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「条件さえ整えば、地球上のすべての人間がよろこんで悪をなす」
悪霊に取り憑かれた旅人が、山間の平和な田舎町ヴィスコスを訪れた。この恐るべき考えを試そうと。
町で最初に旅人と知り合いになったのは、ホテルのバーで働くプリン嬢。田舎町の毎日にすっかり退屈していた彼女こそ、旅人の計画にどうしても必要な人物だった―。

善良な村を訪れた旅人は、実は悪魔だった--!? 山間の平和な村を、金塊を背負った旅人が訪れる。村で殺人が起きれば、金塊を村に提供しようという旅人の提案に、村人達の欲望が喚起され--。異常なまでの緊張感で、人間の根元的な問題に迫る衝撃作!

表紙は一見ほのぼの風味だけど、人間の本質を突きつけられる内容です。

ある日、退屈な村に大金(金塊)を持った紳士がやってきて、「今から1週間以内に村人の誰でもよいので、1人死ねば(殺せば)全ての金塊を譲るよ」と言われたら、あなたは誰かを殺せますか?

そんな事出来っこない。
うん、私もそう思うけど絶対にやらないと言い切れるかな?
少なくとも、私がこの物語のプリン嬢だったら、きっと心揺さぶられたと思います。

だって、田舎町で退屈しているプリン嬢、その金塊があれば、都会に出て遊び過ごすことだってできます。その退屈は、絶望です。

一見善良に見える村人達も、この企みに気づいた時、その旅人、、悪魔を殺して金塊を奪えないか画策を始める。。

唐突になんでこんな話しをするかというと、
つい先日の「トイレットペーパーが無くなるよ」騒ぎを見て、この物語を思い出したのです。

「無くなる前に、誰かに買われる前に買いに行かなきゃ!」
ええ、誰も殺さないけれども、その深層心理には近しいものがあるような気がしました。

私だって、たまたま買い置きがあったから冷静に見ていたけど、トイレットペーパーがあと1個しか無い!とかだったら、買いに走ったかもしれません。

このデマを初めに流したのが誰かは分かりませんが、今頃どんな風にこの状況を見ているでしょうか?
悪魔は常に、私たちのすぐそばにいて囁いているんです。

時には恐怖心をあおり、
時には甘い言葉を。

ただ、その悪魔は悪魔の顔はしておらず、
その様子を面白おかしくみているか、不安に駆られているかは分かりません。もしかしたら、そのデマを流した人は、その人なりの善意(不安にかられた妄想)から発信したのかもしれません。

なので、デマを流した人を一概に責めることも、トイレットペーパーを求めて列を成した人をせめることも出来ないのでは、と思います。

この作品はパウロコエーリョの三部作の最終章で、「善と悪」をテーマに書かれてます。
(ちなみに、第一作は「ピエトラ川のほとりで私は泣いた」第二作は「ベロニカは死ぬことにした」で、愛と生死がテーマです。ピエトラ川は読了出来ず挫折)

パウロコエーリョはブラジルの作家で、その多くはカトリックからの視点で書かれています。
特定の宗教への信仰をあまり持たない日本人には少し分かりづらい部分もあります。

けれど、この世界は常に二元性の表裏一体で、善悪を分かつことは出来ないということ、そして、物事は必ず視点を変えると別の顔が現れると言うことに気づき、子どもの頃から、絶対的な正義や善の押し付けが苦しかった私にとって、とても救いになった作品の一つです。

こういう話しをすると、ちょっとペシミズムっぽく思われるかもしれないけど、人々はみな、何か自分の人生を大きく動かすきっかけを待っているということでもあります。

そして、何かきっかけがあれば、自分で人生を動かすことだって出来ると気付けば、悪魔との取り引きをしなくたっていいのです。

自分の中には、善も悪も存在する。

初読の時に、そんな事を感じたのを思い出しました。

パウロコエーリョといえば、いちばん有名な作品は「アルケミスト」でしょうか。
今のようなスピリチュアルブームとは程遠い時代でしたが、人の精神についてや目に見えないものについて興味を持ち始めたきっかけだったかもしれません。

さて、冒頭に本作品のあらすじを書きましたが、
悪魔の提案にプリン嬢はどうしたのでしょうか?
気になる方は是非ご一度ください。

残念なのは、写真の装丁はもう販売されておらず、角川から文庫が出てるのだけど、イマイチな表紙でね、ちょっとこの世界観が表現されてないんですよ。もう少しなんとかしてほしい。


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