なみなみの皿

【一】ドムドムハンバーガー

 箕面の滝が人工的に作られたものであるとか、マクドナルドの食品には特殊なコーティングが施されているから永久に腐らないとか、どこからともなく流れてくる突拍子もない都市伝説を聞くことがあるが、そういう類で言えば私はドムドムハンバーガーは存在しないと思っている。
 路肩にマクドナルドの食べさしや包装のごみが投げ捨てられているのは時々あってもドムドムハンバーガーのあのゾウのマークを草むらの中に見かけないし、ビッグドム食べたいなあというつぶやきを雑踏の中で聞いたこともなければ、ドムドムハンバーガーを食べながら歩いている人やドムドムハンバーガーで買ったものを広げてたむろしている集団をおよそ街中で見かけたことがない。

 私の中でドムドムハンバーガーが暫定的に虚構であるように、おかしな理屈ながら私には母親の存在が曖昧なのである。
 たいていの人は自分が産声をあげた瞬間を覚えていないように、私は七歳になるまで一緒に暮らしていたはずの母親の記憶が忽然と抜け落ちている。家族の風景を振り返る時、そこにいるのは兄と弟と離れた場所で物静かに微笑む父だけなのだ。
 父と母の七年間の結婚生活で、母が家族と過ごすのは年に数回だけだったらしい。仕事の都合で一年のほとんどは海外で暮らしていて、弟を産んでからはとくに忙しくて日本へ帰ってこれていなかったそうだ。だから私が母を覚えていないのも無理がないと兄は言う。
 母が本当にもう帰ってこないことを父が私たちに告げたのは、私にとっては小学校に通い出した春のことだった。なぜその日だったのか分からないけど、弟の二歳の誕生日に母は出て行ったらしい。

 佐賀県から神奈川県へ一家で引っ越してすぐに弟が生まれたから、つまり神奈川に来てもう十五年も経つのに一度もドムドムハンバーガーを見たことがない。
 父の実家が近いので箕面の滝には何度か行っているが人工的に作られたものという感じはちっともしないし、マクドナルドで働いているけど特殊なコーティングなんてもちろん行っていないのでハンバーガーもポテトもいずれは腐る。しかしながら、私にも母親が存在するという実感がどうしても持てないし、ドムドムハンバーガーはネッシーとかきさらぎ駅みたいな、皆がおもしろがって口にする実在の不確かなミームのように感じる。
 兄弟がリビングに揃っていたのでこの陰謀論を話してみたら、兄は苦笑して弟は呆れた顔をした。

「絵本のこととか覚えてないの?お母さんにゾウの絵本を読んでってしょっちゅうせがんでたよ」
「覚えてないなあ。それって渚じゃない?」
「渚には僕が読んであげてたからエレナで間違いない。まあ、覚えてなくてもしょうがないね」
 兄は少し寂しそうに言ってふたたび控えめな苦笑を浮かべた。私たちの中で母親のことをはっきり覚えているのは兄だけで、その兄が言うには母親は子煩悩では無かったものの人柄は良かったらしいからより複雑な思いがあるのだろう。
 ちょっと思い返してみればゾウの絵本があったことは朧げながら思い出せたが、やはり母親の記憶へ繋がることはない。

「じゃあエレナ、黄色いゾウのベッドカバーのことも覚えてないの?おれ用だったのにゾウがいいって泣いて欲しがるから、おれはお花柄のカバーになったのに」
「それは覚えてる。ごめんね」
「おれがファンシーに育ったのはあのベッドカバーのせいかも」
「じゃあ逞しく鍛えてあげるからマクドナルドにおいでよ。夕方からのシフト足りてないし」
「無理」
 弟はそそくさと逃げるように視線を手元のスマホへ戻した。弟が高校生になってから、兄も私も自分の職場へアルバイトに誘っているけど誰のところにも乗ってこない。部活に入っていないので放課後がまるまる空いていて、かと言って勉学に勤しむこともなく、服が欲しい靴が欲しい海外へ行きたいとうるさいのに働く気配は感じられない。
 今も私より綺麗な青白い手に花のような良い香りのするハンドクリームを塗っている。やって、と兄が手を出したら塗ってあげるような、素直なところもある。

 父の命日が近付くとリビングへ出てきて三人で過ごす。幸福なことに不自由ない広さの自分の部屋があるし生活リズムが違うから、ここへ集まるのは月に一度待ち合わせる時だけだ。毎月父の命日の十八日は揃って食事をしようということになっている。
 親子関係も兄弟仲も良い方だと思うけど、今だって同じ空間にいても各々好きなことをしているように、みんなで同じことをして過ごすというのが私たちは不得意だ。父が生きていた頃からそうだった。こうして家族が集まる場ではとくに父が言葉少なになって、子どもたちが気ままに過ごしているのを本を片手に眺めていた。

「それで、ドムドムハンバーガーって何?」
 気の抜けた兄の言葉に私と弟は顔を見合わせて笑って、母親の話はそれで終わった。


 私はその夜黄色いゾウのベッドカバーのことを思い出していた。さっきは黙っていたけれど、実は弟に言われるまであれはマクドナルドのロゴマークだと思っていた。
 考えてみれば子どもの頃マクドナルド柄のベッドカバーで寝ていた子が大人になってマクドナルドで働いているなんて愉快な話があれば兄弟の間で話題に出るはずだし、私自身がおもしろがって話していることだろう。長い間無意識にゾウを記憶から排除していた。子どもの頃のことではっきり覚えているのは真夜中でも明るい父の部屋と、黄色いゾウのベッドカバーのことだけなのに。

 私はしばらく考えて、寝つけなくなる前に身体を動かして心頭を滅却することにした。立ち上がって中腰になり、手を合わせて腕をゾウの鼻のように前へ伸ばしてして上下に動かす。ゾウのポーズは今でも覚えている簡単なヨガのひとつである。
 高校の卒業と同時に水泳は辞めて、そしたらひどい肩凝りがぶり返してきた。元来の万年肩凝りには子どもの頃から悩まされており、頭が痛くて眠れないと泣く私を心配した父が、どこかで効果があると耳にしてスイミングに通わせた。すると肩凝りも眠る前の不快感もあっさり消えた。
 水泳は単純に楽しくて、それからずっと続けていたのだけど、部活動を引退するとやはり泳ぐ回数がぐっと減った。市民プールは自由に泳げる場所がとても手狭で、ほとんどのレーンは水泳教室のために充てられている。破格の入場料だし、施設を維持する資金は水泳教室の授業料によるところが大きいのだろう。だから仕方がないのはわかっていても、のびのび泳げないと思うと足が遠のいて、また肩凝りとの付き合いが始まった。

 ヨガも父の試行錯誤の一環で体操教室へ通って覚えた。身体をほぐす目的で運動は諸々試して、私は水泳以外の競技があまり得意ではなかったから、他で楽しいと思ったのはこういうストレッチや体操だった。
 ゾウのポーズをとりながらベッドカバーの黄色いゾウと、ドムドムハンバーガーの赤いゾウを曖昧な姿で思い浮かべる。はたしてイラストレーションのゾウが好きだったのか。スタンダードに生物のゾウが好きだったのかもしれないし、ゾウという種族ではなく、その動物園にいる特定のゾウのことが好きだった可能性もある。
 私の記憶から消えてしまったゾウたちが群れを成しているが、なぜゾウが好きだったのかすら、それでも思い出せない。


「バイト先の近くに接骨院ができたんだけど、エレナ接骨院っていうんだって」
 翌朝リビングで微睡んでいると珈琲を落としていた兄が独り言を呟くように言った。兄弟で朝食をとるのは兄と私だけだ。兄が一番早起きで、私の起き抜けには珈琲を淹れてくれている。
 部活動で水泳をやっていた頃も大きな怪我をしたことがなく、かかりつけの接骨院というものがない。だからどこへ行ったものか悩んでいて、良い病院を知らないかと以前話題に出したのを兄は覚えていてくれたのだ。

 苗字の方ではなく、名前が自分と同じの接骨院というのは珍しい気がする。
 私の名前は中村絵麗奈という。なかなかに派手な字面で華やかな響きであるが、先に生まれた兄が端正な顔立ちだったので次女の私も見目麗しく育つ自信があったのだろう。はばかりながら私も兄ほどではないにせよ容姿の美しさを受け継いだので、絢爛さに引け目を感じることなく自分の名前として自然に受け入れている。
 さすがに漢字は違うだろうけど、その接骨院にゆかりがある人もエレナというのかもしれない。(人とは限らない、飼犬とか飼猫だったりして。)私はすっかり興味が湧いた。

「そこにしようかな。ロイホのすぐ近く?」
「前は歯医者だったところ。車の出入りが多いし、今度こそ続くんじゃないかな」
 兄の働いているファミレスの近くに、通りかかる度にテナントが入れ替わっている魔の一角がある。駅前から徒歩圏外にはあるのだが、大通りを逸れて住宅街へ入っていくので、立地的に店を選ぶのだろう。

「口コミはまだないみたい。お兄ちゃんの職場の人とか、だれか通ってない?」
 早速検索してみたが、エレナ接骨院の評判は見当たらなかった。それどころか、開業したてでインターネット関係は後回しにしているのか、魔の一角の住所で検索しているのになぜか佐賀県にある「三神接骨院」のホームページがサジェストの一番上に表示される。系列店なのか、もしくはエレナ接骨院へ名前を変えて移店してきたのかもしれない。

「パートさんが通い出したよ。それで聞いたんだけど、美人の先生らしい」
「美人?それならマッサージとかエステサロンじゃなくて?」
「接骨院。それで受付とか助手じゃなくて、院長」
 私は技術の上手い下手という意味での良い接骨院を探していたのだけど、兄の選択の基準は見た目だった。
 血は争えず私も美しい人が好きだ。エレナ接骨院に行くことにした。


「電気治療のあとプールに行ったら、だれかが感電したりしないでしょうか」
 私は真剣に尋ねたのに、坂木さんは大笑いして相手にしてくれない。午後の穏やかな院内に坂木さんの野太い笑い声がこだましている。あまりにも白衣が似合うし貫禄があるからよく間違われるそうだけど、この坂木という体格と愛想の良い男性は助手で、エレナ接骨院の院長は「三神先生」という大変美しい女性だ。
 筋肉をほぐすために電気を流すパッドが外れると、緊張から一気に解かれて診察台の上で大の字になって脱力したくなる。泳ぎ疲れるのに似ていて心地よいので、私は電気治療が終わると条件反射でプールに行きたくなる。元はといえば水泳から足が遠のいたから接骨院への通院が始まったのに思わぬ効果があった。

「三神先生とあとで調べてみるよ。まあ、今日のところはプールはよして、ウォーターベッドにしておいて」
 坂木さんは私をウォーターベッドに寝かせると、かけ足気味に電気治療の施術台の方へ戻った。
 兄の言葉通りエレナ接骨院は繁盛していて、昼時は住宅街のご老人たちが順番を待ち、夕方にはそこへ学生や社会人も加わり、かつて魔の一角だったとは信じがたい盛況だ。
 そのようにエレナ接骨院はいつも混み合っているので、美人の院長と会話らしい会話をしたのは通院を始めてずいぶん経ってからのことだった。もちろん施術に関係のある話はそれまでもしていたけど、ある日の施術中、三神先生が唐突に私の名前を呼んだ。
「中村絵麗奈さん」ふと思い出した言葉を声に出して確かめるように、三神先生は呟いた。

「もしかして名前でうちを選んでくれましたか?」
「そうなんです。兄からここのことを聞いて、おもしろい偶然だと思って」
 美人の先生がいると聞きまして、と言うのも不躾でどうかと思ったので当初の会話から抜粋して答えた。
 それであの時首をかしげたことを思い出した。エレナ接骨院を検索しているのに、佐賀県にある三神接骨院のホームページへ繋がったことだ。漢字も同じ「三神先生」だけど、あちらの院長の名前は男性名だったと思う。そういえばまだ、三神先生の名前を知らない。

「もしかして先生もエレナさんですか?」
「いいえ」三神先生はひかえめに首を振った。
「エレナというのは佐賀にあるローカルスーパーの名前なんです。赤いゾウのマークの」
 スーパーの名前をどうして接骨院に?おそらく何度も聞かれたであろう、誰もが疑問に思うであろうことを尋ねる前に、けたたましく医院の電話が鳴って会話は打ち切られた。

「あとは坂木くんが見てくれます。それじゃあ、続きはまたね」
 私は強烈なフラッシュバックに苛まれた。続きはまたね、私はその続きを知っている気がしてならない。三神先生は美しく微笑んで去って行った。
 佐賀のローカルスーパーのエレナ、赤いゾウのマーク。私はどうしてもドムドムハンバーガーのゾウのマークを思い浮かべる。
 やっぱり電気治療のあとも、まだ身体に電流が残っているようだった。


 水泳を始めるまで、ひどい肩凝りのせいもあって、私は寝つきの悪い子どもだった。週末の夜なんかに兄弟でテレビを見ている途中で眠くなって、一番に部屋へ戻ってベッドで横になったのに、寝つけなくてリビングへ戻ってみれば誰もいなくなっていた、なんてことがよくあった。そんな時は慌てて父の部屋へ逃げ込んだ。父は灯りをつけたまま眠る妙な癖があって、真夜中でも明るい部屋で父の姿を確かめると私はとても安心した。      
 父がまだ起きていたり起きて私がいるのに気付いた時は、マザー・グースだとかジャングル・ブックだとかを子守唄のように聞かせてくれた。それでもなかなか眠ろうとしない私に、続きはまたね、と言い聞かせるのだった。
 帰ってすぐに私は三神先生の言っていた佐賀のローカルスーパー「エレナ」を調べて、テーマソングを聴いた。曲名は「ゾウが飛んでいた」。私はこの曲を聴いたことがある。御伽話をひとしきり語り終えたあと、父がハミングするのはこの曲だった。

 父が死んだのは真昼のジュンク堂だった。詳細に言えば、勤務していたジュンク堂の駐車場に停車した自家用車の車内で心臓発作を起こして死亡した。隣に車を停めた顔見知りの常連客が不審に思って救急車を呼んだ。眠っているにしては父らしくない、まるでやぶれかぶれに倒れこんだような妙な体制で、窓を叩いてみても一向に目を覚さないので、気絶しているのではと思ったのだそうだ。
 店は一時的にパニックだったらしいし、地域の新聞にも小さく記事が乗ったけど、世の中にとって父の死は数多にある死のひとつであり、もっと大きな事故や事件の影に覆われてたちまち忘れられていった。

 父の両親はもういなかったし、私たち兄弟の知るところでは親しい友達付き合いもないようだった。だから父の死はとても静かなものだったけど、それでもジュンク堂の人や言葉を交わしていた常連客、親交があったらしい個人書店の店主だったり、三年経った今でも命日が近付くと線香をあげに来てくれる人たちがいるので、寂しい人生だったということはない。

 遺影とは別に飾られた、丸い小さなフォトフレームに入った父の写真は、私の高校の入学式の日に校門の前で並んで撮った家族写真から切り抜いたものだ。それがきちんとした服装をしている父の、最後の姿を納めた写真だった。
 アルバムを作ったり、わざわざ飾ったりはしなかったけど、父はインスタントカメラで家族の写真を撮るのが好きだった。しかし母親の写っている家族写真は一枚も無い。誰かが意図的に処分したのか、持ち去ったのだろう。母は家を出て行った際にお金のことで父方の祖父母、つまり父の両親とひどく揉めたそうで、禍根があるから母親について詮索するのは昔からタブーだった。
 とはいえ私は父に尋ねたことがある。「お母さんはどんな人だった?」と。弟だって一度は父に聞いただろう。父は遠い景色を慈しむように少し目尻を下げて、「美しい人」と答えるのだった。


 私は包装はそのままながら一応は皿に乗せたマクドナルドのハンバーガーとアップルパイを仏壇に供えた。献花台の役割を担っている小さなサイドテーブルには、父の好きだった本や好きそうな本が並んで、命日前後は仏壇が本棚のようになる。読書家だったのは誰もが知るところなのでみんな本を供える。それならば私くらいは食べ物にしようと、マクドナルドで父が好きだったメニューを選んでいる。

 父がマクドナルドで頼むメニューはいつも決まってハンバーガーとアップルパイだった。私が働いている店舗にも時々来て、どの時間帯に来ても、どんな時でもその注文だった。従業員はたいがい追われるように業務をこなしていて注文内容を気にするどころではないし、変わってはいるけどヘンとも言えない注文なので誰かが指摘することはなかった。ハンバーガーとアップルパイの注文の伝票を見ると、父が来たのだなと分かって私はカウンター越しに姿を探した。

 ふすまの開く音に振り返ったら兄だった。上品な包装紙にリボンのかかった縦長のプレゼント箱を持っている。父の命日には子どもたちからそれぞれお供え物を贈っていて、私は決まったものだけど、兄と弟は毎年考えて別のものを選んでいるようだ。

「仏間がマクドナルドになってる」
「いらっしゃいませ。お兄ちゃんは何にしたの?」
「ビッグボーイのネクタイ」
「変なの」
「ハンバーガーも変でしょ」
 兄と私が供えられた本をおもむろに手に取って開いて読んでみては戻す、というのをなんなく繰り返していたら弟も来た。

「はあ。重かった」
「僕に言ってくれれば車出してあげたのに」
「なんかさ、自分でジュンク堂行って買いたいじゃん」
「渚はいい子だなあ。父さんも喜ぶよ」
 でしょ、と弟は誇らしげな笑みを口元に浮かべて、両手に抱えてきた漫画本を供えた。私がハンバーガーとアップルパイを父にあげたいように、弟も何か思い入れがあるのだろう、毎年何かしらの漫画を父のために用意している。
 兄が線香をあげて合掌したのに並んで、私たちも父を拝んだ。


 たまたま手に取った本の一冊がおもしろくて、弟が仏間を出たあとも私はしばらく読書に耽っていたら、兄が耳打ちするように密かに言った。

「母さんの写真を飾ったら喜ぶと思う?」
「あるの?」
 兄の質問に私が答えなかったように、兄も答えず微笑むだけだった。



 急な代打で早朝からアルバイトに出て、予約があるからそのまま接骨院へ向かった。まだ時間があるのでどこかで時間を潰そうと思い、接骨院を通り越して住宅街をあてもなく歩いていると、向かいから来た外車にクラクションを鳴らされて思わず顔を上げた。三神先生だった。減速して私に寄り添うと、サイドウィンドウを少し下げて顔を覗かせた。

「ちょうどよかった。今日は坂木くんがお休みなんです。早めに開けるつもりで来たから、中で待ってくれて大丈夫ですよ」
 乗って行く?と言う三神先生の言葉に甘えて助手席へ乗せてもらった。車内は香水か芳香剤のなにか甘い花の香りがする。バイト終わりですか、と三神先生に尋ねられて、一応制汗剤や汗拭きシートで抑えたつもりではあるが、マクドナルドの残香を纏っているのが申し訳なくなった。

「さっきまで朝マック作ってたんです。すいません、やっぱり匂いで分かりますよね」
「いいえ、荷物が多かったから。お疲れ様でした」
 接骨院に到着してすぐに私服のまま三神先生が準備を始めた。掛けてしばらく待っていてと飲み物まで頂いて尚更恐縮だ。私は時間潰しにどこかで読もうと思っていた本を取り出した。

「急かしてすみません。読みたい本があるのでゆっくり準備してくださいね」
「あら、読者家なの?」
「全然です。なのに、家族の好きな本をなんとなく手に取ったらおもしろくって」
 私は三神先生に見えるように本の表紙を掲げた。印象に残るデザインだし、有名な作家のベストセラーだから、本屋で平積みにされているのを見かけたことがあるかもしれない。
 本の表紙を見て、受付で書き物をしている三神先生の手が不自然に止まった気がした。三神先生は返事の代わりにいつものように美しく微笑んで、何も言わずに手元へ視線を戻した。それから施術に呼ばれるまで読書に耽っていたので、一瞬の違和感についてとくに深く考えなかった。
 私はいつものように靴を脱ぎ、施術台でうつ伏せになる。今日は電気治療は無しで施術のみということで、朝一番の予約を入れていたのだ。急にアルバイトが入らなければ本当はこのあとプールへ行くつもりだった。

「マクドナルド、もう何年も食べていない気がします。まだ喫煙席はありますか?」
「ありませんよ。一体いつぶりなんですか」
 うつ伏せの体制で笑うと、背中にかけられたブランケットがそれに合わせて揺れる。「三神先生は何が好きですか?」と聞くと、悩むように少しの間を置いて、しかしながら毅然とした声が返ってきた。

「ハンバーガーとアップルパイ」

 私たちはお互いにその時どんな顔をしていたのだろうか。
 約束もないのに靴を履いた瞬間今日は誰かに出会う気がしたり、窓から吹き込んだ風のにおいで遠くへ行こうと思い立ったり、曖昧なのに確信に満ちた高揚感を含んだ予感のすることがある。

 この人が私の母親だと直感した。それは存在しないはずのドムドムハンバーガーが、どこかに確かに在るのと同じことである。


【ニ】ビッグボーイ

 僕が初めて泣かせた女の子は妹の絵麗奈だ。グラスのかたちのつみ木を絵麗奈の頭へめがけて投げつけて泣かせた。その時僕は性別というものの認識がまだ希薄だったから、正確に言えば初めて一人の人間へ悪意をぶつけて泣かせた相手が絵麗奈だった。
 泣き出した瞬間の表情を今でも覚えている。涙に潤んだ瞳がこちらに向いた時、僕は人間が泣くのを初めてこんなに近くで見たような気がして、泣いている妹をいつまでも見ていた。

「どういう風に分けたい?必要という意味で」
「車と家が欲しい」
「金の話だよ」
 助手席の永島が呆れたように言う。
 手続きを依頼したらそれですっかり肩の荷を下ろした気になって、僕の取り分について頭の片隅ですら考えていなかった。父さんから譲り受けたいものといえば、この車と家族で住んでいる一軒家しか咄嗟に思い浮かばなかった。
 永島はこういう客には慣れている様子で、郊外を突っ切るバイパスから見える光の疎な夜景に目をやりながら淡々と続ける。

「家のローンは?」
「ないよ」
「下の二人のこれからの学費は?」
「父さんの掛けてた学資保険がある。補えない分は僕が出すつもりだ」
「そうか」
「代りに車と家を僕の名義に、みたいな内容の書類をきちんとした形で作ってほしい」
「分かった」

 僕らは煙草が吸いたくなって、ビッグボーイに着いても店に入らずしばらく車内にいた。古い車なのでエンジンをかけたまま停車していると車体が少し振動する。鼓動のようなそれをシートにもたれて背中に感じるのが好きだ。
 薄闇の中に立つビッグボーイの少年の像を眺めながら、これから母親に対してしようとしていることを永島にも相談するべきか考えた。永島が遺産相続の手続きを会社を通してではなく個人的な仕事として引き受けてくれたように、一人でやりきるべきだというようにも感じる。

「葬式が終わっても考えることが多いなあ」
 僕は煙と共にため息を吐いた。永島は黙ったまま書類に目を通している。
 一本吸い終えて隣に目をやると、顔を顰めてこめかみに片手を添えた永島が「めんどくさい」と非常にシンプルな愚痴、かつ事実に基づく短評を呟いた。僕らの家系図は色々と複雑なのだ。

「永島がいてくれて助かるよ」
「おまえのためにやるわけじゃない」
「ありがとう」
 ふん、と鼻を鳴らして永島は僕から顔を背け、取り出した煙草に火を点けた。サイドウインドウを下げ切って窓枠に片肘を付いた永島越しに、揃いのジャージを着た男子高校生たちがビッグボーイへ入って行くのが見えた。

「俺が二年で甲子園出た時に、おまえの父さん、球場に俺のかあちゃん連れてきてくれただろ。三年では甲子園行けなかったからさ、あの時のことずっと感謝してたんだ」
 永島は窓の向こうを見ながら独り言のように言った。本当は僕へじゃなくて、父さんに伝えたい言葉だからだろう。

 あの夏の日焼けした父さんの姿が懐かしい。例年の高校野球は流し見る程度の父さんが、球場に足を運んでまでいたのは永島の活躍を心から喜んでいたからだ。永島が甲子園に出るというのを当人より先に父さんから聞いたくらいだ。
 父さんは口数が少なく物静かな人だったけど、ポジティブな物事には静かな中にも確かな熱意と敬愛を感じた。僕は永島がなぜこんな厄介な遺産相続の手続きを引き受けてくれたのか理解した。

「それにヤクルトファンだったからな」
 書類と共にクリップに留められたテレフォンカードを手に取って眺めて、永島は表情を緩めた。
 ヤクルトスワローズが初優勝した時に監督だった広岡達朗のカードは父さんの財布に入っていたもので、僕が持っているよりいいと思って、葬式に来てくれた永島に渡した。その時に相談を持ち掛けた。
 永島が煙草を吸い終えるのを待つのに、僕は運転席のシートに深くもたれかかった。
 父さんとビッグボーイに来た時もこうして背中に振動を感じながらエンジンの音を聞いていた。運転席の父さんの横顔から窓の外へ流れて消えて行く煙を目で追っていた。その時間が、子どもの僕はなぜだか好きだった。

 永島と僕は中学の野球部で出会った。学校の方針で何かしら部活動に入らねばならず、文芸部も無かったし、僕は単純に野球を見るのが好きだったから野球部へマネージャーとして入部した。白球を追う側でなくていいのかと勿論監督に聞かれたけど、僕はなかなか気の利く男ですと答えたら大いに気に入られて希望が叶った。十二歳のいがぐり頭の新入生がそんなことを堂々と言うのはさぞ可笑しかっただろう。
 永島や同級生が強くなっていくのと並行して、僕はどんどん「マネージャー」が上手くなった。有力な選手が重宝されるように、なかなか働き者の僕は野球部で信頼と居場所を得た。当時、事情があって拙いながらにも家の事を日常的にこなしていたから、僕は野球部でもみんなが何を望んでいるのか、何をするべきなのか気付くことができた。

 その時僕の家で「お母さん」だったのはヒバリさんという翻訳の仕事をしている女性だった。ヒバリさんは仕事の都合で世界のあちこちを飛び回っていたし、そもそも家事が苦手だった。だから父さんが家のことをやっているのを見て、僕もそれを手伝うために倣って洗濯や掃除や簡単な料理なんかを覚えていった。
 男子で、特別な事情も無いのに野球部のマネージャーというのは悪目立ちしてしまいそうなものだけど、好奇の目で見られることはあっても別段やっかまれなかった。それは父さんからひとつ助言を貰っていたおかげでもある。おまえはいずれたくさんの女の子と付き合うことになるのだから、今はよしておくべきだと。

 シチューのルウを鍋へ割り入れていると玄関から渚の鼻歌が聞こえてきた。今夜はシチューだと言うと、すぐに食べたいからと部屋へ戻らずつキッチンに留まった。
 三人の中で成人しているのは僕だけで、そして実家暮らしのフリーターなので一般的な社会生活を送っている人よりも時間がある。だから父さんの死後の諸々から今夜の献立まで家庭のことは必然的に僕がやっている。
 家事については元よりヒバリさんが出て行った時から完全に僕が担っていた。父さんが仕事に行くようになったから、代わって食事と洗濯を手伝うことにしたのだ。

 ヒバリさんは父さん以上に口数が少なく、感情の動きがとても分かりにくい物静かな人だった。色の白い華奢な人で、翻訳家の職業柄か、俯いて何かを書き付けていたり、机に向かっている姿ばかり覚えている。
 僕はヒバリさんのことを考えると親切なツバメについて思い出す。ツバメの子育てについて、野鳥の本で読んだことがある。両親のツバメに何かが起きて片方の親だけで子育てを行っている際に、両親以外の個体が手伝いをすることがあるらしい。
 その手伝いのツバメは、雛たちにせっせと餌を運んだりはしてくれないけど、巣の周りを警備するように巡回してくれたり、とくに親切なツバメは雛達に飛び方を教えることもあるそうだ。
 ヒバリさんもそうだった。僕らの日常的な世話はしてくれないけど、海外出張から帰ってきたヒバリさんが細い小さな声で語る渡航のお土産話を聞くのが、僕はとても楽しみだった。

「このまま置いておくね。僕は遅くなるから、シチューは余ったら冷蔵庫に入れておいて」
「兄貴、今日ホストだったっけ」
「休みだけど、女の人と会うから」
「デートだ」
「それはどうだろう」
「余裕だなあ。さすがホスト」
「僕はテーブルに着いてないよ」
 渚はホストと言うけど、正確にはホストクラブのウェイターだ。
 高校卒業後進学しなかった僕は、かといって就職する気も起きず束の間の空白期間を楽しんでいた。中学で同じく野球部のマネージャーだった女の子から知り合いの店で働かないかと連絡があって、初めはホストになる気で面接に行ったけど、黒服のウェイターを見て僕は自分に適しているのはこちらであるのを瞬時に予期した。
 面接で野球部のマネージャーになった時と同じことを答えても今度は誰も笑わず、オーナーの「君はそのほうがいい」という言葉にみんなが頷いて採用が決まった。
 なかなか気の利く男です、と半ば冗談や自嘲を込めて言ったつもりだったのに、僕はいつの間にか本当に気の利く男になっていた。

 僕の母親はヒバリさんではない。父さんは生涯で三人の女性と家庭を持って、最初の妻だった人が僕の母親だ。
 父さんと一番長い婚姻生活を送り、一番複雑な結婚だったのが宮藤マナミさん、つまり僕の母さんだと思う。男女が結ばれて子どもを授かって後に別れたというシンプルな物事がなぜ複雑になったのかは、マナミさんの極度な飽き性で移り気な性格に起因している。
 加えて、マナミさんの我儘を叶えてしまえる財力が宮藤家にはあった。
 対する父さんの方の中村一族は、まあ、かなり下の水準の暮らしぶりに近かった。歴とした恋愛結婚であるのに、父さんは不本意ながらも玉の輿に乗ったのだ。
 宮藤家に父さんが強く出られないのは子どもの僕にすら分かった。実際に僕たちはこれまでお金に不自由しなかったし、いま住んでいる家も離婚に際してマナミさんから譲り受けたものである。

「どこに行くの?」
「なかよし村」
「ふふ、中村だから。本当は?」
「映画に行きましょう」
「それでこのあいだ好きな俳優を聞いたのね」
 ミラーで視線を交わすとマナミさんは緩やかに口元を綻ばせた。マナミさんは父さんより少し歳上のはずだが、何時までも時が止まっているように変わらず美しいご婦人だ。編み込みで結い上げられた艶やかな黒髪と、両耳の華奢なイヤリングが車窓を流れるヘッドライトの光に合わせて煌めいている。
 隣に座る介助人がおそらく時間について耳打ちすると「間に合うからいいでしょう」と不機嫌を隠さない声で言って、それから続けて「余計なことを」と呟いた。

 マナミさんは数年前に脚を悪くして、日常生活のサポートのために介助人が傍にいる。病気か事故か尋ねただけでひどく機嫌を損ねたので原因は聞かないことにしたけど、杖をつかなければ歩けないのも、介助人がほとんど常に視界の内にいるのも着実にマナミさんの不機嫌を累積させている。介助人が頻繁に入れ替わるのはそういう契約なのではないと思う。
 バックシートの方に目をやると、介助人は気まずそうに萎縮した様子でマナミさんの機嫌を伺っていた。

 僕はマナミさんのことが嫌いじゃないし、なにより養育費の支払いが終わった後も金銭の援助を続けてくれているから今も定期的に会っている。
 すべてのことは僕が父さんにとてもよく似ているからで、父さんに会えないから僕に会っているとはっきり言われた。父さんも、約束の年齢になって面会の義務が無くなっても僕がマナミさんと会うのを止めなかったし、それどころかマナミさんの近況を話題にすると嬉しそうな顔をするのだ。
 二人がお互いについて何か思うところがあるのは確かだった。

「この車はわたしが買ったものじゃないから、どうするかはあなたたちで決めて。もし売るつもりならディーラーを紹介することはできるけれど」
「買い手がつかないでしょう。前の所有者が運転席で病死したと聞いたら、誰だって嫌がる」
「あら、わたしが買おうと思っていたのに」
「あいにく僕のものになる予定です」
 マナミさんの冗談に僕は苦笑した。本気で買おうとされると財力で圧倒的に敵わない。

 父さんとマナミさんが離婚する時期の決定から実際の手続きまで、全て宮藤家が取り仕切ったらしい。結婚生活が破綻していても別居に長らく留まっていたのはそういう事情からだったのだと、これは父さんから聞いた。
 フェリーのりばでマナミさんと介助人を降ろして別れるつもりだったけど、まだもう少し時間があるので一緒に船が来るのを待つことにした。映画を観て機嫌を取り戻したマナミさんは気まぐれに外へ出たがって、少し風に当たりたいと言うので僕と介助人も連れ立つ。

「今度は岬くんのお店に連れて行ってくれる?」
「駄目ですよ。懲りませんねえ」
「一度くらい、いいじゃないの」
「ホストクラブへ行くより、静かで洒落たところで僕と話すほうが楽しいでしょう?」
「それもそうね」
 幾度と繰り返したやり取りだ。マナミさんは今度もあっさり諦めて、それから意外なことをふと呟いた。

「でも賑やかなお店も好きなのよ。ファミリーレストランなんかも嫌いじゃない」
「日曜日のビッグボーイでいつも不機嫌だったじゃありませんか」
 僕は驚いて、つい指摘してしまった。当時はまだ義務だった面会の時、マナミさんはいつもいらいらした様子で、あまりに素っ気なかった。子どもの僕に興味が無いのは分かっていたけど、それにしても苛立っていたのは父さんが指定した「ビッグボーイ」が嫌なのだとばかり思っていた。
 僕らは面会日、向き合って座っているのに話しもせず、時間が来るまで本を読んでいた。僕はときどき食事も頼んだけど、マナミさんは絶対にアイスティーしか注文しなかったのもビッグボーイに否定的だと思ったわけだ。他の店で会うようになってからのマナミさんは、わりに何でも喜んで食べるし、よく笑うようになった。

「だってあの人が来てくれないんだもの」
 マナミさんは拗ねるように言った。暗い海原の遠くを見つめる横顔からは何を思っているのか僕には読み取れなかった。

 僕にとってマナミさんは母親ではなく父さんの昔の恋人と居るような、親密なのに遠い存在に感じる。佐賀に住んでいた頃も、別居する前からマナミさんは家にほとんど寄りつかなくなっていたから、親子らしい会話だとか思い出だとかが大きく欠落しているせいだろう。
 でも、マナミさんにそういった母親らしさを求めたり恋しがったりした記憶がない。マナミさんは子どもの僕にまったく興味を示していなかったから、気まぐれに家へ帰って来ても別段構われることはなかった。
 押し黙ったままのマナミさんと並んで、しばらく暗澹をかき混ぜるような重い波音を聞いていた。

 折角小さな仏壇にしたのにと絵麗奈は口を曲げたけど、本棚の中に仏壇を置く計画はボツにして、父さんの部屋とは別の場所に構えることになった。
 天井まである夥しい数の本が詰まった巨大な本棚が存在感を放つだけで、そのほかはビジネスホテルのように必要最低限の家具がひっそり置かれているだけの簡素な部屋だ。
 昔住んでいた家の父さんの部屋はいかにも書斎といった、壁一面に几帳面に本が並べられた厳かな雰囲気だったが、この家に移り住んでから、というよりジュンク堂で働き始めてから随分本の数を減らしていた。これは僕の想像だけれど、好きとはいえ四六時中本に囲まれていると仕事と趣味の境目が曖昧になるからだと思う。
 僕は家族の中で一番に長く父さんと過ごしたから、久しぶりに入った父さんの部屋の本棚に並んでいるのが選りすぐりの好きな本だということはすぐに分かった。だから仏壇を置くことで、本の配置を変えてしまうのは嫌だと思った。
 僕は水槽ほどしかない小さな仏壇を抱えて一階の和室へ向かう。リビングの隣という好立地故に家族の物置になりかけていた和室を片付けて、本来あるべき来客用の部屋へ戻して仏間にすることになったのだ。

「降参ならペンチで開けよう。ちゃちな錠だし、父さんも本気で開けられたくなかったらもっと真剣に隠すよ」
「そうしよ」
 渚は大きな溜息と共に畳へ完全に倒れ込んで、両腕を大の字に広げた。
 和室に長らく放置されていた荷物を片付けている最中に発見された鍵付きの缶は、外国土産のチョコレートが入っていたような形をしている。小傷やラベルを剥がした跡や少しの錆がある古めかしい見た目だ。意味深な錠が付いているけど、深緑色の無機質な外面に中身の手がかりとなる情報は視覚的には何もない。

「渚は何だと思う?」
「んー、通帳とか判子とか身分証でしょ」
「たしかにカードは入ってそうだね」
 改めて缶を手に取って軽く揺さぶると、やはり硬質で平らな何かが空洞のスペースを上下するような音がする。開けてみれば直ぐに分かることだが、結局片付けを一通り終えてもこの缶にかかった錠の鍵は見つからなかったのだ。
 ペンチで錠前の細いアーチの一部を捕まえて力を込めると容易く切断されたので、その亀裂からスライドさせて錠前を外すと渚も覗き込んできた。缶を開けると、僕らの期待をよそに中身はなんてことないものばかりだった。入っていたのは写真の入った「佐賀写真館」の封筒と、美術館や映画館のチケットの半券だ。父さんのちょっとした宝箱だったのだ。
 渚はそれらを何の気無しに眺めながら、写真館の封筒に挟まっていたビッグボーイの少年がノックに付いたボールペンを器用に回転させて弄んでいる。
 僕は父さんが佐賀に住んでいた頃に撮ったものだと思われる写真をめくっていて、ありきたりな風景の写真が続いていた中に見つけた異質な一枚に思わず手が止まった。読書に耽っているビッグボーイの制服を着た若い父さんを、同じく制服姿の美しい女性がカメラに気付いていないのをからかうように手のひらで差してはにかんでいる。

「だれ?」
「絵麗奈の母親」
 渚は目を見開いて僕の顔を覗き込み、写真の中の美しい女性を僕たちはしばらく見ていた。やがて渚が納得したような声色で言った。

「おれはそんな気がしてたよ」

 それはほんの一時だったと思うけど、僕は絵麗奈の母親の微笑が目に焼き付くほど長い間見ていたように感じた。
 たった一枚の写真を一目見ただけで、父さんが生涯で一番に愛したのは絵麗奈を産んだ女性だと分かった。それを知ったのは僕にとって小さな絶望であるのと同時に、安堵をもたらすことでもある。今度は僕が降参とばかりに大きく背を逸らして壁へ身体をもたれて、天井を見上げてゆっくりと瞼を閉じてあてもなく呟いた。
「だからビッグボーイ」

 あの頃の上の空で不機嫌なマナミさんと、承知の上で僕を一人で行かせる薄情な父さんと、車窓から何度も仰ぎ見たビッグボーイの少年の像を、重たいアルバムのページをめくって見たいページを探り出すように順番に思い浮かべた。
 父さんは、佐賀のあのビッグボーイで働いていたことがあるからマナミさんと僕の面会場所にわざわざ指定したのだろう。それが絵麗奈の母親だったかは定かでないが、顔見知りの従業員がいたから僕を預けるような形でビッグボーイに置いて行ったのだ。もちろんすべて知っているマナミさんは、期待と苛立ちに焦がれたことだろう。
 僕もマナミさんと同じように、いつかは父さんが来て三人でテーブルを囲む日が訪れるのをどこかで期待していた。だけど僕らが神奈川へ移り住んで、僕が電車やバスに一人で乗れるようになって、ビッグボーイ以外で面会するようになってからも、マナミさんの前に父さんが姿を現すことはただの一度もなかった。
 僕は背筋を伸ばして立ち上がり、渚に出掛ける旨を伝えた。

「どこ行くの?」
「なかよし村」


 ホワイトボードのシフト表に名前のない僕が始業の二時間も前に来た時点で何か込み入った話だというのは明白で、マネージャーは僕が「辞めます」と言うより先にディスプレイから僕へ視線を移した時点でもう嫌な顔をしていた。
 突然の申し出であるにも関わらず何の詮索もないのは、僕もこの数年で何人も見送ったから分かる。離職理由のたいがいが金、女の子、精神の不調、そのいずれにしても関わりたくないなら下手に聞くべきではないことだ。飛ばないだけまだいい、とマネージャーは無愛想に呟いた。


「ご迷惑おかけします」
「ハイハイ、お疲れさん」
 僕が一礼すると鳩でも追い払うかのように邪険に手を払い、視線を画面の方へ戻した。マネージャー、と僕が声を掛けるとまだ何かあるのかと言いたげに凄みながらも再び顔を上げる。それから、僕は努めて冷静を心がけて告げた。

「しばらくしたら、そう名乗るかは分かりませんが、僕の母親がここへ来ます。大層美人なご婦人で、大層なお金持ちです」



 人生の重大な場面で僕はいつもビッグボーイにいる気がする。遺産相続の手続きも大詰めを迎えて、最後に僕の署名が要るというので僕らはファミレスで食事することになった。自由な時間を生きている僕が多忙な永島の職場の近くまで行って、どこか適当な最寄りのファミレスで待ち合わそうということになって、該当したのがビッグボーイだった。
 ランチタイムは終わったはずなのに、月曜日の昼下がりにしては店内がやけに賑やかしい。午前中に近くの小学校で何か行事があったようで、子連れのご婦人グループが座っているテーブルが多い。
 中学の野球部では永島といちばん仲が良かったから、部活が急遽休みになった日なんかはいつも家へ遊びに来ていたし、野球部の試合の帰りに父さんと三人でビッグボーイに来ることもあった。幼馴染と呼ぶには年季が足りない気もするけど、僕にとって大切な友達に違いない。
 二人分の水を汲んだグラスを持って席へ戻ると、先日ついに僕がホストクラブを辞めた話になった。

「真っ当に働く気になったか?」
「どうしようかな。真っ当って言っても、僕は職歴が無いようなものだし」
「真っ当なホストになればいい」
「女の子を泣かせるのは趣味じゃない」
「よく言う」
 真昼間からと呆れる永島をよそにウイスキーグラスを手に取り、僕はもしかしたら今日のビッグボーイで一番乗りに「乾杯」を唱和して、永島が突き出した水の入ったグラスへぶつけた。


【三】くら寿司

 おれはUFOを見たことがあるので、たいていの運命とか偶然とか奇跡とか超能力とか超常現象の存在を信じている。ほかにこれといって見たことはないが、きっとスカイフィッシュもネッシーもツチノコもどこかにいて、きさらぎ駅もラッキーピエロもゆで太郎も存在する。こないだエレナがドムドムハンバーガーは存在しないと言っていたときに、おれだって食べたことも見たこともないのに不思議と存在に疑いがないのに気がついた。おれはゆで太郎とかいう何を茹でているかさえ詳細不明の店の存在さえも信じている。

 確かなのに、そのことをだれかに証明するすべがないという点において、似たような話がもうひとつある。
 おれは母さんのことを全然覚えてないんだけど、母親という存在がきちんと胸の奥底へ組み込まれている。心臓がいま身体の中にあるなあ、と特別に思ったり感じたりしないように、おれの中に母さんがごく自然に備わっているのだ。見たことも食べたこともないドムドムハンバーガーがどこかに実在すると思えるように、おれには母親が存在しているという不思議な確信がある。


 爪、派手な色の靴下、髪、一番意味不明なのは眉毛のカット。一学期におれは四度も頭髪服装検査に引っかかって、それで三度目に警告されていた通り、校則違反の罰として一ヶ月間朝早く登校して体育館の掃除と設営をすることになった。
 初日の朝早く用務員のおじさんのところへ行くと、おじさんというよりおじいさんのその人は、おれの顔をまじまじ覗きこんで「もしかして中村くんの弟かね」と瞼のしわを全部伸ばして目を見開いた。おれは美少年で兄貴はなんかすごいイケメンだけど、とはいえそっくりではないのによく気がついたなあと思っていたら、じいさんは昔中学の野球部の監督をしていたらしくて、男のマネージャーはめずらしかったから兄貴を覚えていたらしい。
 それで体育館のことはそっちのけで兄貴の話をしていたら、なぜか同じクラスの大谷翔子が来た。制服でも体操服でもなく部屋着のようなTシャツにショートパンツで、肩にバドミントンのラケットを引っ提げている。監督は「孫娘だよ」とおれに紹介して、せわしくかけてきた大谷にほほえんで片手を上げた。
 そう言われて並んでいるのを見るとふたりの背格好は似ている。よく日焼けしていて、背が高くて肩幅が広いから、痩せているのにがっちり力強く見える。大谷は大股の仁王立ちをして、バドミントンのラケットを地面に突き立てた。

「あれ、中村!なにしてんの」
「罰を受けてる」
「ふーん?」
「そうそう、今月いっぱい中村くんが体育館をやってくれるみたいでな。中庭の剪定に行きたかったから助かるよ」
 監督が思い出したように言った。おれも忘れかけていたけど、校則違反の懲罰のためにこんな時間に学校へ来ているのだった。大谷はでかい声で感嘆を発すると肩を落として、いじけたような視線をおれたちに向けた。

「じゃあバトミントンは?」
「中村くんに相手してもらいなさいな」
「ヤダ。中村へたくそだもん」
「男子の体育見たことねーだろ」
「だって、おじいちゃんよりひょろいじゃん」
 大谷はむかつく犬みたいに、おれを上から下まで見て鼻を鳴らした。返す言葉がなくて歯がみするおれを監督が笑って、それから三人で体育館の掃除と設営をやった。
 体育館の隅に一面だけ張ったバドミントンのコートで大谷たちがゆるいラリーを続けている。シャトルが行き交うのを目で追っていると、トビウオの跳ねる海面を眺めているような気分になる。大谷がしなやかに腕を振るってトビウオをつぎつぎ繰り出すのを見て、おれは大谷翔子こそ海みたいな女だと思った。

 渚という名前は母さんがつけたらしい。なんで渚なのか知らないけど、おれの母さんは海のような人だったと父さんが言ったのでそれで納得している。おれは言葉をそのまま受け取って「海」という名前で海のような荒々しい気性の人を想像していた。おれが生まれたのは神奈川へ来てからだけど、母さんは元々佐賀の人だってことは知っていたから玄界灘とか対馬海峡とか黒潮を思い浮かべた。
 実際は「ヒバリ」という鳥の名前で、兄貴が言うにはものすごく大人しい人だったらしい。なにしろおれが二歳のときに母さんは家を出たので覚えていることがなにもない。だから母親の不在はおれの人生でほとんどあたりまえのことだったのと、父さんと兄貴とエレナがいつもそばにいたのでさみしいと思ったことはない。母さんについて聞くと父さんは悲しそうな顔をするし、じいちゃんとばあちゃんはすごい剣幕で怒るわで、聞いてもろくなことがないとすぐに勘づいておれは詮索をやめた。けっきょくおれが知っているのは母さんは佐賀の人で、いまは海外にいるだろうってことだけだ。
 じいちゃんの葬式のとき、座敷の畳の上で寝たふりをしていると、親戚のだれかが「ヒバリさん」が家の金をみんな持ち出して海外に逃げたと噂していた。おれはうちに母さんの写真の一枚すら残っていないわけをそのとき理解した。


 エレナが通っている市民プールに大谷翔子の垂れ幕が飾られているらしい。全校集会で表彰されていたので水泳部だったエレナに名前を出したらすぐに分かっていた。
 朝きちんと起きてちょっと早く学校へ向かおうとするとエレナと同じ時間のバスになるので、なんとなくいっしょに家を出るようになった。校則違反の罰の期間が終わってもこの習慣は続いている。

「渚と同じ高校だったんだ。水泳の強い学校は行かなかったんだね」
「ガチの雰囲気が苦手なんだって。バドミントンも上手いのに、勝負よりラリーが好きらしくてさ、そういうやつなんだよ」
「ちょっと分かるかも。私もスポ根な感じは苦手だったなあ」
 エレナはなつかしそうに、でも苦い顔で言った。中学からずっと帰宅部のおれからしたら、水泳部でバイトまでしていたエレナはかなりちゃんとした高校生だったと思う。大谷も帰宅部でバイトしてないって聞いたときは仲間ができてうれしかったけど、ところが水泳で名を馳せている立派なやつだった。
 おれたちが乗るバスは住宅街から高校や大学のある方へ向かって走る。だからこの時間帯の乗客は運動部の朝練へ行くんだろうなって学生がほとんどで、本当にのん気に生きているのはおれだけな気がして肩身がせまい。

「三者面談、兄貴バイトらしいからエレナに頼んでって」
「ええ?お兄ちゃんの代わりに叱られそうだなあ。渚、ちゃんと学校で良い子にしてる?」
「成績は良い子」
「はいはい。でも何話せばいいの?」
「なんだろ。まだ一年だし、別にたいした話になんないと思う」
 おれは欠伸混じりに言った。バスは信号待ちで大きなスーパーの前で止まった。入り口に立られた特売の赤いのぼり旗に混ざって「お寿司の日」の白地の旗がひときわ朝日を浴びていた。



「中村のお姉ちゃん、美人だって噂になってるよ」
「まあな。否定しない」
「いいなー。あたし弟ばっかりだからお姉ちゃんってあこがれる」
「いちばん上はみんなそう思うんだなあ。おれの兄貴も言ってたよ」
「お兄ちゃんもいるんだ。何人兄弟なの?」
「三人」
「兄、姉、中村!バランスいいね!」
 大谷は平均台からマットへ飛び込みながら空中で前転して、みごとに着地を決めて体操選手のよくやるポーズをした。水の中だけではなく地上でも運動神経抜群なのでスポーツはなんでも余裕でこなしてしまう。バドミントン以外でなら勝てないかなと思って、卓球とかフリースロー対決とかフラッグ取りとか思いつくたび挑んでいるけどぜんぜんダメだ。


 おれはあれからほとんど毎日大谷とバドミントンをしている。たまに監督が来た日は三人でビーチバレーとか別のことをして、あとテスト期間中は「勝負」が休みだ。勝った方が金曜日の放課後に出かける行き先を選ぶ。
 体操も勝てる気がしないからやっぱりバドミントンだなあ、と考えていたらコートサイドへ大谷が戻ってきておれのとなりに座った。

「高橋先生に将来の夢聞かれた?」
「聞かれた。大谷は決まってるからいいじゃん、筑波大学だろ」
「それはそうだけど、夢と志望校は違うでしょ?あたし、英語ペラペラになりたいです!って言って、先生もお母さんもめっちゃ笑ってた」
「それは夢ってかお願いごとだからじゃね」
「神頼みじゃないのに。これからお父さんの血が覚醒してちょーかしこくなる予定だし」
 チョウ!と大谷がカンフーみたいに言って飛び出して、ネットの向こうでラケットを構えたのでおれも位置に着いた。
 準備運動にラリーを続けて、さっきみたいに休憩を挟んでから、最後にちょっとした試合をする。それで一週間の黒星の数で勝敗を決めるんだけど、おれはまだ一度も勝てていない。星の数じゃなくて、毎日負けているという意味だ。

「中村はなんて答えたの?」
「大谷の隣の席になりたい」
「ぶっは!」
「ウソ」
「ずるーい!今のは無効!」
 落ちたシャトルを回収した大谷から仕返しのピンサーブが飛んできた。情けない体制になりながらなんとかラケットに当てたけど、シャトルはでかい弧を描いてコート外へ落ちた。
 今週もまた金曜日の放課後のデートがミスドになる。おれはもっと、夕日が迫り来る地球最後の日の海岸みたいな、いい感じのところに出かけて告白したいのに。



 おれが見たUFOがどんなだったかというと、くら寿司の看板みたいだった。のっぺりした白地に読めないけどなにか文字のようなものが書いてあって、子どもが描いた車の絵が空に浮かび上がっているようでもあった。
 くら寿司の看板における「無添」の部分にちょうど赤く光る窓があって、下のほうに天守閣とか展望デッキみたいな黒いフェンスのついたスペースがあるせいで、ほとんど空飛ぶくら寿司の看板だった。おれはUFOだ!と興奮すると同時になんかどっかで見たことあるなと首をかしげたのだが、何年か経って、寿司の日にくら寿司に行って気がついた。

 父さんの命日が十八日なので、それから毎月十八日はみんなで寿司を食っている。家族で外食となると回転寿司によく行っていたからで、父さんの大好物だったかというと、好きは好きだろうけどそういうことではないと思う。
 おれたちは好きな食べものとか、その時食べたいと思うものがばらばらだけど、寿司に関してはなぜか気が合うので、子ども三人をまとめて引き連れて行くのに回転寿司がいちばんラクだったんじゃないかなと思う。

「また本気出して勉強したら行けちゃうんじゃない?渚、私より頭良いんだから」
「おれの本気は出すのに時間かかるんだなあ」
 おれはサーモンの寿司を口へ放りこんで空いたプラスチックの皿を返却口へ入れた。かこん、とのん気な音がする。
 筑波大学へ行きたいと言ってみたら意外とみんな歓迎してくれて、おれがやりたいことを見つけたのをよろこんだ。エレナはとくにうれしそうで、受験の出願倍率だとかをすぐに調べてくれた。学部はどこがいいかと二人で画面を覗いていたら、兄貴がふと思い出したように呟いた。

「語学は?父さんは外国文学をやってたはずだよ。どこかにコネがあるかも」
「それいい、お兄ちゃんの知り合いにもだれかいないの?英語の先生とか」
「兄貴なら元愛人に帰国子女とか大学教授とかいるんじゃないの」
「高校教師までだなあ。...でも、とっておきの伝手がないことはない」
「とっておき?」おれは寿司を食べる手を止めた。

「渚がどうしてもって言うならの隠し球」
 兄貴がわざと気になる言い方をして、試すような視線をおれに向ける。それはとても父さんのまなざしに似ていた。父さんの読んでいる英語の本をおれが覗き込むと、なにも言わないけど、読んでみるか、とそんなふうな顔をするのだった。
 注文していた三皿の寿司がポルターガイストみたいなスピードで流れてきて、おれたちのテーブルで止まった。


私は日本の神奈川県に住んでいます。
両親はいません。しかし心配ありません。
家族三人で幸せに暮らしています。
私は家族の中で一番年下です。
兄が一人と姉が一人います。

イリノイ州は日本の気候と似ていますか?
イリノイ州で人気の場所はどこですか?
あなたは兄の元恋人ですか?


 おれの送った拙い英文が日本語へ翻訳されて、青い万年筆で書かれた細く美しい文字になって返ってくる。自分で考えた文章のはずなのに、おれはなんだか知らないだれかから手紙を受け取ったような気分になる。書いて送って時間が経ってから読み返すからなおさらそう感じる。

 質問に答えが返ってきたことはない。日常的英会話の練習が目的とはいえ「文通」なんだから、もうちょっと仲良くなろうっていう歩み寄りがほしい。綴りや文法が間違っていないか尋ねたときすら、綴りや文法の間違いはありませんか?とそのまま翻訳されていておれはひっくり返りかけた。これってさあ、兄貴の元カノが頼まれてしぶしぶやってるんじゃないの。
 津原ひかり。アメリカのイリノイ州に住んでいる女の人。あとは直接聞けるように秘密にしておくよ、と兄貴は言ったけど、おれがしゃべるばっかりでなんの情報も得られていない。

 おれは開き直って質問をやめた。身の回りであった出来事を英語で日記のように書きとめることにした。返事や反応がないのはある意味気が楽だし、それに、自分の書いたとりとめのない文章でも綺麗な文字になって紙の上に並んでいると名文のように見えておもしろい。
 UFOを見たことがあること、それはくら寿司の看板の形をしていたこと、父さんとおれは実はいなり寿司がいちばん好きなこと、天気が良い日に兄貴とキャッチボールをしたこと、絵麗奈が接骨院でバイトを始めておれが練習台にされていること。大谷にバドミントンで一度も勝てていないこと、だからデートがいつもミスタードーナツなこと、大谷はコーヒーをブラックで飲めて、いつもゴールデンチョコレートを選ぶこと。
 来年の春、大谷が父親のいる筑波へ家族で引っ越すことを書いた手紙で、おれは津原ひかりにひさしぶりに質問をした。イリノイ州にも日本と同じ店はありますか?



アメリカにただひとつのミスタードーナツがあります。


 青い万年筆で引かれた海面のような波線の下に小さく書き添えられていた。
 手紙といっしょに封筒に入っていた古い写真には、押しピンの小さな穴があって日光に焼けている。長いあいだどこかに飾られていたのだろう。写真の中の若い父さんが、ドーナツ柄の浮輪に乗ったエレナとおれをビニールプールで遊ばせている。

 寿司の日にレーンを流れる皿を見ていると、なんだかその写真のことを思い出す。