吉牛を待ってる

村上春樹は29歳の時に小説を書き始めたらしいのでじゃあわたしも、ということで去年初めて小説を書いた。日記を書くのとは別の感覚で文章を考えるのが楽しくて、出来はともかく完成するとめちゃくちゃうれしい。陶芸体験で作ったいびつなマグカップに愛と達成感を感じるのに近い。
負けるのが嫌なので、すでに凄い作品がいっぱいあるのにわたしが書いてもなあと思っていて、小説書いてみたらと勧めてくれる人にもそう言っていたが、なぜ村上春樹に勝てなくてもみんな書くのかわかった。気持ちいいからです。村上春樹の小説で主人公が射精するのと同じです。気持ちいいからです。
今は30歳の初冬で、一年経ってもまだ飽きずに書いているしこれからも書きたいと思う。

三作目を書いている時に小説の書き出しは1マス開ける・鉤括弧で会話している最後に読点は要らないという基本ルールを知ったくらいである。お金をとれるレベルではない。それは日記にしてもずっと思っていることなので、すべての文章を無料で公開してnoteのお金機能も切っている。来るわけないが文章の仕事も募集していないので、宣伝やセルフRTもしていない。連絡先も載せていない。
ラーメンハゲの訓えにあるように、お金をもらうというのはそれに伴う責任が発生するということで、逆に言えば無料だったら好きなようにやっていいはずだ。わたしは気楽にやりたいので、自分の書いたものが看板や人気を背負うのがおそろしい。

だから水筒の小説は読むに値しないからやめればいいのに、みたいなツイートを見つけてわたしも言われるんだと驚いた。人気エロ絵師が猫とパスタの写真ばっかりアップロードしてると言われるやつじゃん。エロ絵師猫パスタじゃん。小説メガネじゃん。
仕事で書いたら給料が発生するという仕組みがまずあって、それを知っているから読者はこいつ金貰ってこれかよ、と言うのだろう。そういうのが来ると嫌だから無料を貫いてるのに、結局書くものに注文をつけられたり文句を言われるのか。でも対策とはいえお金をとれるレベルじゃないのがネックで、「無料の読み物の提供」というわたしに唯一可能なインターネットへの恩返しも出来なくなってしまう。悪口を聞く代わりにお金をもらう配信を開催する、なども考えたが無料の泥水に文句を言うようなやつが払うとは思えない。

こういう体験を話すことを「吉牛待ち」とか「吉牛を待ってる」と揶揄するらしい。よしよし、ぎゅっとしてくれるのを待ってるんじゃないの、という悪意が込められている。牛丼のスラングはどれも牛丼屋に抱く印象の中にある寂寞の部分を上手く落とし込んだ表現で美しい。

わたしは待っていないので大丈夫です。吉牛行くけど、なんか食べる?