松屋より愛をこめて

わたしの中で松屋は夜明けと共にあり、朝方の闇の中でそこだけ橙色の四角形が光を発している、灯台のような存在である。

松屋というのは牛丼屋で、吉野家すき家なか卯などの大手チェーン店と比べてリーズナブルかつ駅周辺やオフィス街に店舗が多く、労働や生活のはざまの外食需要に注力しているのが松屋だ。ほとんどのお客は単に安い速い近いを求めてオートマティックに松屋へ入るが、時に松屋に行きたい、松屋に行かなければならない、と確固たる意志で松屋に行く使命のような日が訪れるのが競合他社の牛丼屋と一線を画している。だからインターネットで松屋を語るに尽きないのだと思う。

松屋のカウンターで項垂れているたいていの人間は前述のように疲れていてお腹が空いているから生命維持本能により松屋に至るのだが、時々爛々と目を輝かせ背筋を伸ばして席で光っている者がいる。限定メニューの定食を食べに来た者である。シュクメルリ鍋定食がよく話題になるが、他にもオマール海老ソースのチキンフリカッセ定食やシャリアピンソースのポークソテー定食などの食券を買ってカウンターで肩を並べて食べることに違和感のあるおしゃれな限定メニューも過去にやっていて、基本的にちょっといいものを食べようという上向きな気分の人がこれらを注文するので、希望に満ちた心のうちを反映して全身が光り輝いているのである。限定メニューの期間中は「こいつ限定メニューだな」というのが一目に分かる。シュクメルリ鍋の時がやはり特に顕著で、なんとなしにカウンターに居る顔ぶれを見回すとシュクメルリ鍋定食を注文した人間があちこちで光っている。

ある時なにも良いことがないからせめて死ぬ前に松屋で良い思いをしようとその時やっていたビーフシチュー定食・ご飯大盛り・ポテトサラダ付きを注文した。食券の内容を復唱される段階でもうバカなんじゃないのという気持ちになりすでに笑っていたが、鉄鍋で運ばれてきたビーフシチューに煮卵が丸々ひとつ入っていて完全に笑ってしまった。松屋にしてみればビーフシチューといえど定食であることに変わりなく、味の染みた具がゴロゴロ入っているとうれしいいだろうという豚汁の時と何ら変わらぬ心遣いでビーフシチューへ煮卵をぶち込み、そして定食に欠かせない味噌汁もビーフシチューにつける。

松屋といえばこの、味噌汁である。ほかの牛丼チェーン店では味噌汁は定食や一部セットにしか付かないが、松屋では全てのメニューに必ず味噌汁が付いてくる。ビーフシチューにもカレーにも、もちろんシュクメルリ鍋定食にも付いてくる。お湯で作るインスタントの味噌汁を更にお湯で薄めた温かいお湯のようなこの味噌汁も松屋の魅力のひとつである。わたしは子どもの頃から味噌汁が嫌いで息を止めて飲んでいたのだが、松屋の味噌汁に出会って味噌汁嫌いを克服した。離乳食と同じ原理で、松屋の味噌汁になる前段階のものを日常的に飲んで少しずつ慣らすことにより、本物の味噌汁を飲めるようになったのだ。

「みんなの食卓でありたい」というのが松屋という情報統合思念体の総合意思なのだが、意味不明ながらも思いやりは伝わりあたたかい気持ちになる松屋の味噌汁のようで、松屋の魅力を言い表すのに最も的確で相応しいのはこの「松屋の味噌汁」だと思う。松屋を知る者同士の会話では必ず「松屋の味噌汁」について語る。それ以上多くの言葉で飾り立てる必要もなく、こち亀のプロ同士の会話よろしく「松屋の味噌汁」「松屋の味噌汁いいよね...」でしばし無言で頷く。同じ志で松屋に通い下手したら三食同じ店で顔を合わせていれば自然と人間関係が生まれそうなものであるが、場末の居酒屋や町の定食屋のように店員や常連客と和気藹々とする展開は松屋ではありえない。前述のように松屋のメイン客層というのは基本的にはカウンター席で柳のように項垂れた疲れた大人たちであり、店内に活気があるのはシュクメルリ鍋を食べに来た元気な男性グループないし男女グループがいる時くらいである。そんな我々が唯一心通うのは、味噌汁要らないです、の声が聞こえた時だけだ。

味噌汁要らないです、の声がすると店内に一筋の緊張が走るのを肌に感じる。悲しみでも怒りでもなく、食品ロスの観点からでもなく、あるいはすべての感情で、味噌汁要らないです、を全員が脳内で反芻するのだ。例えばおばあちゃんが実家の畑で採れた野菜を手紙を添えて送ってくれて、それを送料考えたらスーパーで買った方が安いし、虫とか泥もついてないし特別美味しいってわけでもないから要らないよ、と言い切ってしまうのは、いかに双方にとって合理的でも深い悲しみがある。松屋を好きな者からしても松屋の味噌汁はべつに全然要らないのだが、わたしなんてカレーの時マジで要らなすぎてカレーを注文した時点で憂鬱なのだが、それでも松屋の味噌汁が断られて場の空気が揺れるのは、おせっかいな思いやりが遠ざけられているのを目撃したようで胸が痛むからかもしれない。

カレーに味噌汁アリか無しか論はさておき、松屋のカレーに松屋の味噌汁が付いてきて喜ぶ人はかなりの少数派である。好き嫌い、美味い不味いではなく、そもそも松屋のカレーに松屋の味噌汁は致命的に合わない。松屋(情報統合思念体)もこの事に気付いていると思われるが、しかしながら事情によりこの味噌汁は絶対つけなければいけないもので、味噌汁サービスをやめると百円値上げしなければいけなくなると声明を出していたので、カレーに合わないからカレーの時は味噌汁つけんといてという特別な対応は指示し難いのだろう。よって、松屋の味噌汁が始めから存在しなければ悲しみが生まれないのではないかというそもそも論は松屋の味噌汁に通用しない。

黙って松屋の味噌汁を飲んでいるように、松屋にいる人たちの寛容と無関心の精神が心地良いのも松屋に通う理由である。
ある日浪速区の松屋に柳楽優弥にそっくりな睫毛の長い清潭な顔立ちの男性が入ってきて、しかし松屋なので全員無言で俯いて机の傷なり調味料なりを眺めていたのだが、柳楽優弥が不意に「牛丼の汁って入りますよね?」と店員に尋ね「丼なので...」と店員が言うと「そうですよね...」と諦めたように呟いた。ここは大阪なのだが、いかにこの場の誰もが思っていようが「何やねん!」と口にする者は一人もいなかった。松屋にいるあいだ、我々は示し合わせるでもなく極自然に、個を捨て他者との境界を取り払い松屋にあるものごとを受け入れる「松屋の客」になるのだ。

またある日の朝の松屋に宗右衛門町のキャバ嬢と思わしき派手な女性二人、抱っこされた赤ちゃんが来店して、入るなり「あのさー!赤ちゃんが食べるものなんかある?」と松屋に存在しない質問で店員を困惑させていた。今でこそ松屋にもお子さまメニューがあるが、去年すみっコぐらしと謎のコラボをするまで一部店舗を除いた松屋では牛めしのミニサイズをお子さまメニューと言い張っていた。ミニサイズと言っても若干小さめの碗に盛られた普通の牛めしである。一応子どもが牛めしのミニサイズを注文した場合にはおもちゃが一つ貰えるらしかったが、楽しい柄が入った子ども用茶碗でもなんでもないただのどんぶりで「小さめの牛丼」が提供されるのは無骨すぎた。しかしながらキャバ嬢も赤ちゃんも我々も黙って牛めしを食べる。これが松屋なのだ。

松屋のことをどれくらい好きか考えて、村上春樹とちょうど同じくらい好きだと気付いて腑に落ちた。村上春樹の著作すべてを読んでいないければすべての著作に熱心になれるわけでもなく、松屋のメニュー全部は食べていないし松屋のすべてを知り尽くしていなくとも、何時もどんなときも好きだと言いたいことをありったけ思い浮かべることができる。村上春樹は松屋に行くのか分からないが、デニーズを知っているなら、行き足がつかない真夜中や早朝に松屋を見つけたこともあるかもしれない。

わたしは大阪の女で一番松屋に行っている。生涯で食べた母親の料理よりも松屋で朝定食を食べている。朝5時からの朝定食の時間、光っているから見つけてほしい。