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35・路線バスに乗車・太川陽介発ぶっちゃあ経由たけし軍団結成秘話。

 太川陽介 路線バス不倫

「あなたはバスの運転手です。よく聞いて下さい。最初のバス停で5人乗りました。次のバス停で1人乗り、次のバス停で2人降りました。さてバスの運転手の名前は?」

 この不条理な引っ掛け問題は、拙著『言わんのバカクイズ』の一節。
 1992年、駆け出しの浅草キッドが、ラジオの投稿ネタを書籍化し、シリーズ累計70万部のベストセラーとなった。
 その頃、ボクは、このクイズの仕掛け人として太川陽介と番組で初めて共演した。
 ちょうど太川が初々しいアイドル歌手から司会・俳優業へと転身する過渡期だった。
 そして、20年後の2012年6月19日、CS放送のボクの司会番組で再会した。80年代歌謡曲にまつわるトークがメインだったが「太川陽介は、なぜ、あの蛭子能収と3泊4日の路線バスに耐えられるのか?」がボクの進行の裏テーマであった。

 その日の日記には「松田聖子のファーストキッスの相手役との告白もあったが、80年代の『レッツゴーヤング』の司会者として鍛えられ、20歳にして周囲に〝お父さん〟と慕われた家長的性格は、森田健作からブッチャーブラザーズ、カンニング竹山などに受け継がれるサンミュージック遺伝子を感じる」と書かれている。

 そして、昨年12月!!
 太川陽介の妻・藤吉久美子〝路線バス不倫〟発覚! 
 本誌『週刊文春』が報じたこの疑惑は、路線と〝ロセン〟(高座における男性器の隠語)も見事に掛かった傑作スクープだった。

 藤吉は即座にすっぴんで号泣会見。太川は所属するサンミュージックの会議室で囲み取材を受け、ベッキーと同じ轍は踏むまいと迅速なマスコミ対応でチン火をやり遂げた。

 今回の一件は、太川の地方宿泊を契機にネガティブな疑惑が生じてしまったわけだが、36年前、同じく太川陽介が地方宿泊をしたことが、我々たけし軍団の命運に作用した、まさに恩人とも言える知られざる功績について、この機会に語ってみたい。

 2017年4月9日──。
 目黒・誕生八幡神社で行われたお笑いライブの打ち上げで、ボクは、とある先輩芸人との話に夢中になっていた。
 その人とは、芸歴37年、御年63歳で〝最高齢の若手〟として関東お笑い界に名を馳せるブッチャーブラザーズの“ぶっちゃあの方”こと「ぶっちゃあ」だ。

「たけし軍団っていうのは、言わば乗り合いバスでしょ。博士は後から乗ってきたから、わかンないと思うけどさぁ、そもそも、このバスの運転手は、俺なんだよねぇ!」
「エッ!? なんの話ですか?」
「俺はもともとサンミュージックで巨人ファンの太川陽介くんが作った『陽ちゃんジャイアンツ』ってチームにいて草野球やってたの。その『陽ちゃん』がきっかけで、たけし軍団が結成されることになるんだよね~」
 
 ぶっちゃあ──。
 1954年、京都府生まれ。太秦の大部屋俳優を経て、25歳で森田健作のマネージャーとして上京。1981年にサンミュージック初のお笑いコンビ「ブッチャーブラザーズ」を結成。
 大物から無名まで縦横無尽の交友関係を誇り、草野球で親交の深い伊集院光が「東京の売れっ子芸人を辿っていくと必ずぶっちゃあさんを踏んづけている」と評する通り、本人は決してブレイクせずとも、彼を踏み台に、はたまた公私ともに世話になり、売れていった芸人は数知れない。

 パブリックイメージは僅少だが、昨年「てるみくらぶ」破綻の際には被害を受け「ぶっちゃあハワイ旅行中止 富士サファリパークに!」と一部で話題になった。

 この愛くるしい先輩は、パグ犬のようなくしゃくしゃな顔で語った。
「陽ちゃんがね、『どこかと草野球の試合を組んでよ』って言うから、ストリップ劇場の従業員チームと対戦を組んだンよぉ。したら肝心の陽ちゃんが営業で地方から帰って来れなくなるわ、他にも欠員が出るわで、急遽代わりのメンバーをかき集めたわけ。それが、たけし軍団を作るキッカケ! これホンマの話よ!」

 ぶっちゃあは、とにかくお笑いの芸能史には詳しい。

「え! たけし軍団の結成って、そんなキッカケなんですか? それって、いつ頃の話ですか?」
「1982年かな。俺らが81年デビュー、聖子ちゃんとほぼ同期だから。俺らが『笑ってる場合ですよ!』がデビューなの知ってる?」
「『いいとも』の前番組ですね。B&Bが司会の。あれ、オーディションのコーナーやってましたね」
「『お笑い君こそスターだ!』」
「あそこで漫才をやったのが、そのまんま東さんですよね」
「そう、6代目チャンピオン! 今の東国原先生だよ! 後輩だけど邦ちゃん(山田邦子)が10代目かな。俺らが12代目でグーンと離れて32代目が後輩のダウンタウン。当時はまだ別のコンビ名だったけどね」

 ぶっちゃあは、先輩後輩にとにかく厳格だ。

「あの頃は、あのコーナーが若手芸人の登竜門でしたよね」
「そう、皆、だいたいあそこがデビューなの。俺らはたまたまお笑いでサンミュージックに入ったけど、当時は事務所に芸人がひとりもいてないし、都はるみさんとか聖子ちゃん、竹本孝之くんの営業の司会とかね、そういう仕事はあるンだけど、純粋なネタをやるところがなかったの。漫才協会とかに入れば良かったンだろうけど、ツテのないテレビ芸人だったから寄席にも出れなくて。それでね、ふと思いついたの。自分でお笑いライブを作ろうってね」
「えッ!? ぶっちゃあさんが、最初なんですか」
「そうだよ。東京でお笑いライブを作ったのは俺ら! だって、渋谷ラ・ママ新人コント大会(1986年開始)より前よ。あの頃はライブが他に無かった!」

 これ以上はないという、ドヤ顔でぶっちゃあの話は続く。

「ラ・ママに最初一番ペーペーで出てたのがチャイルズとかダチョウ倶楽部になる前のキムチ倶楽部とか、そんな頃でしょ。だから最初にお笑いライブを作ったの、俺たち!」
「それが吉祥寺でやっていた『バーボン寄席』になる流れですよね。ボクらも新人の頃に出ましたよ!」
「そう。最初は自分たちだけでやってたンやけど、毎回、自分たちだけで何本もネタやってたら大変でね。そんじゃあ素人でもなんでもいいから出てもらって対決ライブにしよう。そうすると俺らの負担が半分でよくなるからって。で、『ぴあ』って雑誌の欄外に『はみだしYouとPiaぴあ』っていう記事があったでしょ?」
「懐かしいな、ネタとか募集広告を載っけるところですよね」
 「そこで『お笑いライブやるから出演者求む』って募集したら、応募が20~30人あったの。落語やってる女子高生とか、漫談やりたいっていう地下鉄の職員とか。その中にいたのが……飯塚実くんなんだよ!」
「イイヅカミノル!? それってダンカンさんのことですね」

 ダンカンは、ボクの芸人修行における兄であり父であるような人だ。

「ぶっちゃあさん、この路線バスの話はどこまで続くんですか?」
「いいから終点まで乗ってけよ!」   (つづく)

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           (イラスト・江口寿史)

 ぶっちゃあ 乗合バスの運転手  

 目黒・誕生八幡神社の日本間で〝63歳の永遠の若手芸人〟ぶっちゃあが、たけし軍団の結成秘話を「乗り合いバス」に例えて語っていた。

「そう! その飯塚くんこと後のダンカンが赤羽に住んでたの。彼はネタは面白いし漫画も描ける。だから俺らもネタを書いてもらってたの」

 今まで聞いたことのない話だ。

「でも最初は落語家志望でしょ?
最初は談志一門に居たわけですし」
「そう。そもそもダンちゃんが、なんで落語家になったか知ってる?」
「本人の弁なら……」
「あーそういうのは嘘、嘘! 俺らのお笑いライブの客に落語通で談志師匠が大好きな女子高生がいたの。その娘のことをダンちゃんが好きになっちゃって、彼女にモテるためにお笑いを志したわけ……」

 初耳だった。

『徹子の部屋』などでの本人は「落語家は儲かると知人に教えられたから」と煙に巻いていただけに、微笑ましい。
「そういうもんョ! 若さって。俺に急に『落語家の弟子になりたい』って言って来て、しかも『談志師匠の!』だよ? 俺も落語界に明るけりゃ『そりゃ無理だよ!』とか言ったンだろうけど、でも知り合いに漫画家の高信太郎さんがいてさ……」
「ボク、よく知っていますよ。浅草キッドが10週勝ち抜いた『ザ・テレビ演芸』の審査員でしてましたから」
「その高先生が落語界に顔が利いて、談志師匠とも仲良かったから、口を利いてもらったら、あっさり『いいよ』ってことになったの」

 「すべての東京芸人のルーツはぶっちゃあに通ず」、まさにその真骨頂とも言うべき人脈とエピソードだ。

 加えて、兄弟子ダンカンが今でも高信太郎と昵懇な理由、謎が解けた。
「で、入門から半年過ぎた頃、急にダンちゃんから『師匠に、お前は古典はやらなくてイイ。新作だけ考えろって言われた』とか『よそに修行に行ってこい! って言われた』とか相談の電話があったわけよ」

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 ダンカン──。
 修行時代の名を立川談かん。談かんは、独創性が強すぎて古典落語を型どおり演らない、師匠に庭木が寂しいと言われれば、隣の家から植木を引き抜こうとして師匠から「せめて町内離れろ!」と叱責されるなど、そもそも水に合わない場所で藻掻いていた。
 談かんの弟弟子・立川志の輔は、そんな兄弟子がいよいよ弟子を辞めたいと言い、あまつさえ、ビートたけしを紹介して欲しいと告げた〝恐怖の瞬間〟を目撃した噺を、幾度もあの〝燻し声〟で古典のように語り継いできたが、今回は、ぶっちゃあ名人による語り口で再演しよう。

「ダンちゃんがたけしさんの所に行きたいって言うから、『いいんじゃない?』って返したら『大丈夫ですか? 師匠に殺されませんか?』って、言った本人がビビってて。俺は『どうせダメなんだから、行くだけ行ったら!』って励ましたの」

ぶっちゃあに背中を押され、ダンカンはいよいよ談志師匠と対峙した。

「自宅で直訴よ。したらさ、師匠は『ん? たけし……!?』と言いながらパッと振り返って書棚に置いてたオールドパーの瓶を掴んだんだって。『わッ殴られる!』と思ったら……ラベルのところにマジックで『たけしへ こいつ頼む 談志』って書いて『これ持っていけ!』って」

 ダンカンは見事に師匠を替え、ビートたけしの四番弟子となった。

「ダンちゃんから『決まりました!名前まで貰いました!』って報告を受けてさ『すごいじゃん、なんて名前?』って聞いたら『ふんころがし』だって。『なんやねんそれ!?』って笑ってさ、それから、あだ名もダンちゃんから〝ふんちゃん〟になって……」

「ぶっちゃあさん、ところで太川陽介の話は何処へ行ったんですか?」
 路線を戻すために話を振った。
「ああ、そかそか。話戻すと、陽ちゃんの野球チームの相手がストリップ劇場の従業員に決まったんやけど、相手の仕事柄、試合開始が朝6時。だけど前日に、陽ちゃんが地方の仕事から帰京できなくなって、それと一緒に陽ちゃんのバックバンドのメンバーも帰って来られないから、チーム全員欠場で、マズイじゃん?」

 ぶっちゃあの顔が苦渋する。 

「そン時だよ! 俺、ダンちゃんが野球やってたのを思い出したわけ。電話で『野球やるんだけど来てくれる? 東とかも一緒にさ』って聞いたら『いいですよ。東くんは運動神経いいし、あと松尾くんにも聞いてみます』ってなってって」
「なんか、『七人の侍』の志村喬みたいになってますね」
「とにかく俺は最低9人集めたいわけよ! どっか他にもあてがないかと考えてたら、あ! ってまた思いついたのが、ホレ、西新宿のスナック『ポプラ』って店にいるコントの連中だよ!」
「タカさんと枝豆さんが当時の所属事務所に借金返済するため、ふたりで経営していた店ですね」
「そう。それでタカちゃんに電話して『野球出来る?』って聞いたら『出来るよ』『じゃあ、ポポちゃん(枝豆)と一緒に来てよ!』って。
「無事、9人揃ったわけですね」
「それで翌朝、6時前ぐらいに神宮外苑へ行ってみたら……そこに……なんと、殿もいたの! えぇ!? って。オールナイトニッポンの生放送の後、羅生門で酒飲んで寝ないで来てたわけ。だから高田(文夫)先生もいてさ。『えぇ! 先生まで!?』って。それで試合やったら、殿がいたく機嫌が良くなって。終わった後、『今から飲みに行こう!』って。でも朝8時で、どこもやってないし、『歌舞伎町に行けばなんかあるだろ?』と。そしたら、殿がほっかむりしてさー。で、そこから何に乗って移動したと思う?」
「もしかして……バスですかぁ?」
「バカ! バスじゃないよ! 朝8時だよ、電車に決まってンだろ!」
「あれ、そこ電車なんスか?路線バスの噺をずっとしてたから」

 そこで落とすのかと思ったら、ぶっちゃあの話は続いた。

「アホか! そこは電車だよ! 俺の話は全部事実だからね! 人気絶頂の殿が満員電車に乗るなんて俺ら、もうビックリでさ。一緒に信濃町から新宿まで行って。新宿から歌舞伎町まで歩いて、そしたら『ぱすたかん』って当時、唯一24時間やってた店に入ったの。そこで飲みながら、殿がしみじみと『やっぱ野球っておもしれぇなァ、ぶっちゃあ! よし、オレも野球チームを作ろう!』って言われて。で、たまたまタカと枝豆もそこにいたから『お前らも一緒に入れよ。ブラブラしてんなら俺のところに来いよ!』『はい、わかりました!』ってねぇ、そこからなのよ!! 『たけし軍団を作ろう』って流れになったのがァァァァ! はかせぇー!!!!」

 感極まり泣きながら語る、ぶっちゃあ。ボクも目を潤ませながら、しかし、ひとつだけ疑問が……。

「ぶっちゃあさんは何故、その時、軍団に入らなかったんですか?」
「だって、俺、天下のサンミュージックだよ、太川陽介のところだよ!あの頃、太陽の下にいたんだもん……今は日陰にいるけどさぁ!」

 ぶっちゃあがドヤ顔を決め込む。

「はかせ!! わかったでしょ! だから、俺がたけし軍団という乗り合いバスの運転手なの!」 

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     江口寿史先生が顔が思い浮かばないからという理由で、
     挿絵をついに落としてしまった。ぶっちゃあさんは、
     こんな風貌をしています。

     最高の入場シーンです。

⬇   タッチしたらYouTubeが再生します。
     




         

         

           (路線バスの話は、蛭子能収編へとつづく)

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