きんたまの裏側の世界

床がいつも濡れているので、ユニットバスで暮らすほとんどの住民は裸足でいるか、トイレに行く都度いちいち靴下を脱がなければならない。ゴムのサンダルを置けばよいのだが、我々の世界にこのサンダルをカビさせずに維持できる人間はいない。

そもそも紙で新聞を読む人も減っているだろうし、ご時勢の事情で衛生観念が向上した昨今では見かけなくなってきているかもしれないが、トイレで紙の新聞を読んでいるお父さんの概念はまだ失われていないだろうか。わたしが思い浮かべる幸福な生活にトイレで紙の新聞を読む時間は外せない。勿論トイレというのは自宅のトイレである。通勤途中に新聞を買って駅などのトイレを占領してだらだら居座るのは迷惑行為な上に不潔極まりない。田舎育ちなので、駅のトイレというと横文字でトイレと呼ぶことなど到底できない、まさしく便所といった異様に薄暗く湿った場所だったが、最近の駅のトイレは清潔で光に満ちていて便所などと呼称することは失礼なほどきれいなことが多いので、長居したくなる気持ちもまあ分かるが、駅のトイレは不特定多数が行き来する公共の場であり、穏やかに尻を出していられる安らぎの空間ではない。紙の新聞をトイレで読むならやはり、自分の縄張りで安心してけつを放り出して悠然と読みたい。

28歳なのに金が無さすぎてユニットバスの物件に住んでいる。家のトイレで新聞を読みたいという願望が生まれたのは由縁である。悪魔の発明の中で一番身近にあるのはユニットバスだと思う。もう何年も生活しているがうんこする場所の隣で風呂に入る意味が分からないし、こんな万年梅雨のようなところで紙の新聞を読めたものではない。湿原で生きるひとつの知恵だが、仕切りカーテンはどうせカビるから捨ててしまって潔くトイレを水浸しにしたほうが気持ち良い。気軽にトイレに熱湯をぶちまけるのがユニットバス唯一の利点である。ほかに良いことといえば、風呂もしくはトイレに入るたび思考の扉が開くことである。風呂とトイレが別になっている正常な物件では中々することが無いと思うが、我々は全裸でトイレに入ることがままある。そうするとユニットバスなので、一枚扉の向こうには全裸で風呂に入っている・全裸でトイレに入っている、二つの可能性が重なり合って同時に存在していることになる。やはり悪魔の発明なのでこのような宇宙めいた事象が発生するのだ。

或るとき女子校で、きんたまの裏側はちょっとだけへこんでいるのではないかと言う者がいた。そうでもないと収納するスペース無いじゃんという主張で、確かにと思った。正常な男性は外出の際、なにかしらの衣類で股間を覆っているので仕組みは目に見えないが、すれ違いざま明らかに、金玉此処に在りと主張していることはまずない。どこかにきれいに収まっているのだ。かつてスキニージーンズが主流だった時代も、履きたいんだけどちょっときんたまがね...という愚痴は聞かなかった。きんたまってまあまあでかいと思うんだけど本当にどうなってるんだ。男性は自分のきんたまがどこにどうなっているか把握しているものなのだろうか。わたしは奈良に長いこと住んでいたけど、台風の日に奈良公園にいるたくさんの鹿たちが、一体どこに収まっているのか知らないままだ。
雨が続くときんたまがいつも湿っていると聞いてから、ユニットバスで100%の湿度を感じる時、きんたまみたいなもんだよなと思うことがある。