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「常宿」をもつということ|なくならないでほしいホテル Vol.10

「HOTEL SHE,」などを運営するL&G GLOBAL BUSINESSで働くスタッフや、いつも応援してくださる皆様と一緒にお届けする連載「なくならないでほしいホテル」。絶対になくなってほしくない推しのホテルを主観たっぷりでお届けします。

自分がもつまで「常宿」とは、「昔の文豪」とセットで使う言葉だと思っていた。
そもそも、選択肢が溢れるほどあるこの時代に、常宿をもつ、という概念は合っていないし、いろいろなところに行かないなんてもったいない。
そう考えていたわたしが、気がつけば、常宿をもつオトナになっていた。

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今までいくつもの「もう一度泊まりたい」と思う宿に出会ってきた。
入った瞬間からときめきが止まらない宿、調度品のゴージャスさにため息が漏れる宿、美食を堪能できる宿、癒しの空間が素晴らしい宿、出来たばかりで勝手ながら成長を見守りたいと思った宿。

実際に再訪した宿も、何度も泊まりにいった宿もいくつかあるけれど、わたしが常宿と定義する宿は、世界に一軒しかない。
それが、湯河原にある温泉宿「石葉(せきよう)」である。

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美学でも信念でもない。「常宿」は気がついたらもっているもの

働き始めた頃、オトナの階段を昇るためのわかりやすいステップをいくつか設定した。

30歳になったら日本酒を飲めるカッコイイ女性になる。
40歳になったらコーディネートに1点高級なものを取り入れる。
50歳になったら子育てが終わった昔からの友達と女子旅を再開する。
60歳になったら白髪をいろんな色に染めてファンキーしちゃう。(ただ、どうやら白髪家系でないのでこれは叶えられそうもない)

書き出してみると、なんだかわたしの若い頃の薄っぺらさが際立つことばかりで少し恥ずかしいけれど、そのときのわたしに常宿の素晴らしさを説いて、オトナになるステップとしてこの項目を追加させようとは思わない。
あの頃のわたしに言ったってわからない、というのもあるけれど、常宿はわざわざ探して見つけるものではないし、叶えようと思ったからといってもてるものでもないからだ。

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気がついたら、わたしは常宿をもっていた、そうとしか言いようがない。オトナとして常宿をもつことってクールでしょ、なんてことは微塵も思っていない。
むしろ今だって、行ったことのない宿をどんどん開拓していくことが、旅好きとして年齢を重ねていくことの醍醐味だと思っているし、白地図を塗りつぶしていくこともとても楽しい。

なのに、石葉にはどうしても行ってしまうのだ。行かずにはいられないのだ。そんな想いにかられる宿に出会ってしまったから、たまたま常宿をもつオトナになった、というだけなのである。美学でも信念でもない。

わたしと「常宿」のちょうどいい関係

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「今年は大阪冬桜が少し早めに咲きましたので、お部屋から満開の姿をご覧いただけます。女将が何十年もかけて、とても上手に育てた木なんですよ」

いつもの仲居さんの話を、へー、と聞きながら、季節ごとに変わる館内の調度品や花を楽しんで部屋へ向かう。
わたしは彼女の名前も覚えていなければ、仲居さんの中でどういうポジションなのかも知らない。彼女がわたしの仕事について尋ねることもないし、今日のランチに何を食べたかを聞くこともない。

それでも、彼女は私にとって重要な存在だ。
半年に1回、2メートル程うしろをゆっくりと歩くわたしを部屋まで先導し、美味しい「あした葉茶」を淹れてくれる。
1年に2回、宿に着いて最初に飲むそのお茶は、疲れに包囲されたわたしのカラダと、頭の中に鎮座する痺れのような塊を一気に溶かすスイッチ。彼女はそのスイッチャーなのだ。

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「今日はお天気がいいから、お茶は縁側にご用意しましょうか」
「今日は到着がいつもより遅かったですから、明日は出発時間を気にせずごゆっくりお過ごしくださいね」

何度会っても馴れ合いにならず、あくまでも旅館と宿泊客という関係の中で、付かず離れず。そして、ただ希望に応えてくれるのではなく、こちらが醸し出す雰囲気を感じ取り、そっと寄り添ってくれる。
宿に家族のような関係を求めていないわたしには、この関係がとても心地よく、ちょうどよい。

石葉マジック

ここにいると、仲居さんに何かを頼む、ということがほとんどない。
お水はどんどん補充されるし、いつでもタオルはすべて新品に替えられている。(きっと、食事の準備や、布団を敷くタイミングで替えているのだろうが、そのシーンを見たことがない!)
食事のときの飲み物は、「いつもと同じ日本酒からお持ちしてよろしいでしょうか?」と先に聞かれるし、昔一度頼んだ延長コードは、次からは部屋に用意されていた。

さらに、聞いたことにはすべて回答が返ってくるので、気持ちが萎えることが一切ない。
「これはどこで取れた筍ですか?」
「なんでアイナメは鮎魚女って書くんでしょうか?」
もしわからないことがあれば、すぐに調べて「わたくしも気になったものですから」とメモをして、次の料理を運ぶついでに教えてくれる。(ちゃんと、わたしたちの会話が途切れた瞬間を狙って!)

いつも夕飯の担当をしてくれる彼女は、自分の仕事をこう話す。
「板場の人たちが作った100%の料理を、ただ運ぶだけではなく、120%にしてお客様にお届けする。そういうお口添えができることが、自分たちの大切な責任であり、この仕事の大きな魅力です」

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石葉で働いている人たちは、どんな職種の人たちも、勉強を惜しまず、お互いが尊敬しあっているのだろうと思う。いつも対面している仲居さん、わたしたちからは見えないバックヤードのスタッフたち、すべての人たちの「仕事」が積みあがって、一流の“もてなし”となって表れ出ている。
だから、ただただ石葉に身をゆだねているだけで、ココロもカラダも想像以上にふにゃふにゃになってしまうのだ。
ここは魔法の国なのである。

石葉には、石葉にしかない空気が流れている

空港からその国の匂いがする、なんて話はよく聞くけれど、石葉もそうだ。いや、そうだ、という表現は少し間違っているかもしれない。漂っているのは「ピッカピカの空気の匂い」だからだ。嗅覚として感じているわけではなく、わたしの細胞が嗅いでいるのだ。

部屋に染み付いた匂いや、空調から出る埃臭さなんてもちろん一切ない。厨房から流れてくる夕飯の香りさえしないのだから不思議だ。

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石葉には館内用のスリッパがないのだが、わたしは潔癖の気があり、床に足裏をつけるときには、つい足の指をきゅっと丸めてしまうタイプだ。
でも、この宿では違う。廊下も、部屋の中も、洗面所も、大浴場の脱衣所もお風呂場も、なんと縁側も。すべては完璧に拭き上げられ、磨き上げられている。わたしでさえ、裸で廊下に寝転べると思うほどに清潔だ。アメニティの靴下で館内を歩き回っても、黒ずむことはない。

だからきっと、流れる空気までもがピッカピカなのだ。ここには、「石葉」という空気が流れ、「石葉」にしかない香りが漂っている。

「常宿」は「何度も泊まりたくなる宿」と似て非なるもの

石葉には、特別なアクティビティも、大きな庭園も、バーもない。なくていいのだ。
自家源泉の良質な温泉、季節の食材を使った丁寧に作られた料理(つけ加えておくならミシュラン2つ星を獲得している)、ふっかふかの真っ白なお布団、季節ごとに変わる部屋の掛け軸や調度品、清潔すぎる館内、ピッカピカの空気に、ココロがとろける極上のもてなしがある。それが、わたしを石葉へと向かわせる。

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今では、旅に出ることと、石葉に行くことは、わたしの中では別物だ。
日々の生活の中で曇ってしまった心と視界をクリアにし、くすぶり始めていたよくない火種を鎮火させる、わたしの人生においてなくてはならないルーティン。
「常宿」とは、そういうものである。

文・写真:藤井利佳(GENIC編集長)


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