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『命懸けの虚構〜聞書・百瀬博教一代』#16


秋田の行事

召喚状を破って逃亡した博教は日本中を転々とした。
気の休まるような時は一瞬たりもなかった。

 1967年の夏、博教は秋田に初めて行った。

 いぎという時、一発ぶっ放すつもりの道具を懐にしての見物だが、秋田は話で聞いていた以上に美しい風景がそこここに見えて心を和ませてくれた。
目に映る秋田市の町並は、まるで大掛りな映画のセットみたいだと思った。
二年前までは市電の通っていたという大通りでも、骨董屋や質屋のある裏道でも、町のどの部分を切り取ってもさまになっている。つい百年ほど前の生活はこんなものだったろうと思える雰囲気が、随分残っていた。

 秋田市から車で一時間、生鼻崎で船に乗った。男鹿半島の寒風山を眺めながら釣をして過ごした。
 そんな秋田での一日、この年の出来たばかりの千秋公園にある「平野政吉美術館」に行った。
 博教は、後に画廊を経営するほど絵画が好きだった。

 藤田嗣治の描いた畳六十四畳敷きといわれる「秋田の行事」を眺めていると「百瀬さんじゃありませんか」と声を掛けてきた男がいた。
「初めまして、米山英一と申します。友人が立教の剣道部におりましたので、以前立教大学でお見かけしました。よろしかったら館長の平野氏をご紹介いたします」聞けば、館長の女婿なのだそうだ。 
 博教は平野氏に会わせて戴き、色々な話を聞かせてもらっているうちに、平野氏と藤田画伯の関係が判ってきた。
 藤田嗣治の評伝から要約すると、こういう関係である。

「平野政吉は、江戸時代から続く秋田の大地主平野家の3代目跡取りで、政吉は米穀商で財を成した。青年時代画家を志したが挫折、その後19歳で本物の飛行機を見て飛行士になる決意を するも、29歳のとき自らが操縦する飛行機が東京湾に墜落し九死に一生を得る。美術品の蒐集に熱意を注ぎ始めた政吉は、倉敷の大原コレクションに鬱勃たる闘志を燃やし、また「自分が死んだ後にも侃々諤々言われる人間でありたい」という信念のもと、日本一の美術館づくりに生涯をかけた。
 やがて、世界的な画家、藤田嗣治と出会う。

 大作『秋田の行事』誕生のきっかけは、昭和11年、フジタが秋田来訪時の、歓迎の宴の席であった。
 お河童頭にロイド眼鏡をかけ、派手なチェックのブレザーに身を包んだフジタの挨拶から始まる。
「私は大芸術家であります。ヴァチカン宮殿で、ローマ法王に、単独謁見の栄にあずかりました。フランス大統領に勲章を授与され、ベルギー皇帝からもまた芸術の最高勲章を受け……」
「あんた、面白いじゃないか」
末席にいた平野政吉は、そう言うと、フジタの前まで歩み寄り、面前に正座して、口火を切った。
「わしらは決して、先生を世界一の大芸術家とは思っておらん。わしらは先生の描かれた世界一の絵を見てはおらん」さらに畳み掛けて、
「世界一の証拠を見せて頂きたい。証拠がないのなら、先生は、世界一の大詐欺師だ。あんた、田舎者揃いだと思って、人をなめることをするなら、なめてもらってもいい。まず、わたしのこれをなめてくれ」
 平野政吉はフジタに尻を向け、着衣の裾を捲って、一発、屁をひった。
 それに対してフジタは平気な顔で一言「失敗でしたね」
「あなたは、度胸はいいが、なかみが出なかったのは、失敗でしたね」
すかさず、平野政吉は言った。
「さあ、先生、世界一の絵をかく男と、世界第一の記録を目指す男との決闘だ。
 もしお嫌といわれるのなら、命を戴きます」
そして、手元にあった火鉢の火箸を座敷の畳にブスリと突き刺した。
 知事を初め居並ぶ秋田のお歴々は、ただ事の成り行きを見守るばかりである。満場、しばし水を打ったように静まり返った後、フジタがおもむろに言い放った。
「それだけの覚悟と、それなりの準備をするなら、描きましょう」
 それからが、二人の「勝負」であった。
 世界一の絵を描くことになったフジタは、20メートル以上の長さのカンヴァスに秋田の風物を絵巻にする構想を立てた。平野政吉は東京から表具師を呼び寄せ、大きさ、質ともに最高のカンヴァスを、5枚作らせた。仕事場は、思案、奔走の挙げ句、自家の、いちばん大きな土蔵を改造した。
 フジタは、畳64枚分のカンヴァスに、下描きをせずに、じかに筆をおろして、174時間という速さで描き切った後、ポツリと言った。
「平野さん、ムダな材料を買わせて申し訳ない」
 見ると、紫の絵の具と白いチューブが2個残っていた。
 フジタが初めに言った何百本の絵の具を用意しただけで、後にも先にもそのままだった。その計画の緻密さに、平野政吉は、驚きを通り越して、フジタを畏怖してしまった。以後、二人は、生涯の友諠を結ぶ。」
                                                                  (渡辺琴子著「平野政吉」参照)

まるで劇画のようなストーリーだ。
博教が、この情熱の男、平野政吉に興味を持たないわけがない。

 博教が二度目に美術館に行った時、平野氏に鰻重を喰べに連れていってもらった。
 氏は鰻重の蓋を取ると「婆ちゃ。とんかつソースくれや」と言うと、どぶどぶと鰻の上にソースをかけた。面白い喰べ方をする人だと思った。
 平野氏に鰻重のお礼を言って別れると、川反通りを抜けて山王通りに出た。
 秋田に来て十日は過ぎた。保釈中の者は決められた所在地を一日でも離れる時は裁判所に願って許可をもらわなければいけないのだが、そんなものはもらっていなかった。

11月、秋田に長逗留しながら、角館に旅していたある日、博教は町立図書館に入った。
 図書館の受付の、事務所の壁に『時事講演石原慎太郎氏来る』のポスターが貼ってあった。二日後、石原慎太郎氏が、この町に来る事を知った。
 慎太郎氏とは七月に終った参議院選挙以立会っていなかった。
 <慎太郎氏に会いたい>
博教は、出来れば秋田市にある平野政吉美術館々長の平野政吉氏を紹介し、美術館に展示されている藤田嗣治の絵を一緒に観たいと思った。

 当日、博教は角館の料亭「東海林」へ、慎太郎を尋ねて行った。
 店に着くと慎太郎は、大広間の中央に坐って地元の有志等と一緒に昼食を喰べている真最中だった。
 慎太郎は左利きのはずだが箸は右手で使っていたのが、印象に残った。
 博教は自分も一行の一員のように振舞って慎太郎の正面に当る場所に坐った。
 そこには、お膳がなかった。係の者が急いでお膳を運んで来た。
 慎太郎は博教が大広間に入って来た時から気が付いた目をした。
しかし、そしらぬ振りで膳の上の料理をつまんでいた。
 今日の接待係らしい人が博教の前にやって来て酌をしようとした。
 係は博教が誰れだか判らない。判らないからこそ、特別愛想がいい。
 博教は酒の飲めない事を告げて、適当に返事しながら喰べ始めた。
 博教がお膳の上の料理を三分の一も喰べない内に、慎太郎は食事が済んだらしく立ち上った。慎太郎は博教の目を見ながら歩いて来て、博教の横を抜ける時、ちらりとも顔はこちらに向けないまま、小声で「ひろ坊」と呼んだ。

 大きな障子戸を閉めて、出て行った慎太郎の後を追って廊下に出ると、慎太郎は真剣な顔付きで言った、
「ひろ坊。俺の家へ、お前の居る所を知らないかといって、お巡りさんが来たぞ」
「お巡りさん」とは、まるで慎太郎の言葉らしからぬ言い方なので笑った。
警察は、あらゆる伝手(つて)を探って、慎太郎のところへも話を聞きにいっただろう。
 博教は多大な迷惑を、慎太郎に掛けた事を深く詫びた。
 廊下に大きい男が二人も立っていては通る人の邪魔になる。
「あっちで話そう」と慎太郎が言い、二人は廊下の隅の寒い部屋に入った。

 博教は、すぐに冷んやりした畳の上に正座して畳に手を付き頭を下げ「当選、おめでとうございます」と挨拶した。
「ありがとう」慎太郎は初めて笑った。
 博教が平野美術館について説明すると、もともと画家志望だった氏は興味を示して、
「明日、本庄市の講演が終ったら、ぜひ行きたい」と言った。
 博教がクウェートに旅した時、持っていった文庫本の『亀裂』について説明してもらい、その話の中に出て来た三島由紀夫についての、一つの挿話で「三島由紀夫を益々、好きになっちまった」と語った。
話の途中で、慎太郎はトイレに立った。
博教も慎太郎に従いてトイレの前までいった。
ひえびえする廊下に立っているとトイレに入った慎太郎は、すぐに出てきて「ひろ妨。紙がないよ」と言った。
 博教は帳場に走って行き女将らしい人と仲居さん二人に懐紙と京花紙と袋入りのティッシュペイバーを貰ったが足りそうもないと思った。トイレで使う紙と言い出せなかったので、「紙」とだけ言ったから、三人は、それぞれに鼻紙をくれたのだ。
「もっとありませんか」と言うと、女将は棚の上に置いてあった大きな箱からクリネックス・ティッシューを一箱抜いて渡してくれた。
 トイレの前でまごまごしている慎太郎にクリネックスの箱を渡した。
博教は再び帳場に戻って、おしぼりを二本貰うとトイレの前で慎太郎を待った。
 慎太郎と博教が先刻の部星に戻ると、火鉢に炭が入って部星はいくらか暖くなっていた。
 部屋に坐ると同時にダブルの背広を着た、強そうな中年の男がたくさん色紙を持って入って来た。
 慎太郎は、左手に筆を持つと自分の名前を書き、一枚、一枚に為書きした。
 博教は、ダブルの背広の人に色紙を一枚貰らって『曙光。石原慎太郎。為、角館図書館』と書いてもらった。
 三日前、旅人の博教に、気持よく『真山青果全集』と『林房雄論』を貸してくだれた図書館の貸出しの方に上げる為であった。
 講演の時間が追って、係が呼びに来た。
「歩いて行こう」と慎太郎は博教に言った。博教は慎太郎が誘ってくれたので講演を聞いていこうと思い一緒に歩いて行こうとすると「時間がないので、車を使って下さい」と係が言った。車は武家屋敷の前にある小学校に着いた。
 慎太郎は講演を始めた。
「先日、銀座のバーに入っていきました。評論家二人が口角泡をとばして議論しています。三派全学連のゲバルトについて喋っているんだろうか。それとも自民、社会両党国会議員から被疑者を出した構造汚職について議論しているのかと思って、近付いて行くと、『君はどっちだ』と思うと二人が言うじゃありませんか、なにがなんだか判らないから、『なんだ』と聞いてみると、ばかばかしい。都はるみの唄と水前寺清子の唄とどっちが巧いと話していたんです(聴衆爆笑)」
 石原慎太郎の顔を見に来た、婦人達で講堂はいっぱいだった。
話しが終ったので、講堂を出ようとすると慎太郎がやって来た。
 これから大曲に行くと言う。車まで送って、「明日、本荘で」と、言って別れた。
翌日、博教は本荘市の公会堂へ慎太郎に会いに行った。
 本庄公会堂で、一番最後に講演する慎太郎だったが、東京に帰る飛行機の時間に合わせて平野政吉美術館に寄る為に一番最初に講演した。
 慎太郎の話しが終って、車に乗ろうとした頃から雪が降り出して秋田市に続く海岸線の酒田街道に出た時は、かなり激しくなっていた。
 慎太郎は、車の窓の下に続いている、日本海の鉛色の波の騒立ちを眺めていた。
 その姿を見て、<ヨットの仲間達は、海で見る、どんな見事な景観でも、決して他へ叫んだり、語りかけずに、自分一人に収い込む>博教は、石原氏の『星と舵』の一文を思い出した。

 本庄の町を抜けて、海岸線に出た時から、博教が美しいと感じていた冬の日本海の景観を、今、慎太郎は自分一人に収い込もうとしている。
 博教は、沈黙して慎太郎が喋り出すまで、これまでにノートに写した言葉や詩を黙読した。ちょうど、こんな文章を書いていた。
『判事は、検事の顔をつぶさないように、ずいぶん気を使うものだ。また官僚は、たがいにその立場を失わせぬように、助け合う気配がある。裁判とは個人にとっての戦争である。正しい方が勝つとは限らない。 伊藤整』

「ひろ坊。腹が空ったなぁ」と、急に慎太郎が言った。
 博教は、鞄の中から最近売り出されたグリコのポッキーを二箱出して、慎太郎に見せた。「よこせ」慎太郎は、ふざけて、博教の手からポッキーの箱をひったくった。
 博教は、逃亡中に何時、どんな事態が起るか判らなった。いざとなったら二晩や三晩、お堂やお寺の縁の下で暮しても平気なようにチーズや缶詰は常に携帯していた。袋を破って慎太郎はポッキーを五本ほどつまみ出すと、
「なんだい、こりぁ」といいながら、五本一緒にムシャムシャ喰べはじめた。
 博教には一本もくれない。が、テレビのコマーシャルで見た文句を言いたかったので、一本もらい、コマーシャルの子供の格好を真似して「持つとこ有るよ」と言うと、慎太郎は面白そうに笑った。

雪は、先刻より小降りになり時には止んだ。
「飛行機は出るだろうなぁ」と慎太郎は何度も言った。
車は秋田市内に入り、千秋公園入口にある平野美術館に着いた。
 車からは慎太郎と博教だけが降り、慎太郎の秘書はそのまま飛行機のキップを買いに行った。

「石原慎太郎さんです」博教は、平野政吉館長に慎太郎を紹介した。
慎太郎は、頭を深々と下げて挨拶した。
「平野政吉です。いや、よくいらっしやった。なぁんと、あんまり美い男振りで、びっくりした」と、平野政吉は挨拶を返した。
 館長室で、お茶を一杯飲み終えると大展示場に飾ってある『秋田の行事』から見物することになり平野氏は一点づつ説明してくれた。
「秋田の行事は、藤田嗣治に昭和十二年に描いてもらった作品です。この上に畳を敷くと、七十枚敷けますが、藤田はわずか十五日間で完成させました」
 何度も観ている博教は慎太郎氏に、
「子供の洟をかんでやっている女が見えるでしょ。その真上に、ラッコの襟巻の付いた外套を着ている人が居るでしよう。ヒゲを生やしている。そうです。あれが、平野さんの三十年前の姿ですよ」と、平野氏が、自分の顔を秋田の行事の中に描せているのを説明した。
一階、二階と説明に従って、絵を見て行く内に
「ビュッフェの『サーカス』ですか面白い絵があるナ。私も、画商が一枚買っておけと言うのでビュッフェは持っています」
と、慎太郎が言った。
 二階をぐるりと廻って、一階の小展示場に入った慎太郎は掛物になっている大幅の『ちんどん星』を見ると、
「いいですねえ。この絵は、油絵の『カーニバルの夜』の紙テープの描き方にも感心させられたが、こちらの藤田の絵の方がいい」
 慎太郎は巧い、と『ちんどん星』をほめそやした。
 博教は、藤田嗣治の絵では『北京の力士』が一番好きだが、慎太郎は、なにも言わないで北京の力士の絵の前を通り過ぎた。
 総べての絵を鑑賞して館長室で歓談していると、飛行機が出ない事が決定した事を伝える電話がキップを買いに行った相川秘書から入った。
今日中に東京へ戻りたい慎太郎は、仙台まで車で行って、そこから飛行機に乗る案を告げていたが、それも雪で駄目だと判ると、遅い時間の急行寝台車で、東京へ帰る事になった。

空腹だった慎太郎と博教を、平野氏は川反にある秋田料理の「浜乃家」へ連れて行ってくれた。
 浜乃家の二階の座敷に入った慎太郎と平野氏は、坐る席の位置であらそった。が、平野氏の招待客である慎太郎が恐縮しながら床の間を背にして坐った。
 下座になった平野氏は、仲居に命じてみだれ箱を持ってこさせると、部屋の隅の衣桁の前に立って行き、ゆっくりと袴を脱いだ。
 博教は、このやりとりを『竜馬がゆく』で読んだ、後藤象二郎と坂本竜馬の初めての会見の夜みたいだな、と思った。
 土佐藩を脱藩した坂本竜馬に、土佐藩の家老後藤象二郎が、今日の株式会社である亀山社中の運営について教えてもらうことになった。
 教えを乞うのだから、藩の代表者も竜馬の下座に着かなくてはならない。作法のやかましい江戸時代だから、関係者は大いに気をもんだ。この両者を旨く対面させたのは、竜馬の門人で後の外務大臣、陸奥宗光だった。
  陸奥は、袴を付けた龍馬を上席に、着流しの後藤を下坐に坐わらせた。両者互格の礼を取らせたので、二人はわだかまりなく話し合ったのである。

 鍋が運ばれて来た。仲居さんが、きりたんぽを煮てくれる。慎太郎が、
「美術館入口の壁に貼ってあった平野さんの略歴を読みましたら、飛行機を操縦中に墜落されたとありましたが、その時の話しを聞かせて下さい」と、言った。
「今、わたしは、七十四歳ですから、四十五年前のことですナ。わたしは、軍人ではありませんでしたから、当時、民間飛行士と呼ばれておりました。潮出の鶴見沖で、ローン十五型、廻転式百二十五馬力機で練習中に、千三百五十米ほどの上空で、エアー・ポケットに遭遇して墜落したんです。忘れもしない北北西の風が吹いていました。大正十三年十月二十九日の事です。墜落した私は勿論、気を失ってしまいました。助けられて、わぁー、わぁー、と言う私を呼ぶ声で気が付きました」
 博教が破損させた飛行機の弁償金はたいへんだったろう、と下衆な考えをしていると
「そうでしたか、私も小型飛行機ですが、二十七時間ほどレッスンを受けて、何度か操縦した事があります。ヨットをやっているんで、識っているんですが、鶴見沖は潮出には、北北西の風しか吹きません」
 門外漢の博教には、さっぱり判らぬ話しだが神妙に二人の話しを開いていると、三味線を持った芸者が入って来た。三味線が鳴って、芸者は良い声で民謡を唄い出した。座敷の模様はがらりと変って、雰囲気が盛り上ると、平野氏が『秋田どんぱん節』を唄い出した。
ドンドン、パンパン、ドン、パン、パン、歌詞の書いてある小さな本が手元に届いたので、石原さんも唄い出した。
はからずも、慎太郎、平野両人の合唱となった。
 唄の終るのを待って、きりたんぽを煮るガスの熱気で額にうっすらと汗をかいている慎太郎氏に博教は「上着を脱いだらどうです」と、小さい声で告げた。が、「いや、いいんだ」と答えて、慎太郎は平野氏に別れを告げるまで上着を脱がず、常にピシッと対座していた。
 <慎太郎のかもしだす、言うに言われぬ爽やかさは、他の者の追随を許さぬ、礼儀と礼節にあるらしい。>と博教は思った。

 慎太郎の話す言葉は、丁寧で優雅だ。
 博教は、大きな口を開けて気持ち良さそうに歌を唄っている平野氏と一緒に、また唄い出した慎太郎の顔を見ながら、慎太郎の人に接する作法を、大いに見習わなくてはいけないと思っていた。
 きりたんぽで腹のくちくなった慎太郎は、遅く出て来たすし鰰の入った小鉢を、そっくり博教にくれた。博教も、きりたんぽを何杯もおかわりして満腹だったが、時間をかけて平らげた。
 慎太郎が、東京に帰らなければならない時間が来た。
慎太郎は、平野さんに別れを告げた。
 浜乃家を出ると激しく雪が降っていた。
 博教は雪を挑めて美しいと思った。追われていたが、まだ雪を美しいと思う旅人の心を充分に持っていた。
 博教は東北地方の雪が、どんなに非情で冷徹なものか、その後、火の気ひとつとしてない獄で体験するまでは、想像も出来なかった。

 慎太郎を秋田駅まで送っていった。待合室に坐っていると、助役が来て駅長室に案内した。少し酔った男が、娘の代理で悪いが、サインしてほしいと入って来て、白いハンカチを突き出した。
「裕次郎と間違えたんじやないの」万年筆を出して慎太郎はサインした。
「列車が入ってきます」と助役が告げた。
助役は白い手袋をはめると先導して、慎太郎を列車の入って来るホームまで連れて行った。
列車が入って来た。寝台車に乗る慎太郎は、博教と握手しながら、
「早く東京に帰れよ。何日までも逃げてはいられないぞ」
 と言った。列車は動き出した。
ガラスの向うから、慎太郎は手を上げて、あの持前の笑顔を博教に向けた。

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                   (秋田の行事 藤田嗣治)

――秋田で博教と慎太郎が逃亡先の秋田で邂逅するくだりは、私はほとんど要約することが出来なかった。それほど緊張感があり、静謐な文藝の香りが溢ち、美しい。
 私はふたりが眺めた藤田嗣治の絵がどうしても見たくて、2003年4月22日、秋田の平野政吉美術館を訪れた。
「秋田の祭り」の60畳の絵画の絵画の前で、「ああ、これなのか!もう書物で読むものより!映像で見るものより!包み込む、絶対感!迫力が違う!わざわざ、ここまでやって来て良かった…… 」と記している。

 過日、百瀬邸で、この日の模様を収めた大判の写真を見たことがある。わざわざ町の写真屋を呼びよせたらしい。日記は続けて、
「デジカメのシャッターを切ったら、即刻、係りに注意を受ける。34年前、逃亡先にも関わらず街の写真屋まで呼んで、慎太郎が絵を眺めるシーンを、何十枚とカメラに収めていた百瀬さんとは大違いだ。そして、百瀬さんが一番好きな『北京の力士』もジックリと。慎太郎のお気に入りの『カーニバル』、『町芸人』など一連の芸人系の絵、など眺める。また、スペインの画家ゴヤのエッチング41点も素晴らしい。これは、フジタから50万円で譲り受けたコレクションで、当時の価値で家100軒分という。原節子がわざわざ秋田までこの絵を見にきた、とのエピソードも。売店で「秋田の行事」「北京の力士」の額装のレプリカの絵を購入。そのまま、宅配便で送ってもらうことに」とその日の興奮を記している。
 そして、その後は「桜並木のなか、川尻にある秋田刑務所へ。
昔は全体を囲んでいたという赤レンガの壁は門を残すのみ。この獄で、30センチ先が見えない雪に囲まれ、毎晩、夜汽車の汽笛を聞いていた、百瀬さんの境遇に想いを馳せる。」と書いている。


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「しかしオマエも好きだねー。わざわざ秋田くんだりまで行くんだから(笑)でも嬉しいよ。俺をそこまで好いてくれるんだから。でも、あの絵を現物で見たらわかるだろ。逃亡中の俺が選挙で講演先の慎太郎を無理やり連れて行った理由も。引き寄せるんだよ。あの絵の力が。慎太郎さんは若い頃は画家志望だから絵画の良し悪しがわかるんだよ。彼の絵を見たことある?そうなんだよ、上手いんだよ!学生時代のデッサン画も見た?そう。オマエなんでも調べてんだなー。あれも上手いよなーー。そう。絵の中に憂鬱があるんだよな。全然明るくない。でも『力士の春』を素通りしたときは、あれ?って思ったなー。待て!って。ピストルを抜こうかと思ったよ(笑)オマエは俺が入っていた秋田刑務所まで行ったんだっけ?なかなかいませんよ。わざわざ秋田の獄まで見学しにいく奴は……しばらく入って見たかったって。好きだねーオマエも(笑)」

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