシーンなどで朗々と歌い踊る、いや、周りにバレるだろう…的な批判。
これに関しては、全く違和感を感じなかった。それは、いわゆるスタニスラフスキー・システム的な演技が混じってなかったからだと思う。ミュージカル調と言うか、高いレベルで徹底的に作られ磨かれた表現手法はやはりそれだけの価値がある。
併せて感じたのは、歌うことによる情報の圧縮効果と感情刺激効果だった。
ある一片の詩を表現しようとした時、一番効率が良いのはそれを読ませる、もしくは読んで聞かせることだと思う。それは、詩的な言葉は、現実を煮詰めたり削ぎ落として純粋化、抽象化したエッセンスを言語化したものだからだ。
ミュージカルは、詩を読むのに近い表現行為なのだと思う。現実にありそうなシーンを積み重ねるタイプの芝居に比べ、状況や心情が歌になることでギュと凝縮されているから展開が早く、感情を刺激する効果も高い。
ミュージカルだからこそ、この時間内でお話が完結できた。現実にありそうなシーンを積み重ねる芝居なら、エピソードをもっと削るか、十倍くらいの時間が必要ではないだろうか。
(もちろん、それ故の欠点もあるがそれはまた今度。)

2.随所に含まれる対比構造

この作品では随所に対比構造が存在したいる。
ざっと書くだけでも、
・テナルディエ夫妻に虐待されのちジャン・バルジャンに愛を持って養育されたコゼットと、テナルディエ夫妻に溺愛されたのちしのぎの道具扱いされるようになったエポニーヌの、マリウスを巡る関係の対比。
・家族のために罪を犯して犯罪者となり司祭の愛によって許すことや愛することに目覚めるジャン・バルジャンと、犯罪者の家族を持ちその反動で正義を盲信したがジャンに助けられ自分の正義を捻じ曲げたことで絶望するジャベールの対比。
・たくさんの人が死ぬ中で、最後に生き残るのが、誠実さを象徴する様なコゼット&マリウスと、欲望とか邪悪さとかを象徴する様なテナルディエ夫妻であること。
・最初に奴隷的な労働の中でジャンたちが絶望の中で歌う「下を見ろ」と言うフレーズが、暴動のシーンでは富者や権力者に対し自分たちを見ろという訴えとして同じく歌われること。
・最初の方でジャン・バルジャンは司祭から銀食器を奪ったが、最後のマリウスとコゼットの結婚式ではテナルディエ夫妻も同じく銀食器を奪おうとする。
・少年ガブローシュは原作ではテナルディエ夫妻の子供だが、不条理で悲惨な世界に対し、ガブローシュは革命を助けることで世界を変えようとし、テナルディエ夫妻は犯罪を犯しつつ世界に適応しようとする。
などなど。

こじつけっぽいものもあるけど、あるシーンを見ると必ず対立するような要素が組み込まれていたりする。
おそらく、世界を絶対的なものではなく相対的に表現するためではないかと思う。

3.神のみ心ではなく人の営為の全肯定

芝居の随所にキリスト教的要素が散見されるので、なんとなく神のみ心に従うべ的な物語に見えなくもないが、最後まで見て感じたのは、人の営為を全肯定する物語なのでは?ということだった。
会場がとても盛り上がり、かつ、個人的に非常にもやもやしたのがテナルディエ夫妻の宿屋のシーンだった。夫妻が力の限りを尽くして弱いものを食い物にしていく様は、個人的には嫌悪感や恐怖感に近いものを感じるシーンだったけど、会場は湧いていた。
同じ様に、暴動を起こすシーンでも、勇ましければ勇ましいほど悲劇的な結果しか思い浮かばず(実際悲劇的な結果になるわけだけど)、会場が盛り上がるほどに、私自身はそわそわしてしまった。

まあ、私の感じ方がおかしいのだとは思うが、加えて、これらのシーンこそがこの作品を象徴するシーンなのではないだろうか。

テナルディエ夫妻のシーンと暴動のシーンに共通するのは、どちらも自分の力を最大限に発揮しようとしてる人々が描かれていることだ。
悪の限りを尽くすことと、社会正義に身を尽くすこと。どちらも人の営為だ。そしてどちらのシーンでも「神は知らんぷりしてる」と言及される。

そう言えばと随所のシーンを思い返せば、どこにおいても神のみ心は描かれず、人の営為が描かれている。
そうか、だから「レ・ミゼラブル」なのかと胸落ちした。描かれる人々のほぼ全てが、惨めな、哀れな営為を繰り返している。神に一番近そうな司祭の行動(銀食器を盗んだ見ず知らずの前科ものに銀の燭台まであげちゃう)だって、冷静に考えれば愚行だ。教会に通う普通の信者からしたらうちの司祭さん何とちくるってんだと言いたくなる行為だ。だが、それをやらずにはいられなかったのだろう。
ジャン・バルジャンもジャベールもテナルディエ夫妻も暴動を起こした青年らも、みんな、それぞれの行動をやらずにいられなかった。
やらずにいられないことをやってしまうことは感情や情念に理性が負けたことであり、やるべきことやるべきでないことが厳然とある世界においては、惨めで哀れなこととされる。
そう、だから神から見たらみんな「レ・ミゼラブル」なのだ。ならそれでいいじゃないか。
そういう想いこそが、この作品のコアなんじゃないだろうか。

立川談志は落語を「人間の全肯定」だといった。愚かさも賢さも美しさも醜さも強さも弱さも全て有りとした上で成り立つ世界だと。
「レ・ミゼラブル」もそうした作品なんだと考えるとしっくり来る。

蛇足

でも、その先にあるのはなんだろうかと考えたら、私が昔ノートに書いたような、そしてまさに私達が今生きている自己責任論的世界なのではないだろうかと思うがどうか?
強きもの賢きものが、弱きもの劣るものを食い物にするのが当たり前…むしろ称賛される世界。神の名を口にすることが減ったくらいで、救われなさはあの物語世界と現実とあまり変わらない。

なんのことはない。私達は「レ・ミゼラブル」の一人なのだ。
としたら、観客は誰なのだろう?

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