「おもろい」って言いたい人生

言葉のニュアンスってとても繊細なんだよな〜って深夜に子供の晩ごはんストックを作りながら思う。

面白かったことを文章で表現するときに常に迷うことがある。
この面白さを最もよく伝えられる言葉は何だろうということ。僕のように毎日何かをXで垂れ流している人間でも、文章でそのニュアンスが損なわれないように多少文字を打ち直したりはしている。特に1番頭を悩ませるのは「面白い」をどのように表現するか?という問題。言ってしまえばそんなもの受け手によって違うし、考えたところで正解があるわけでもないんだけど。でも自分の中でこの面白さにこの表現は無いわ、みたいなのはどうしてもある。

特に「おもろい」この言葉は強い。
もともと関西に住んでいる人はこの「おもろい」を標準搭載している。次第にインストールしていくと言ってもいいかもしれない。それは関西には「面白い」事よりもお笑い的な、もっと言えばしょうもない面白さが日常に転がっている(もしくは作り出される環境にある?)からだと思う。「おもろい」と「面白い」のこのニュアンスの違いは、こんな文章を読んでくれている人には何となく伝わってると信じている。

自分が特に感じる面白いはどちらかと言えばこの「おもろい」という表現がキマる事がとても多い。しょうもないお笑い、小噺はもちろんフッと笑えるもの全てにおいてそのニュアンスを存分によく通す魔法の言葉だと思う。
だけど、僕はこの「おもろい」と言う言葉を文章で書くにはどうにも抵抗がある。話し言葉としては多用するけども、文章として僕が「おもろい」と書くのは嘘では無いか?という思考がよぎる。

僕はこの言葉を幼少期からテレビで、関西に来てからは日常的な会話の中でインストールしてきた。というかお笑いとか見てれば誰でもそうなると思うけど。「おもろい」を操るスキルは十二分にあるはずなのに、僕は関西の人間では無い。関西弁で喋ることはないし、イントネーションが移っただけの半端者の自分だ。そんな僕が果たしてこの強力な言葉を我が物顔で使うのはどうなのか?という思考が一瞬、突き抜けていく。その一瞬が今日も僕に「〜なの面白い。」「〜で興味深い。」「〜なの草。」と書かせる。違う、この面白さは「おもろい」で伝えたいのに…その方が「おもろい」のに…

関西に生まれていない僕がどれだけ関西弁を使おうと、偽物には変わりない。人形はどれだけ精巧に作られても人形に過ぎない。そこにある大きな壁を羨み、僕は今日も「おもろい」を感じても吐き出せずに飲み込むだけの哀れな受動体だ…

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