アクアリウム3

「何を決めたんだよ」

兵藤が読み終えた漫画を満足気にバッグへしまって、初めて顔を上げて問いかけるが、当の市原はいつの間にか出てきたパッタイを夢中で頬張りながら、本場のパッタイより美味いな、と満足そうに笑っている。

テレビでは、最近出てきたゴルフの若手選手のプレーが放送されていた。もう少しで最年少賞金王になれるというその青年のプレーはゴルフのゴの字も知らない自分から見ても何とも美しく安定したプレーだった。この卒のないプレーの裏にどれほどの努力があるのだろう、と感心してしまう。自分達と同い年とはとても思えない程大人びた顔付きで、颯爽とした雰囲気をまといながら歩く姿はさながらヒーローだ。

「俺はさ、数ヶ月程度の滞在を含めたら20カ国以上の国でくらしたんだ。そうすると陸続きですぐ隣の国だって全く違う暮らしをしてて、何もかもが全部違うなんていうのは結構当然なわけ。不思議なもんだよな。そうすると国の法律だとかそんなもんは大抵どっかの誰かが勝手に決めた良い加減なもんだって明確な実感として気がつくんだよ。だからってその国にいる限りは従わない訳にはいかないけどな。でもさそんなんだと自分のアイデンティティをどう築いていったら良いのか分からないんだよ。自分を取り巻く環境が大きな意味でほとんど変化無く大人になる人間は何も問題がないわけだけど、俺みたいに何度も取り巻く全てを白紙に戻される生活をしていくとなると、外部の色んなことに一々影響されてたら、何が何だか分からなくなるわけ。だから、俺は決めたんだ。俺の事は、俺の心が決める。ルールもマナーも全てだ。」
酒が回って饒舌になったのか急に食い気味で語り始める市原に驚きつつも、何となく理解出来る様な気がした。
「ふーん、でもルールとかマナーってある往往にして親の考えを踏襲していくもんじゃないの?」
兵藤は相変わらず興味のなさそうな語調で、皿を突きながら話している。
「まぁある程度はな。ただうちは親父もほとんど家にいなかったし、母親も世界中どこだって付き合っていける位お気楽なタイプだったから、基本的に子供も放任主義で育てられた感じだしな。多分普通の子供よりも自立心が芽生えるのは早かった気がするな」
「うーん」
兵藤は腕を組んでさも何かを考えている声を出したが、もしかしたら話の途中から出し始めた新しい漫画に夢中になって話半分なのかもしれない。
しかし、ルールもマナーも全て自分できめるというのは実は相当の覚悟と度胸が必要なのではないだろうか、と考えてしまう。市原にはそれを自然と納得させてしまうオーラがあるから不思議だ。
「はぁ、なんかかっこいいこと語っちゃって。はいはい、ずっと国内に住んでた俺らには分かんねぇよ」
井出が言葉とは裏腹に瞳を輝かせて笑う。
多分こうやって憎まれ口を叩いても井出も市原のそういう何とも屈託の無い美しい在り方に憧れを抱いているのではないだろうか。

「ところでお前は?お前は傍観者か?」
兵藤が突然自分に話を振るので一瞬何の話か分からなくなる。そういえば、この飲み会で自分から発言することがほとんど無かったと思い返した。
「イジメられっこか?それともヒーローか?」「あぁ、イジメの話か」
小学生のころの忘れかけていた記憶がうっすらと蘇る。
「...いや、どれもちがうな」
自分の周りで起きたイジメはあれが唯一だと記憶している。
「おまっまさか...いじめっ子か!!」
「いやいや。まさか、それも違う」
考えてみれば少し奇妙で、不思議な終わり方だった。

「そうだな、完結に言うと、ヒーローになろうとしてしくじったんだ。リアルにフルボッコだね。助けられたけど」
「まじかよ、お前極真黒帯だったよな?」
「そうだけど、その時はまだ空手も始めて無かったしな」
「なるほどね」
兵藤が残念そうな顔をした一方で、井出が心底嬉しそうに、うんうんと頷いて、肩に腕を回してくる。
「勇気はかうぜ、同志よ。落ち込むことは無い。一般社会ではヒーローになんてなれないのが当たり前なんだ。そんな奴がそうそういてたまるかよ」

テレビでは謎の殺人事件が放送されている。
都内のマンションの中で若い一人暮らしの人間が殺されるという事件が続いているらしい。
不思議なのは金銭的な被害など何も無く、被害者にこれといった共通点もないという事らしい。
「お前らも一人暮らしなんだから気を付けろよ」
市原が笑いながら言った。

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