ぼくにあたえられたものがたりは、

ぼくは、実際に生きるということや死ぬということとは別に、自分にとって、何を「しあわせ」や「最適解」として選択するかということが、必ずしも自分で選んだり決めたりできる訳ではないということを知っている。
ぼくは、そういう選択や、選択するための検討をいつも先送りにしながら、実際にどう行動するかは、自分に起こることを追うままにしている時がかなりある。
「生きる」ことに、「死ぬ」ことに、いつも選択という意味の強い意志があるわけじゃない。
たまたま、自分に起こることを追っていたら、そのとき、そうだった、それだけなことが多い。
生きることに、目的や理由があるとは思わない。ただそこに在り、いつかは死んでいくその時まで在り続けるというのが、生きることなのだと、ぼくはおもう。
生きていればどうにかなるわけでもない。
起こったことは起こったことのまま、かたちが変われば変わったまま、どうにもならないまま、ただ在り続ける。
「しあわせ」が「くるしい」の代償になるはずもなく、「くるしい」が「しあわせ」そのものを消滅させるわけでもない。
そして、ぼくは、自分がなにを「しあわせのきおく」に選択しても、それが「しあわせ」であったことを知っていて、自分がなにを「くるしいのきおく」に選択しても、それが「くるしい」であったことを知っていて、それが時に、どちらも含めることもあるし、どちらも含めないこともある。
なぜ生きるか知っている者は、どのように生きることにも耐える、は、つまるところ、どのように生きたとしても、そこに在り続けることが、生きることだと知っているので、どのようにも生きる、ということだとおもう。
そうして、ぼくは、いつか死ぬまでをなんとなく、仕方なく、死にたいとか死ぬのは大変だとかその他諸々の懸念と葛藤し続けながら、どのようにも生きる。

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