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[ 番外:神様にならなかったあいつの話 ]

―――――

突如世界に『怪物』が現れるようになってから、数十年。
現れた当初は、大変だったらしい。
歴史の授業で当時の話を聞いた気もするけど、よく覚えていない。

数十年も経てば、怪物に対する対抗策やら技術なんかも当然生まれてくるものだ。
政府は怪物への対抗策として、怪物と同じ力を持つ『ヒーロー』を作った。

街を壊す悪い奴をやっつけるヒーロー。
怪物が現れる前までは、フィクションの世界の話だったヒーロー。
文字通り、魔法少女だったり、あるいは特撮ものとかそんな感じの。

そんなヒーローと怪物が、あふれ返った世の中に生きている。
俺はその中の、ヒーローの一人だった。

へとへとでふらふらになった身体に鞭を打ち、ようやく帰宅した。
玄関の扉に手をかけると、テレビを見ていたらしいアイツがこちらに顔だけ向けた。

「おかえりなさい。今日も大活躍だったじゃんか、ヒーロー」

日常に帰ってきたな、という安心感で、ふっと肩の力が抜ける。

「ただいま。…今日は何していたんだ?」

「特に何もないよ。ずっとテレビ見ていたくらい?ああ、中継見てたよ。大変だったね、お疲れ様。はらはらしたよ」

「……そうそう、聞いてくれよ。今日の仕事は、大変だったんだ。倒したやつ、映ってた?見た目がさ、めっちゃカワイイの。まあ、やってることは、やってることなんだけどさ」

悪いなとは思うけれど、こいつにいつも愚痴を聞いてもらっている。

今日倒したのは、巨大な兎のような形をした、見た目だけなら可愛らしい怪物。
ただ、形が可愛いだけで、とんでもなく獰猛なやつなのだけれど。

あいつらの口の中はぎざぎざの歯がある。
おまけに獰猛で、何人も何人もあの巨大ウサギに喰われた。
あれを放っておけば、どうなるかわからない。だから、倒す必要があった。それなのに。

「…アイツを放っておけば、もっと人が死んだだろう。だけどさ、苦情の電話が入ったんだって。怪物だって命がある生き物なのに、倒してしまっていいのかって。あんなにかわいいのに…ってさ」

よくある話だ。怪物が現れた数十年前だったら、こんな苦情の電話が入ることもなかっただろう。
世の中が平和になればなるほど、こんな話も出てくる。
あいつは少し驚いた顔をしてから、暫し悩んで。

「みんな酷いな、きみのおかげなのに」
「ごめん、愚痴って。酷いってことはないよ。まあ、そういうことを気にかけられるくらい余裕がある世の中になったってことだ」

そう言って笑う。あいつは少し、困ったような顔をして笑った。

「……偉いな、ヒーローは。よくやっているよ。」
「僕は、きみのこと、ちゃんとわかっているから、大丈夫。凄く頑張ってるよ、きみは」

頑張ってる。よくやっている。そう言われて、ちょっと荒んだ心が落ち着くようだった。
「有難う、そう言ってくれるのはアンタくらいだよ」
「……まあね、話聞くくらいなら、できるから」
そう言った後、彼ははっ、と思いついたように。
「そうだ、お風呂沸いてるよ。入って来な」
ああ、そうだ。
煙たくなった、火の匂いが残っている上着を脱いで、ハンガーにかける。
そろそろクリーニングに出さないとな、と思いながら。

「有難う、ごめんな毎日」
「全然。これくらいしかできることがなくて、ごめんね」

その言葉に笑う。お風呂を沸かしておいてくれるだけで、こちらは大分救われるというのに。

「いいよ全然、帰りを待ってくれていたら、それだけでうれしい」
「…そうかなあ。役立たずでしょう、僕は。ご飯とか作れたらいいのにな」

あいつの手を見る。白くて細い指。…料理なんて作れるんだろうか。
あいつの字は正直言って汚い。不器用そうだけど、どうなんだろう。

「ご飯なんて全然いいよ。スーパーで弁当を買えばいいんだから」
「毎日弁当かあ。……栄養偏らない?どうせまたハンバーグ弁当でしょ」
「悪いか。好きなんだからいいだろ」
「………いやあ………ヒーローなんだから、身体が資本でしょ。いいの、栄養バランスとかなんか考えなくて」
「ご飯くらい好きにさせてくれ!」

あいつは少し鼻で笑った。いいだろう好きなものを毎日食べたって。
食事に気を付けろ、とこいつは口が五月蠅い。

「まあ、おいしいけどさ。子供みたいな味覚だよね」

うるさい、とむくれた表情をしてみれば、からからと笑う。

「いや、じゃあ、そうだな。料理、作ってくれよ。そしたら、弁当は控えるようにするから」
「分かった、明日からやってみるよ。簡単なことしかできないかもだけど」

あいつは笑って、小指を差し出してきた。約束するときに、いつもこの仕草をしてくる。こういうところは、お前も子供なんじゃないかと思うけれど、俺は大人なので何も言わないでやる。小指を絡ませて、指きりげんまんの歌を歌って、指切った、と笑った。

その後、さっさと風呂入ってくればいい、と言われて、風呂場に行った。
シャワーを浴びて、暖められた湯船につかって暫し思考に耽る。

―――――

『あいつ』と出会ったのは、数年前のことだった。
仕事につかれて、ふらふらといつもの帰り道を辿っていたんだと思う。

ぼろきれを纏った、怪我だらけの人が、倒れていた。
怪我しているけど、どうしようか。
医療機関に連れて行こうか。

よくわからないけれど、俺はその人を、肩に担いで家に連れ帰ってしまった。
それで、家で手当てをした。
それがあいつとの出会いだった。

目覚めたあいつに色々尋ねてみたが、身の上話は頑なにしない。それどころか、迷惑をかけた、悪かった、とそのままどこかに行こうとしたのがなんか気に食わなかったので、無理矢理引き留めた。助けたのだから、事情を聞く権利はあるだろう。

ようやく聞き出せたことは、とにかく行くところが無いということだった。よくわからないけど、じゃあ、うちに住めばいい、と言った。
なんだか、悪い奴にはみえなかったし、酷く困っているようだったから。

なんだかんだ、一緒に住むようになってから数年経った。
数年経っても、あいつの事はよく知らない。何か事情があるんだろうな、とは思う。
でも、なんでか、あいつの肌に、鱗があるのを見た。それも数年前に比べて少しずつ、肌をしめる鱗の面積が増えて行っている気がする。……なんで、何も言ってくれないんだろう。
普通の人間だったら、そんなの無いはずだろう。何も知らないふりをしているけれど、どうなんだろうか。
いつか、あいつが話してくれたら嬉しいなと思っているけれど、どうなんだろうな。

家に帰ったら待ってくれる人がいて、暖かい風呂が沸いている。
それだけで、毎日満たされたような暮らしだ。

―――――

兎の怪物を倒して、数日後のことだった。
いつも通りに帰宅をする。おかえり、と言われて出迎えられた。

あいつはだんだん、目玉焼きとか、料理がだんだんできるようになっていった。
昨日は、味噌汁が作れるようになったりだとか。成長が早い、と思う。
ただ、手先は不器用なようで、切った野菜の大きさが微妙に揃ってなかったりする。あいつ曰く、食えればいいと言っていたけれども。まあ、食えれば俺も気にはしない。

「おかえり。今日はどうだった?」
「ただいま、まー、相変わらず忙しい。今日はなにか作ったのか?」

やつはちょっと気まずそうに、笑った。
「いや、ハンバーグ作ったんだけどさ、こう……」
気まずそうに、テーブルの上に運ばれてきたハンバーグは、なんか形が崩れていた。
「ひっくり返すときに失敗しちゃってさ」
「はは、わかる。よくやる、よくやる。でも、作ってくれようとしたのは嬉しいよ。有難う。食えねえ事はないだろ」
「たぶん、まー、味は変わらないでしょう。弁当ほどうまくはないけれどさ」
失敗したはずなのに、何故か得意げだ。なんかわらってしまった。
付け合わせのにんじんは、相変わらず変な切り方だ。

「食べよう。…その前に風呂でも入る?」
「ああ」

その日の風呂も、暖かかった。

―――――
それから、またしばらく経った後のこと。
連日、隣町から応援が来ていて、長らく家を離れていた。
数日あいつを置いて、家を出ることになった。ご飯代を置いていったから、大丈夫だと思うけれど。
いつも通りに帰宅をする。おかえり、と言われて出迎えられた。
久々に見たあいつの姿は、なんかヘンだった。
頭の上から、鹿、あるいは植物のようなツノ?が生えている。

「それ……」
「ああ、うん、なんか……生えてきたんだ」

色々聞きたいことはあったけれど、なんとなくそうなのか、と受け入れることにした。
聞いても、教えてくれなさそうだったし。
「そっか。似合ってていいんじゃない?」
「うん」

「今日のご飯、何?」
「今日はポテトサラダってやつ!」

じゃがいも好きなのかなあ。じゃがいも系の料理、最近多いな。

「いいな。先に風呂入るよ」
「わかった、お風呂沸いてるよ」

その日の風呂も、暖かかった。

―――――

それから、しばらく経ってのこと。
家に帰ってきて、テーブルに並べられているメニューを見て、首を傾げる。最近は、なにかと色々こだわっているようだったけど、今日は目玉焼きとベーコンと、スープだった。
 ふと、あいつの手を見ると、包帯が巻かれていて、目を見開いた。
「なにかあったのか?怪我したの?大丈夫か?」
「手、……なんか、ちょっと、怪我して。上手く動かせなくてさ。だから、これからはご飯、作れなくなるかも」
「病院行く?」
「いや、いいよ。大したことじゃない」
「包帯を巻くくらいだから、大したことはあるんじゃないか」
「でも、病院行くレベルの怪我じゃないよ」
 一応心配だから、と思ったが、あまり深く聞かれたく無さそうに見えたので言葉を呑み込んだ。

「風呂、沸いてるよ」

話しを逸らされたけど、それ以上続くことばが見つからなくて、頷いてしまった。
その日の風呂も、暖かかった。

―――――

また、それからしばらく経っての事。

その日も仕事でひどく疲れていた。扉を開けると、いつもならすぐにかかる声が無かった。

「――ああ、お帰り。ごめん」
ごめん、というのはなんだろうか。首を傾げながら部屋に戻ると、いつもと違った様子で、あいつが座っていた。

「ただいま。どうしたんだ、これ」
「………ごめん、コップを割っちゃったんだ」

見ると、白いコップが割れていて、その破片が散らばっていた。
片づけなきゃ、と思って、思わず、ため息が出る。
「……怪我は?」

「いや、ない。……ほんと、ごめん」
あいつが困ったような顔をしたので、ああ、と笑ってみせた。

「――――いや、怪我が無くてよかった。違うんだよ、こっちこそごめん。今日は疲れててさ。全然怒ってない」
「……ごめんな」
「怒って無いって」
ひどく申し訳なさそうな顔をするので、思わず笑ってしまった。
「全然安物のやつだしさ。気にしてない。危ないから、離れてな」
そう言って、割れたコップの破片を片付ける。あいつの視線を背中に感じながら、コップの破片を拾う。

「今日は、風呂湧いてる?」
「……うん」
「ありがとう」

そう言って目を合わせて笑うと、あいつは視線を泳がせた。
「ごめん、疲れているのに余計なことして」
「いいよ、気にしてない。夕飯用意してくれようとしたんだろ?」
「………そう、だけどさ………」
「ネガティブだよなあ。気にすんなって」
からからと笑って、焦げ臭くなった上着を脱いでハンガーにかけた。

その日の風呂も、暖かかった。

―――――

また、それから数日後のこと。

いつも通りに帰宅をする。おかえり、と言われて出迎えられた。
お腹が空いていたので、風呂の前にご飯を食べることにした。
手の怪我がまだ治っていないようだったから、弁当を買ってきた。
ただ、お湯を沸かしてスープを作ってくれていた。

ふと、ご飯を食べている時、普段ならくだらない話ばかりをするのに、急にあいつが真面目な顔で聞いてきた。

「僕がさ、もし―――君がいつも倒しているみたいな、理性のない化け物になっちゃったら、どうする?」

「なんだよ、急に」

「別に。少し気になっただけだ」
少し考える。そうなったら、俺はどうするんだろう。
「世界を敵に回しても、お前を助けようとすると思う。…生かそうとするんじゃないかな。だって、大事な家族だから」
真面目な顔をして聞いてきたので、真面目に答えた方がいいんじゃないかと思って答えた。彼は、少し困ったような顔でからからと笑った。
「はは、ヒーローがそんなこと言っていいのかよ」
「だって、ヒーローでも家族は大事だろ」
「………そっか。でもさ、そんな事言わなくていいよ。きみは神様じゃないんだから、守れないことだってある」
「まあ、全部守るよ、俺、ヒーローだし」
そう言って笑った。
聞いてきたのはお前だろうに。でも、なんだかさっきまでしていた不安そうな顔が、少し笑っていたので、回答に満足してくれたんだろうか。

そういえば、おなかが空きすぎて帰ってきて速攻でご飯を食べてしまったけれど。

「今日は風呂、湧いている?」

そう言うと、あいつは笑った。

「沸いてる。ごめんな、これしかできることなくて」
「お互い様だろ?結構嬉しいんだよ、家に帰って、風呂が沸いてるってこと」
「そうかなあ。…だって、僕は養ってもらっている立場だろう、全然見合ってない」
「お前の言う、その…見合っているとかいないとか、よくわかんないけどさ。俺は一緒にいてくれて嬉しいんだよ、お前が」
それならいいけれど、とあいつは笑った。

その日の風呂も、暖かかった。

―――――

また、それから数日後のこと。

――――その日は、最悪だった。
無力だった。何も助けられなかった。
職業柄、これまで、数多の怪物を相手にしていたけれど、圧倒的な力を前に、俺はなにもできなかった。

引き裂かれていく仲間を見た。
逃げられなかった一般人が喰われていくのを、薄れていく意識の中で見た。

緑色の目をした、あの魚のような、蟲のような、形をした怪物。
圧倒的な力を持つ怪物。

なにも、できなかった。

目が覚めたら病院だった。
俺は、無様にも助かってしまったらしい。……何も、何もできなかった。

医者にも心配されたけど、ふらふらの身体で、そのまま家に帰る事にした。
家に待たせている人もいるし。

数日、家を開けていたけれど大丈夫だろうか。
家に、あいつをひとりのこしてしまった。冷蔵庫には、いくつか食べられるもんがあったと思うけれど。
「……あいつ、冷蔵庫くらいは開けられるよな?」

スーパーで買ったハンバーグ弁当の入ったレジ袋を引っ提げたまま玄関の扉を開ける。

――――扉を開けたら、あの『怪物』が家の中にいた。
緑色の目をした、あの魚のような、蟲のような、形をした怪物。

条件反射的に、『怪物』を組み伏せて、首元にナイフを突き立てた。
そこではっ、と意識が戻る。
俺が怪物だと思っていたのは、あいつだった。

「………おかえり」
「………ただいま」

あいつは何も聞かずに、笑った。

「……帰り、遅かったね。風呂、沸いてるよ」
「違うんだよ、ごめん」
「大丈夫だよ、なんかあったんだろ。わかんないけどさ。気にしてない」

ごめん、ともう一度謝る。「気にしてない」と、あいつは笑った。
「なんか、いつもと立場が逆だな」
「…逆って?」
「いや、ほら、だって僕がいつも謝る側でしょう」
「…それもそうか」

思わず、笑ってしまった。あいつも笑っていた。

その日の風呂も、暖かかった。

―――――

また、それから数日後のこと。

あの例の、新型の、魚?蟲?みたいな怪物の対処で、追われていた。
あの怪物は、海蜘蛛、と名付けられた。
……アレを、アイツらを、許してはいけない。

亡くなった命を、無駄にするわけにはいかない。

……そのせいで、帰りも遅くなってしまった。

玄関を開けるとあいつはそこに立っていて、ぼうっと靴箱を見ていた。俺に気づくと顔を上げて、おかえり、と言う。
俺の帰りが遅くて、心配だったから待っていたらしい。

テレビを見ながら弁当を食べて、他愛のない話をした。

そのあと、新しく現れた怪物のこと、そいつが凄く強くて、仲間もたくさん死んだこと。
そのことを、あいつに話した。

いつもと同じように真剣に耳を傾けて、聞いてくれたけど、何だかいつもと違う雰囲気だった。
「………そっか、大変だったな。……お疲れ様、頑張ったね」

「………なあ、あのさ」
何かを知っているのか、あの化け物の事。知っていたら、教えて欲しいと言いかけて、でも、それを聞いてしまえば、この生活が崩れてしまうんじゃないかと思った。だから、何も聞けなかった。

「………ごめん、なんでもない。今日も、風呂、湧いている?」
「………うん、湧いているよ」

その日の風呂も、暖かかった。

―――――

また、それから数日後のこと。帰りがまた、遅くなってしまった。

「……ごめん、今日は疲れたから、風呂だけ入って寝るわ。
…弁当あるから、食べとけばいい」

あいつは、そっかと笑った。
「おかえり。最近遅いね、…お疲れ様。大変だったんだな。がんばったね」

上着を脱いで、ハンガーにかける。

「ありがとう。………いや、あのさ」
「何か、困ってることとか、ある?」

なんで、それを聞いたのかはわからない。

「…無いよ。気にすんなって。」
「…仮にあったとしても、今、疲れたきみにその事を言いたくない。」

「散々打ちのめされて疲れているひとに、がんばったね、
えらいね以外にかける言葉、ないだろ?」

今思えば、あそこで追及しておけばよかったのかもしれない。

「……有難う。ごめんな、最近遅くて」
「いいよ、大変だってこと、わかっているから」

「風呂、湧いている?」
いつものように、その質問をした。

「ああ、湧いているよ」
その日の風呂も、暖かかった。

―――――

また、それから数日後のこと。

帰りがまた、遅くなってしまった。

「………ごめん、今日は疲れたから、寝る。弁当も買ってきたから、勝手に食べて。」

あいつは、そっかと笑う。

「風呂、湧いているけど……」

「今日は、いいや。………ごめん」

「そっか、お疲れ様」

「…ああ、有難う。おやすみ」

「ごめんね、何もできなくて。僕が、神様だったらよかったのにな」

ベットに倒れ込んで、そのまま意識は眠りの中に引き込まれて行った。

―――――

また、それから数日後のこと。

その日も、へとへとになって帰ってきた。
帰りが遅くなってしまった。

家に帰ったら、あいつが、いなかった。
探しに行こうと思ったけれど、そんなことが出来ないくらい身体は疲れ果てていた。

たぶん、あいつも、きっとたまには外に出かけたくなったんだろう。
昼間はどっかに散歩に出かけているらしいし。
きっとそうだ。

まともに考えられない頭で、そう思った。
……あのとき、探しておけば良かったかもしれない。

その日も、風呂が沸いていた。
風呂が沸いているよ、という声も、お帰りという声もなかったけれど、その日の風呂も、暖かかった。

―――――

それから、次の日の事。久々の休みだった。
あいつがもしいたら、一緒にゆっくり過ごそうと思っていたのに。

あいつは起きてみてもいなかった。
おかげで、ハンバーグ弁当2つを、朝ご飯と昼ごはんに食べる羽目になった。

家から出て、近所を探し回ったけれど、どこにもいない。
心当たりのある場所を探したけれど、どこにも、――どこにも、いなかった。

どこまでも探し回ったけれど、いなかった。
その日は、当然だけど風呂が沸いていることも無くて、シャワーだけ浴びた気がする。

ニュースで、近所で火災があったという話を聞いた。
変死体が見つかったらしい。

物騒な話もあるものだ、と思う。

―――――

それから、数年がたった。

相変わらず、あいつは帰ってきてない。
けれど、驚くほどに、あの例の『海蜘蛛』は、あの日を境にぱっと現れなくなった。

ハンバーグ弁当を2つ買って帰ってしまう。

おかえりと出迎える声は無くて、家に帰っても風呂は沸いていない。

でも、いつか出迎えてくれる気がして、毎日、弁当は2つ買っていってしまう。
目を逸らして、見ないふりをした。今も、見ないふりをしている。

俺はもっと、踏み込んでいればよかったんだろうか。

もっと、もっと沢山話し合っていれば。
話す? 俺の何を伝えるべきだったというんだ。
救いになるような気持ちなど、ひとつも持っていなかった癖に。

部屋にはもう、アイツの姿はどこにもなかった。


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