見出し画像

『命懸けの虚構〜聞書・百瀬博教一代』  #13

東京オリンピック

  1964年10月10日午後2時。
  東京千駄ヶ谷の国立競技場に94カ国5586人の選手団が集結し、アジア初の開催となる、第18回オリンピック東京大会が幕を開けた。
  新幹線や首都高速道路をはじめ、交通網整備など壮大なプロジェクトが突貫工事ですすめられ、もちろん各競技場や選手村が建設されるなど、東京の景観は、この年を境に一変することになった。
  日本はこのとき、高度経済成長にドライブがかかってオリンピックはそれに一段と加速をかけたのだった。

 そしてその結果、「オリンピック以降の東京の変貌、人心の頽落」が一連の百瀬作品のテーマになる。

  博教は中学時代にベルリン・オリンピックのドキュメンタリー映画「民族の祭典」に魅せられていたので開会式から全種目観戦をくわだてた。
 柔道、レスリング、体操、陸上、ボート、水泳、バスケット、フェンシング等、なんの入場券でも手に入ればいいと思い、はがきを沢山買って当選すればチケットを送ってくれるという日本オリンピック委員会に送ったが総てはずれてしまった。
 しかし、なんとしても観たかったので相撲部の後輩から体育会の者やクラスの者達に、どんな競技のチケットでも「言い値で買う」という触れを出すよう頼んでいたので、開会式の入場券が手に入ったのを皮切りに閉会式、柔道、陸上、バスケット、ボート等のチケットが掌中に流れ込んで来た。 
 しかし、一番観たかった開会式のチケットはどんなに頑張っても一枚しか手に入らなかった。

  そして、当日、これから始まろうとする開会式を今か今かと待っているのに、なかなか式は始まらない。
  持っていった望遠鏡で、ロイヤル・ボックスや会場中を眺めていると、クウェートでお世話になったアラビア石油の重役、カール・アルマズーク氏とその一行が居るのを見つけた。
「ミスター・アルマズーク!」
 大声で二度呼び掛けると、彼は気がつき立ちあがると右手を高く上げた。
それから、電話しろというゼスチャーを見せた。
 承知して「オーケー」と言いながら大きく手を撮った。

 この日を最後で、その後、博教は彼と一度も会っていない。
  その後、アルマズークには三十四歳で獄を出て初めての旅をした時のパリからと、一九九一年湾岸戦争でイラクに占領され、多国籍軍によって解放された後の計二回手紙を出したが二度とも無音だった。

『アルマズークのことは毎日、思い出すね。生きているのか死んでいるのか、お釈迦様でもわかんないね。『出会いに照れない』って俺はよく言うだろ、でも逆に『距離は人を夢見させる』とも言えるんだよ。アルマズークとはもう会えないかもしれないよ。でも人生は演出なんだから劇的に会わなきゃ意味がないんだよ。ノンベンダラリンと日常で退屈に会っててもしょうが無いんだよ』


拳銃不法所持

 東京オリンピックが終るとすぐ、後藤からサイレンサー付き拳銃を預った。
 サイレンサー付きの拳銃を自分のものにするのは初めてだった。
〈日本中で持っているのは、自分だけかもしれない〉
  博教はしばし優越感に浸った。
  消音銃と言いながらも電話帳めがけて一発撃つと火薬が炸裂する音は思った以上に大きかった。
  二、三発撃ったが音は同じだった。プスンと弾が飛び出すのは映画での作り事だと判った。

  この頃、拳銃不法所持事件が頻繁に起きた。
  里見浩太郎、山城新伍、平尾昌晃等がハワイからピストルを持ち帰り一大スキャンダルになった。
  相撲界でも、大鵬、柏戸、若羽黒が拳銃を持ち込み処分を受けた。
  落語界でも博教が愛した3代目志ん朝も丁度、この頃に拳銃を手にしていた。
  しかし、志ん朝の場合は発覚したのは1985年、懇意のテレビプロデューサーに預けていたところ、そのプロデューサーが銃刀法違反で現行犯逮捕され、入手経路に志ん朝の名前を供述したのだ。
 時効のため志ん朝は処分を受けなかったがコメントを出した。
「小林さんに迷惑をかけて大変申し訳ない。はっきり言ってあれは私が預けたものです。20年ほど前、夢というか憧れというか、拳銃やジャックナイフが好きだったんです。あの銃は知り合いから譲り受けて最初は嬉しくて興奮してたんです。そのうちスターがハワイから持ち込んだ拳銃が事件になったりして、僕も不安になってきた。そういう時に限って、うっかり落としたりするもんだから、早く処分したいと思ったが、自分ではなかなか捨てる勇気がなかった。小林さんは、僕をテレビの世界に引っぱってくれた人で、公私共に仲良くしてたので、相談したところ「それはまずいよ」と言われましてね。こんなことになるとは思わず、預けたわけです。それが何で今頃。小学校の頃の喧嘩した友達に、突然張り倒されたような気分で…」
「その拳銃を志ん朝さんがどこで入手したのか?」という話題になると、
「警察では証言したが、ここで名前を言うのは勘弁してください。絶対に暴力団や同業者じゃありません」と答えている。
 
 この記事は、当時、凶暴な人だけが拳銃に憧れたわけではない、ことがよくわかる。

しかも、当時の税関のチエックも甘かった。

 「昔はフリーパスだったの。これは有名な笑い話になっているけどさ『てなもん屋三度笠』の白木みのるって、大人なのに子供のようなコメディアンがいてね。彼がテンガロンハットを被ってホルスターをして、両手に本物のピストルを持って『バンバーン!』とか言いながら歩いて来たら、みんなオモチャだと思ってノーチェックで税関を通れたって、オモクレー話もあるくらい素通りだったんだよ」

 拳銃スキャンダルが続くなかでも博教は、自分に捜査の手のが伸びることはありえないとタカをくくっていた。
 なにしろ、博教本人は、密輸先の二人の顔も名前も知らなかった。 
仕入れるのは全て後藤だった。
 後藤が足をついても口を割ることはない。
 もっかの問題は、数を入れすぎて供給過剰でだぶついてきたことだった。

「これは初めて話すけど、この頃、ハマコーにハジキを売りに行ったこともあるんだよ。立教の相撲部の先輩の若鍋さんに『ハジキ持ってるんだけどハマコーは買わないかな?』と持ちかけたのよ。若鍋さんは同じ木更津でハマコーと親しいんですよ。『そりゃあ、欲しがるよ!』って言ってさ。当時、5~6万で仕入れたものを15~6万で売ってたんです。その頃の15万ったら150万じゃきかないですよ。供給過剰でね、もう、この頃、東京の不良たちには買いきれなかった。もう俺みたいに600丁あったら、それは仕入れすぎなのよ。東京の組織も金がないから、愛知県とか、津の下角まで売りに行ってたもん。で、手元に10丁くらい余ってたんだよ。そこに後藤からサイレンサー付きがきたんだけど高いのよ、22万とか。2丁しかなかったんだけど上手く話がついて木更津まで行ったのよ。でもその日は、たまたまハマコーはいなかったんですよ。それで今日は泊まって明日、ハマコーと直接話をしょうと言ってたとき、その木更津に電話がかかってきたんですよ。『後藤が捕まった!』って。でもハマコーのことは一切どこにも喋らなかったけどね。だから、今、初めてオマエに言ってるんだよ」

私は、この話にはひっくり返って驚いた。

──基本、この物語は、両論併記のノンフィクションではなく、百瀬博教の文章の要約と私の聞き書きだけの主観で語るとしていたが、流石にこの話だけは裏とりに動いた。
 資料を整え、浜田幸一とのロケでの共演を長く待ち続け、数年越しにその機会は訪れたが、その模様はあまりにも面白く長くなるので子細はここでは省く。

 その日、12月15日──。

  百瀬博教の相棒、後藤清忠が捕まった。
「僕の父親は軍人だ。もしもの事があれば何時でも父のように自決する」
後藤の言葉に千鈞の重みを感じていた博教が、共犯者となった後藤の裏切りを知るまでには時間が掛からなかった。
 博教は『裏切るのは身内から』という言葉が身に沁みた。
 10日後の12月25日、博教の自宅に捜査員が来た。
 捜査員の自宅捜査に対し、博教は父・梅太郎と相談した。
 梅太郎は、博教がこれほどの数の拳銃を入れているとは知らなかった。
 しかし、官憲から逃げ切った梅太郎の時代と違って、今、逃走するのは、もはや得策ではなかった。

  翌日、博教はサイレンサー付き自動拳銃ブローニング22口径を2丁持って警視庁保安課に出頭した。
  警視庁に出頭する朝、梅太郎は電通の喫茶室でジュースを飲ませてくれてから保安課まで一緒に来て、係長に博教が遣う金を預けてくれた。
「こんなにいりませんよ。銀座に遊びに行くんじゃないんだから……」
 と博教は言った。
 警視庁に入ると出て来た係に名乗ると、
「やあ、御苦労さん。そこに居て下さい」
  博教は何が御苦労さんなのか判らないが、頭を下げて神妙にしていると、保安課長の小松氏がやって来た。
「これがそうかね。こんなスマートな拳銃は見たことがない」
  博教がボストンバッグから取り出し、課長の机の上に置いたものを手に取って眺めながら感心していた。
「弾も百発あったんですが、二十八発ほど、電話帳を撃ったり、夜中に田圃で撃ったりしちまいました」
「あ、いいよ、いいよ。それは又後で詳しく説明してくれれば……」
 背の高い刑事が言った。
「警視庁の留置場でなく、別の所に行くが、所持品を出してみなさい」
 家から風呂敷に包んで持って来たものを広げると、
「着物を三枚も持って来るなんてのは君だけだよ。留置所では帯の代りに紙紐しか使えないから、その褞袍だけ残して、他の着物と帯は預かっておいて、後で家の者に渡してやる。セーターもこんなにいらない。好きなの一つだけにしなさい」
 香港で買った紫色のイエーガーのセーターを取りだした。
「まあ、やっちまったことは仕方ない。この新聞でも読んで待っていなさい。そこに坐ってていいよ」
  小松課長はそう言って、自分が読んでいた新聞を「ほい」という感じで渡してくれた。博教は自然体の小松氏の態度に驚いた。
 意気込んで出頭して来たので、こう優しいと勝手が違った。
「じゃあね。君はこれから麹町警察に行ってもらう。調べは明日からにしよう」
 ここで手錠を掛けられた。
 手錠は生まれて初めての体験であった。
 いくら「怪我は自分持ち」と子供の頃から父に教わってきたとはいえ、屈辱で全身がかっと熱くなった。

「オマエは手錠はかけられたことはないでしょ? SMくらいしか(笑)  手錠って屈辱的なんですよ。重いし、抵抗できないし、拘束されるって意味だから敗北感が強いんですよ。でも、俺くらいになると、そこで負けってならない。イザとなったらこんなものは引きちぎってやるって思えるんですよ」

「麹町署、被疑者一名押送します」
「了解」
護送用のジープは走り出した。
「サイレンサー拳銃って、あんな筒くらいで映画で見るように消音されるのかい……」
 背の高い刑事が尋ねた。
「映画みたいにはいきませんね。プスンくらいな感じで弾が出るのかと思ったんですが、拳銃のドカンていうあの音の半分、いや三分の一くらいしか音は落ちませんよ。でも夜中に撃った時、拳銃の先から五、六発オレンジ色の火が三十センチ位出て、綺麗でしたね」
「何処で撃ったんだ」
「家から車で十分ほどの国分って田舎の田圃めがけて撃ったんです。水田だったので水が少し残ってて、弾が泥にめり込む時、面白い音しましたよ」
「他でも撃ったんだろう」
「いいえ……」

 本当は警視庁に出頭する前日、立教大学相撲部の道場で、学生横網の堀口圭一に永い別れの記念として、道場の隅に盛られている砂に向かって、一発撃たせてやったのだ。が、それは黙っていた。
  この事件には、共犯者の後藤が居たので二人を同じ警視庁には留置されず、博教の身柄は国立劇場に近い麹町署に送られた。
 保安課の一ヶ月の取調べから博教は4課丸暴担当に引き渡された。

「後藤の裏切りはショックだったね、まさか俺の名前を出すとは思わないですよ。見つかったら自決するって言ってたくらいなんだから。家宅捜査の段階で俺は懲役は覚悟していたね。親父に『いってこい』って言われたしね。それは我慢を試してこいってことだから。まさか自分が収監される前に逃亡者になるとはこの時点では思ってませんよ」

 1965年の正月、博教は留置場で迎えた。
 前年の12月25日より7月中旬まで、麹町警察署の留置場で調べられた。調べが始まり、昼飯は毎日、警視庁食堂の定食を買って来てもらって喰べた。
  煮魚でも焼魚でも百円か百二十円だったから、所持金はいつまでもなくならなかった。数ヵ月過ぎた或る日、
「ももせ、ボクタクってなんのことだ」
  大久保警部補と組んで博教の調べを担当している刑事の安さんが尋ねた。
「識らない。(イシカワ)タクボクなら知ってるけど」
 詳しく聞いてみると、安さんは昨日、部長試験を受けに行ったが「社会の木鐸」についての小論文が書けなかったらしい。
  博教がふざけて、
「拳銃を飛行機から捨てた」と言うと、そのまま、調書に書いてから安さんは、突拍子もない質問をした。
「百瀬、飛行機の窓って開くのか?」
「開かないよ」と開けられない理由を説明すると、安さんは「いいなお前はなんでも識っていて」と言った。
  そうやって安さんは小学校から大学まで一度も予習も復習もしなかった博教を褒めまくるのだ。
 博教に知的虚栄心を植え付けてくれたのは安さんだった。

  しかし、一向に口を割らない博教に対し、調べが始まってから終るまで五十人ほどの刑事に会った。
  彼等の大部分は横柄で尊大な態度で、博教を小馬鹿にし必要以上に蔑んだ。
 当然、博教も反抗した。

  ある日、渡辺と名乗る警部補が地下の取り調べ室に入ってくると、
「よー百瀬、俺、明日、アンカレッジに行くんだよ。おまえが口割らないから向こうで、だいたい何丁くらいハジキ捌いたのか、調べて来るんだよ」
「渡辺さん、俺が事件、起こさなかったら、おまえ外国なんて一生行けなかっただろうな」
「そういうこというからオマエが嫌いなんだよ。もっと素直になれねぇのか」
「また、外国行きたかったら、俺が事件起こしてやらあ」と博教は応えた。

  また 、調書の広がっている机の上に靴下を脱いだ足を乗せて、水虫の薬をゆっくりと塗り出した刑事や、博教が香港で買った大好きなイエガーのセーターを見て「紫のセーターなんか着やがって、おかまじゃねえのか」と言って激怒させた刑事もいたが、そんな中で安さんはピカ一の人物だった。

 木鐸について答えられなかった博教は、その日から大久保警部補の「机上辞典」を取り調べの最中でも手離さず、あ行から一つの言葉も飛ばさず、鳴呼、藹々、愛嬌、欠伸、と猛勉強した。
 半月後には、蒲公英、薔薇、茴香、と言った花の名を漢字で書けるようになった。大久保警部補の書けない字は喜んで博教が調べた。

  大久保警部補が病気となり、パートナーの安さんも来なかった、ある日のこと。
  眼鏡の若い警部補が臨時で調べに来た。昼食時間になった。
  何時ものように魚の定食を連れの刑事にお願いすると、警部補は早朝から続いている下品な言葉で、
「手前は捕まってやがるくせに魚だ、なんだと迷惑を掛ける奴だな」と言った。連れの刑事が出て行ったあとも、
「お前はでっけいな。このでっけい躰だけを仲間は利用しようとしたんだろうな」と生意気な言葉を吐いた。
  博教は目の前の机を両手でおもいっきり押した。
 椅子から落ちて、壁と机に挟まれた奴は、目を白黒させた。
 「おう、眼鏡。一生獄に居るんじゃねえぞ。帰ったら手前の家に一番に参上してやらあ」
 その時、博教は自分が映画のなかの石原裕次郎みたいだなと思った。

「オマエも免許証の事件で取り調べを受けたことあるんだろ。警察ってのは取り調べの時は頭ごなしにくるんですよ。口を割らないってわかったら、手を変え、品を変え、人を変え、でも最初に相手をシュンってさせれば自供なんかオチャノコサイサイですよ。でもそこで簡単に口を割る奴は、素直だって囃されるけど実は軽蔑されてるんですよ。口を割らない奴は逆に男として尊敬されるんです。俺は親父からそういう獄の作法を聞いていたからヘッチャラだったね」

  安さんのお陰で勉強癖がついた博教は、この時期から濫読が始まった。
  拳銃不法所持で捕まる以前は本好きではあったが、本を読む奴は女だと自分勝手に決め付けていたのだが、警視庁の地下調べ室で、巣鴨拘置所へ移管になる数日前に読んだ田宮虎彦の「絵本」が、博教の生来の読書好きに再び火をつけた。
  九ヵ月の警視庁での調べが終り拘置所に移されると、時々検事がやって来るだけだった。
  クウェートに旅した時、餞別を五十万くれた大学の先輩・藤田徳三郎が早々と面会に来て、差入金とタオルと、博教の愛読書である石原慎太郎の「亀裂」をくれ、早速読み返した。
  父の乾分の福井が差し入れてくれた檀一雄の「真説石川五右衛門」や、火野葦平の「花と龍」を保釈される日を待ちながら読んだ。
  読書は面白い!!
 博教はそれまで味わった事のない、ぞくぞくする愉しい日々を送った。
  拘置所では用心棒という役どころに必要な「俺は不良なんだぞ、何奴でもかかって来い!」といった虚構も虚勢もいらなかった。

  地下取調べ室で読まされた週刊誌に、拳銃事件について、浅丘ルリ子のコメントが掲載されていた。
「裕ちゃん、ああいう人でしょ。人がとってもいいからいろんな人を可愛がるわけよ。百瀬さんのこと、すごく可愛がっていたわ。でも可愛がることとピストル持ってることは別でしょ……。百瀬さんはお相撲さんのように丸々と太っていて、まるで漫画の本から飛び出したように子供っぽく可愛かったのよ」
 と書いてあった。
博教は浅丘ルリ子に会って謝罪がしたいと思った。
博教は、読書に疲れると窓の隙間から庭を眺め下獄する事を思った。

  巣鴨へ移される数日前、警視庁の地下調べ室で一番の強敵だった松居国敏警部補に「百瀬は男だよ」と言われた。
  十ヵ月近い取り調べの中で数人の刑事から言葉の勲章を貰ったが、その言葉は全身を貫いた。
「五年やそこらの獄暮しが辛いものか……」
 と博教はこれから体験する獄中生活に自信を深めた。
  長い勾留期間で触れ合ったのは取り調べの刑事側だけではない。留置場にはいろいろな奴が居た。

◯日本からロンドンまで朝日新聞の神風号で飛んだ飯沼飛行士の弟と名乗る真珠ブローカー。
◯山王神社の賽銭箱から金をかっぱらおうとして捕まった無銭飲食常習犯。◯これと目を付けた宝石商の高級車に、一カ月でも二カ月でも車で尾行し、一瞬の隙を見つけて宝石の入ったアタッシュケースを盗む窃盗団の主領。
◯客が外出した隙に入室し、金品を失敬したニューオータニのボーイ。
◯ベイルートから特別製のチョッキの裏に金を十キロも隠して入国しようとした若ハゲの体格のいいイスラエル人。
◯怒張すると男根が十八センチ強となる台北生れの元警察官。
◯新宿のエロ8ミリ映画売り。
◯ラーメン店に雇われて三日でとんずらを決める、間抜け面しているのに二枚目気取りのおめみえ泥棒。
◯父親をアイスピックで刺し殺したハンサム大学生。
◯酔った勢いで神保町の「神田湯」に入り、他人の服を着て逃げようとした◯ところを力持ちの女中に捕まった小柄で剽軽な板の間稼ぎ。
◯飲み屋の女を酔って殴ったことを反省して一日中べそをかいていたハツリ屋の人夫。

  ──私が驚いたのは、自著に綴られている、これらの留置場に居た被疑者が語った半生を、博教が50年近く経た今でもディテイルまで語れることだった。

「オマエがそんなに喜ぶなら、ひとりづつの人生を短編小説にしてもいいな。やはり犯罪を犯すようなヤツは真面目に生きている人よりも生臭いストーリーを持っているんですよ。そりゃあ同情すべき家庭環境とか気の毒な話もあるけどよぉ。どんなハンチクな間抜けでもそれなりにオモクレーよな」

 これらの話は外伝にでも。話をすすめる。

 そんな面々の中で、一本筋の入っていたのが鍋島力哉だった。
 彼の右胸には牡丹の花の刺青があった。筋肉質で長身のその躰はプロの野球選手のようだが、一力会組長として何十人かの若い者の上に立っている漢だから、全身から迫力が迸っていた。
「百瀬はん。今日あんたはんの取り調べ、壁越しに聞かせてもらいました。えろう頑張っとまんな。ワシ感動しましたがな。あんたはんと刑事とのやりとりをテープに録って、乾分達に聞かせてやりたいですわ」

 博教は、彼の褒め言葉にメロメロに酔った。

 そして毎日朝から夜まで数カ月続いていた取り調べの苦労が一瞬にしてふっ飛んだ。
「ワシ、若羽黒がハワイ巡業に行った時、ホノルルで買って来たピストルをプレゼントされたのをほじくり返されて逮捕されたんですわ。あの若羽黒が一力の会長に上げたなんてつまらんこと刑事に喋ったお陰でこれですわ。大鵬や柏戸みたいにピストルは両国橋の上から隅田川へ捨てたと言っとけばいいんですわ。この事件で一年半は覚悟しとりますが、もうアホくさくってかなわんですわ。しかし、あんたはんみたいな人と会えたのは、嬉しいことです。いつかワシの家に来ておくんなさい。ごっつう御馳走しまっせ」

  博教は、若羽黒とは警視庁の調べ室の前で彼が手錠嵌められて連れてかれたりするところを随分見ていた。
 そして「よう、関取!」とか調子よく声をかけていた。
  鍋島の話しにあるように、実際、警察の取り調べとはヤクザの採点評であった。

「いいかい。そこに書いているだろ。ヤクザの格付けをするのは刑事なんですよ。丸暴の刑事は、わざと居丈高にいくんだよ。侮蔑した言葉遣いをするの、で、自分が訊問したヤクザ者がどのくらい「折れない心」の持ち主であるかを観察してるんだよ。それで「あいつは凄いヤクザ」か「こいつは弱いヤクザ」ってジヤッジするんですよ。それを同僚に触れ廻る。仲間で情報を共有するの。仮によ、どんなに長い懲役を打たれそうな事件であっても、モノホンだったら口を割らないの。親分や兄貴分を裏切らない。そうやって刑事達と対抗しないと、後からとんでもないことになるんだよ。取り調べ室は密室だろ。そこでのやりとりは全部ヤクザ社会へ流れる。だから、刑事が甘いことを言ってきても、少しでも刑を軽くしてもらおうなどと考えちゃダメなんですよ。守るべきものを守らなかったら、娑婆に出たって、ハンチクな野郎だって吹聴されて、結局地獄へ落ちるしかないわけなの」

  博教は、鍋島力哉とは、この先も上手くやっていけるだろうと思った。
 俺はこういう男なんだぜ、と場面場面で力まなくても、先様に〈こいつは一本筋が通っている〉と先刻承知してもらったからだった。
  実際、鍋島は保釈で娑婆に出た日、まだ東京拘置所に居る博教に「報知新聞」一ヵ月分、煎餅、飴、渡辺ジュースの素一袋、アイスクリーム等を独居房の戸棚へ入りきれないほど差し入れしてくれた。

 2月、石原裕次郎宅が拳銃不法所持の疑いで家宅捜査を受けた。
その容疑に、立教大学生が関与したと警察が発表した。
 百瀬博教のことである。
 全身全霊で愛していた、あにき・裕次郎との関係に亀裂が入った。

 夏、博教は五百万の保釈金を払って保釈され裁判を待つ身となった。

 

サポートありがとうございます。 執筆活動の糧にして頑張ります!