スーパー・スーパー・ボール

窮地に追い詰められたり超常現象を目の当たりにした時なぜだか笑ってしまうように、あまりにもデカすぎる時、人は笑ってしまう。老婆が笑っているのは野菜がデカいからで、小学生が笑っているのはうんこがデカいからで、赤ちゃんが笑っているのは大人のきんたまがデカいからである。結婚式で笑っているのはケーキがデカいからであり、葬式で笑ってしまうのは写真がデカいからである。巨像、巨女に苛烈に恋焦がれたり心惹かれる者が出現するのも所以、我々がデカいものに親しみを覚えるのはそのように深層心理に組み込まれているからだ。

記憶の中で雪見だいふくをデカくしたり小さくしたりして微笑んだり落胆したことはないだろうか。キットカットは久しぶりに買ったら驚愕するくらい小さくなっていて、一度見ただけでマイクロペニスという備考と共に悲しみが脳に深く刻み込まれたのだが、雪見だいふくは前からこんなもんだったような気もするくらいの縮み方なのでいつまでもサイズ感を覚えられない。食後コンビニにアイスを買いに行って雪見だいふくを選ぶとこんなにいらない、おいしい、ありがとうを反復横飛びするが、かと言って思ったよりデカいんだよなと身構えて買うとそういう時は小さくなって見えるものである。

例えばそれが良いものであっても、天ぷら、スマホ、乳輪、炊飯器、鏡、自転車、などがデカいとわたしは嫌なので、なんでもかんでもデカければ良いと極端には振り切れないが、日常的にふれる物体において大は小を兼ねると思っている。ダンボールに梨を詰めるとして、箱が小さすぎるとムカつくが、箱がデカすぎて何もない空間に梨だけがある状態になっても別にムカつかないし無限の余白に宇宙さえ感じる。大仏が何故デカいかというと、神仏なんだし宇宙くらいデカい規格で作ろうやということで巨大に作られたのである。デカいということに有り難みを感じたり、またデカいということに畏怖や驚異を懐く感性は日本古来より存在していたのだ。

実を言うとわたしは逆に小さいものが怖い。特に生きものが怖い。赤ちゃんの小さい手のひらに触れてかわいいなと思うと同時に言い表し難い不安が背筋を駆け登ってくるのだが、チワワが怖いと言うと分かってくれる人が何人かいた。チワワは頭蓋骨がないので頭を打つと一大事と知ってしまってからは別の恐怖も加わって、チワワには絶対に道を譲り、急に物陰からチワワが飛び出してきても回避できるよういつも備えている。単純に、吹けば飛ぶ生命の儚さが直に見えて怖気付くのと、あとやっぱり小さいもの全般に対しての畏れのような感覚が根底にある。チワワの赤ちゃんがいるとして、もうすでにどきどきするが、もしそのものすごく小さい命を手のひらに乗せたら、緊張のあまり心臓を中心にどんどん縮こまって膨張してを繰り返してGANTZのデカい球体になると思う。

金沢二十一世紀美術館にデカい球が閉じ込められている部屋があるので、そしたらそこへ入れてください。