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『命懸けの虚構〜聞書・百瀬博教一代』  #12

稲川の相撲大会

  昭和三十八年の夏、博教に会長から呼び出しがあり、稲川会の銀座事務所に行くことになった。
  稲川会長直々に、博教はこう言われた。
「八月に湯河原の吉浜で十五日間角力大会をやろうと思っているんだ。それに使う幕や褌や一切の物を君に揃えてもらいたい。ここにとりあえず三十万ある。持って行ってくれ」
  往時、地元の有力者が主催する勧進相撲は日本全国各地で盛んであった。   父・梅太郎も、毎年「青少年体育奨励素人角力大会」の勧進元をしていたが、それでも三日間である。
  本場所と同じ十五日間やると聞いて、その規模に博教は驚いた。

 土俵造りに必要な土、荒木田の注文や見物人の為の桟敷造り、その上に敷く莚、賞品の用意。
 たった三日やるだけでもその準備の煩雑さといったらない。そんなこんなを会長に説明すると、
「土俵や桟敷についてはこちらでやるから、この三十万は幕や褌等を揃えるのに使えばいい」と答えた。

 「当時の30万ってのは、そりゃあ莫大な額ですよ。俺が用心棒してた給料が二万円。ホテル・ニュージャパン前から市川駅近くの自宅までタクシー代が八百五十円。地下鉄は全線二十円の時代だよ。それだけの額面を預かるということに震えたし、それだけ親分に信頼されていると受け取ったね。
やる気が燃え上がったよ」

 〈七月になったばかりの頃、今からなら、水引幕、四本柱に巻く色布を赤坂の「宮田刺繍店」で誂えても、ゆっくりと時間がある。
 二百本の褌は相撲協会事務所で買おう。手桶や柄杓や塩笊は、すぐに拵えてくれるところを知っているので心配ない〉
 博教は承知してお金を預かった。
 深く辞儀して去ろうとすると、稲川会長が言った。

「お兄ちゃん、お金が足りなくなったら言っておくれ」

 稲川事務所を出て銀座通りまで歩き、タクシーで蔵前国技館に行った。
  協会事務所で「褌を二百本売ってほしい」と言うと、ここにはそんなに置いていない。
 それに十両以上の力士が締める雲斎木綿の褌では高くつく。
 「水道橋駅前にある講道館の近くに柔道着や剣道着を売る店が何軒かあるから、そこで尋ねればいい」と教えてくれた。

 湯河原吉浜の平屋建ての道場の庭は広々としている。
 まだ庭石や池の出来ていない周囲の土地も含めると、二千坪の広さがあった。
  博教は角力大会を開催する五日ほど前から、東京から連れて行った本職と一緒に、土俵造りに励んだ。
  土俵が出来上ると、相模土建の主任が若い者を指図して土俵に立派な四本柱を埋め込んだ。
 用意は総て整い、あとは初日と決めた日を待つばかりとなった。

 明日が初日という日、土俵祭をした。
 博教と並んで立っていた喜劇俳優の伴淳三郎が土俵に上って玉串を奉じた。
 土俵祭が総て終ると、角力大会が始まった。
 このときの子供角力の賞品の凄さといったらなかった。
 飛び付き五人抜の勝者には、賞品の他に長嶋茂雄のサインボールとバットが出された時は大歓声があがった。
  世は巨人、大鵬、玉子焼の全盛時代。
 長嶋のサインボールなら誰でもが欲しがった。

  三日日の大人の角力の時、雨が来た。
 沛然と降ったが三十分ほどで熄んだ。
 土俵の上は水びたしになった。
 中止も已む無いというムードが広がる中、大会運営の博教は冷静に、
「灯油があったら下さい」と言い、土俵の上の水をかき出し、古新聞をすい取り紙にして土俵の表面の水分を取った。
 濡れている土俵にはバスタオルを冠ぶせて、主任が持って来た灯油を俵にかからないように土俵の表面に撒くと紙を燃やして土俵の上に投げ入れた。
 ボッと灯油が燃え上がった。
土俵の上に炎が立ち上がるのは美しく見えた。
 このくり返しを何度かして、土俵を乾かし、角力大会を再開させた。

 その一部始終を見ていた親分ばかりでなく、周囲からも博教の咄嗟の機転の効いた働きを称賛する声が溢れた。

「何が役に立つかわかんねぇよな。高校で土俵作りをひとりでやってたでしょ。だから段取りはわかってるし、高3の千葉の相撲大会でずぶ濡れになった土俵には灯油をまくってことも見せられていたから、こういう窮地に咄嗟に出来るんだよ。俺は、元々はしょっこいんだよ。しかも、そういうことを男気だらけの会場で出来たから、俺の面子が立ち、男が上がるんだよね。それはもうひとえに過去に感謝だね」

  この大会の賞金、賞品の豪華さの噂はすぐに広がり、静岡県、神奈川県の力自慢、四十過ぎの元国体選手、法政、明治、中央の相撲部ОBや現役にまじって、東洋大学、専修大学の柔道部の選手等もやって来た。
  こうなると府中刑務所や横浜刑務所の角力大会で活躍したという稲川会の猛者も、毎日本格的に練習している現役にはかなう筈がなかった。
 博教が正面土俵前の大テントの中で進行係としてマイクの前に坐っていると、水滸伝の刺青丸出しの杉山印田氏が褌姿でやって来た。
 氏は平塚の貸元。常に稲川会長近くにいたので、以前から顔見知りであった。
 氏が、「明日は稲川会の者だけでやる割(取り組)を作ってくれないか」 と言った。
  博教がその提案を承知して、翌日稲川会の人達だけの飛び付き五人抜をやることを決めた。
 翌日の大会では、言い出しっペの本人、博教が最初の勝者になった。

 博教が5人抜きを果たすと、次に横浜の林喜一郎氏が土俵に上った。
  氏は稲川会の重鎮で、この年四十歳、東洋大学柔道部四段の水上と取り組んだ。土俵際まで押されたが、下手投で水上が逆転。
 水上がまだ勝名乗を受けないうちに、
「あんたに話がある」
 と、若い組員が二人興奮してやって来た。
「林組長は我々の会の最高幹部、金バッチだ。水上はまだ20か21の学生じゃねえか。それなのに東方……林、西方……水上と二人を同等呼びつけにした。組長を呼びつけするのはやめろ……」と抗議してきた。
 どんな大親分が土俵に上っても、これは醜名(四股名)なんだから敬称なしと説明して渋々納得してもらった。
 しかし、この会話が、こちらの声が大きくて呼出し係の清さんの耳に届いたらしい。
  土俵下の力士を呼び上げる時、
 「ひがーし佐藤さん、にいーし柏原さん」
 と四股名の下にさんをつけ、誰からも文句の付けられないよう、さん付けで呼び出しした。
  これは千秋楽まで続いた。

「これは殿がよくやるコントみたいだろう。こういうことはよくあるよ。文章を書いていても名前を呼び捨てにすると抗議が来るんですよ。だから最初か最後に『敬称略』と入れるとするだろ、そうしたら『申し訳ありませんが敬称略にさせてください』って書け!ってことになるんですよ。
 いいかい、文武両道って簡単に言うけど、そもそもそれは面倒くさいことなんだよ、オマエも文章書く時は、その筋には氏を入れとけよ」

 一番勝負の取り組が終って、飛び付き三人抜が始まった。
 マイク係を代わってもらい、五人抜に出場しようとして土俵下で熱戦を眺めていると、物言いがつきそうな勝負があった。
 物言いもつかず、東の勝ちとなると、見物人の中から大声を上げて前に出てきた大男がいた。
 汚れたつんつるてんの浴衣から突き出している赤銅色の腕や足のたくましさといったらない。
「見えねえ行司だな、西が勝ったのに」
 と、辺りはばからずに大声で言った。
「相変わらずだな、高見川は」

 「たかみがわ!!」

  博教は瞬時に思い出した。
  昔、父の乾分の徳松が「僕の刀」で切りつけた「高見川」とはあの男なのか!

  五人抜はすぐに始まりそうだったが、じっとしていられず、土俵の向こうに立っている高見川の前に行った。
 「百瀬梅太郎って覚えていますか」いきなり言葉をかけた。
 「覚えてる」
 「私は次男です」そう言ったが返事はなかった。

 翌日、博教が荒れた土俵を直していると、後ろに人が立つ気配がした。
 高見川だった。昨日と同じ浴衣姿だった。
  無言のまま、おいでおいでをするので随いて行くと、道場の裏でパッと浴衣を脱ぎ、
「ここですよ、斬られたところは」
  指で示した腰の辺りに手のひらが入るくらいの大きな傷が残っていた。
「痛かったでしょ……。あとで一杯やって下さい」
 ポケットから金を抜いて握らせた。
「坊ちゃん、ごっつあんです。明日、美味しい美味しいもの持って来て上げます」
  脱いだ浴衣を着ようとせず、右手に抱えると歩き出した。
  とうに六十は過ぎている筈なのに、しまった躰が見事だった。

 「美味しいもの持って来ましたよ」
 翌日、そう言って高見川がくれたのは、こけし印の小さなみかんの缶詰二つだった。

「今でも、この大会のことは忘れられないよ。言ってみれば日本一の親分から大会のプロデューサー役を任されたようなものだもん。しかも、この催しは東京から力道山、大鵬、児玉誉士夫……伴淳三郎なんかが来ていて日本一の大規模な相撲大会だったからね、そんなところで、あの『僕の刀』に出てくる高見川に出会っているところがイイだろう。俺は子供の頃に乾分の話で聞いただけの名前なんだから。俺の場合は想い出ゲームがゲームで終わらないんだよ。時を経てから必ずこうやって星座のように繋がってくるんだよなー」

  大学の相撲部はやめたが、博教は、まだ現役の強さを保っていた。
  この大会で一番最初に5人抜きを果たした。
  元・時津風部屋のまだチョンマゲ結ってる幕下の力士を投げた。
 土俵の下まで吹っ飛ばした。
  そのときに国粋会の森田親分が懸賞金3つ出していたので15万円。
  それが嬉しくてたまらなかった。
  さらに、もう一度、5人抜きを果たした博教には、力道山に「お疲れさん」と労をねぎらわれた。
  それはピッカピッカの最高の笑顔で言われた言葉だった。

「わかるかい。俺のなかの力道山はこれでおしまいなの。子供の頃、新田新作の運転手の時は広い背中だった。そしてラストシーンは正面のアップの笑顔。その後も何度か会ったけど、俺はここまでにしてる。
 あの「戦場のメリークリスマス」のラストシーンのたけしの笑顔があるだろ。ああいう感じだよ。思い出すと、たまんないんだよなー」

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力道山刺殺事件

  相撲大会を終え、湯河原から戻った、ある日、力道山とホテル・ニュージャパンであった。
  受付の英語が堪能な女性の黒い机に向って4カラットとかのダイヤモンドを10個ぐらい、ポケットからジャラジャラジャラー無造作に出したときには驚いた。
 それは実に天真爛漫な振る舞いだった。
  その夜に、力道山と稲川親分と二人抱き合ってる写真を撮った。
  稲川の親分が着てるのは博教が寄付した浴衣だった。
 その頃の稲川組は錦政会だったが、錦政会って書いた反物を稲川の親分に100反、進呈すると
 「お、すごえな。もう100反作ってくれよ。前の分も金払うから」
 博教は、親分が喜んでくれてお金貰って、すぐに100反を作った。

12月15日──。
 希代の英雄・力道山、ニューラテンクウォーターで大日本興行の村田勝志に刺され、その後、入院先で死亡した。
 
 博教は、村田勝志とは事件の前に一度だけ会ったことがあった。
  小林会の小林楠扶会長の護衛として、ニュー・ラテン・クォーターのスペシャル席に坐っていたのだ。
  顔見知りの小林氏に挨拶すると、
「まあ、お坐りよ」
 と言われたので、数分同席した。後に力道山を殺すことになる漢とはこの夜一度も言葉は交わさなかったが、抜き身の刀のように鋭い光を放つ存在だなと感じていた。
  その予感は博教の留守に的中してしまったのだ。
  普通なら店に居るはずだったが、丁度その夜は、博教は非番であり、日曜日だったので、年に一度か2度の休みを貰い、湯河原の富元富次郎宅へ旅行中であった。
  他の店で力道山が酒に酔い暴れることは多々あったが、ニューラテンクオーターで騒ぐところは、博教は一度も見たことがなった。
  だからこそ、博教は初めて力道山が大立回りを演じたこの日、偶然、この場所に居なかったことに不思議な運命を感じないではいられなかった。

「もし、俺がいつものように店に出勤していたら、俺は用心棒なんだから、確実に村田勝志に向かって行ったはずだね。あそこで力道山の代わりに殺されていただろうな。命拾いしたのかもしれない。だからこそ力道山は俺の運命を変えた男なんだよな」

 力道山刺されるの報は東京の夜を牛耳るアウトロー社会にも大きな衝撃を与えた。
 なぜなら、赤坂は各勢力が入り乱れていた。
  昔から赤坂は住吉連合の縄張りで、ここに九州から右翼の吉田裕彦が参入し、社交場であるラテンクオーターを経営し、その用心棒が博教だった。
  そして、ここに銀座の大日本興行・小林会の小林楠扶が入り込む。
  当時、小林会はスカルノ大統領の用心棒をつとめるほどの顔であった。
  そして、力道山を刺した村田勝志は小林楠扶会長の乾分である。
  ここまで各組が入りくむと、それ故にゴタゴタ衝突が不可避であった。

  この緊張状態の懐柔策として、ラテンクオーターでは「小林会、住吉連合は30%引きでラテンクオーターで遊んでください」との協定があったほどだった。
  そして、この力道山を刺した直後に、小林楠扶氏は力道山の元に詫びをいれに行くが、その時、同行した村田勝志が玄関前で待っているところを、東声会と小競り合いになり、村田勝志は東声会の人間を刺した。
  このままでは大型抗争になるところだったが、当時の住吉連合のナンバーワンだった阿部重作氏と、山口組田岡一雄組長との間で話し合いが行われ、なんとか収拾された──。

 力道山の死は裏社会を再編成させた。

 大女優との恋

 この頃、映画女優であったEから博教はさまざまな教養を伝えられた。

  彼女と初めて会ったのは、ニュー・ラテン・クォーターだった。
  それから数日して、博教がホテル・ニュージャパンのロビーで山口美術印刷の専務・山口武矩氏と喋っていると、
「いきなりふりむくなよ。今、君の後ろに格好いい女が二人坐ったぞ」
 躰をねじって見てみると、何度か口をきいたことのある福島という女社長とEだった。
「二人とも知ってますよ」
「本当。ショート・カットの方の女性、紹介してよ」
 社長といってもまだ二十五、六歳の福島社長に、
「大学の先輩の山口さんです。今そこで喋っていたら、美しい女が入って来たぞっていうんで、ふりむいたら貴女達でした」
 山口氏が、丁寧に挨拶し名刺を渡した。
「何を読んでらっしゃいますの」
 Eが訊いた。
 博教は、持っていた主婦の友社の『英語の記憶術』という新書判の本を渡した。
  彼女は本を繰ると笑い出した。
  彼女は「kitchen キチン台所。台所はいつもきちんと片づけよ」のところを指で示し笑った。
  つんとすましていた先夜とは別人のようだった。
  再会の記念に本にサインしてもらった。
 フロントでフェルト・ペンを借りてくると、
「博教様 9月の終りに」と横書して、その下にサインをしてくれた。
 博教は彼女の自宅の電話番号を教わった。

 その後、彼女とデートするようになった。
 あるとき、詩が好きだという彼女に、電話で『グールモン詩集』(堀口大學訳)を聞かせてもらったことがあった。

 シモオンお前の毛の林のうちに大きな不思議がある。
 お前は 乾草の匂いがする
 お前は 獣の寝たあとの石の匂いがする
 お前は 鞣革の匂いがする
 このように「お前は」が二十近く続き、また、
 お前は 土と河の匂いがする
 お前は いろごとの匂いがする

 博教は〈いろごとの匂いがする〉こんな詞文をすらりと言える彼女に感心した。
 そして彼女と三度目の待ち合せをしたのは、新宿武蔵野館通りの喫茶店ポルシェだった。
  十五分遅れて、立教大学柔道部の後輩を連れて入って行くと、店長が、
「少し前までその方のお父様という方がお待ちでしたが、お帰りになられました。ご本人は病気で来られないそうです」
 彼女と一緒にイングマル・ベルイマン監督作品「沈黙」を観に行くつもりだったが、男たちだけで有楽町まで観に行くことにした。
  映画を観てから、彼女の見舞いの品を買うため、銀座八丁目の千疋屋に行きシャーベットを買った。
  博教はシャーベットを携え、淀橋の彼女の自宅を訪ねた。
「私の一番綺麗な姿をお見せしなければいけませんのに、こんな格好でご免なさい」
 彼女はベッドの上にきちんと坐り、そう言ってから、持っていったオレンジ味のシャーベットにちょこっと口をつけた。
 シャーベットを喰べ終った彼女から、エジプトのアブ・シンベル大神殿が湖底に沈むということについて聞かせてもらった。
  神殿に祀られているラメス二世は古代エジプト史上で知られている二百余名の王の中で、随一の王なのだそうだ。二十歳前に即位し、六十七年間在位した。この王の墓アブ・シンベル大神殿(高さ三十三メートル)が、アスワンハイダム建設のため、湖底に没するというのだ。
  この巨大な二十五万トンもある石像を移転する案もあるそうだが、そんなことが出来る筈はないので、いずれ没するだろう。
 そうなる前に一度見ておきたい。と彼女は言った。

 ──この女優との交際で驚くのは、何十枚とデートをする白黒写真を残していることだった。
 私が「百瀬さん、普通、こういうのって捨てませんか?」と聞いたら――。
「俺は、今まで想い出の写真は一枚も捨てたことがないんだよ」
 実際、氏の部屋は何万枚もの写真が溢れかえっていた。

 また、ある日、 彼女は細江英公の三島由紀夫写真集『薔薇刑』を出して見せてくれた。
  その中に能面のような彼女の顔が一枚だけ写っていた。
「百瀬さんが私の家に入ってくるところを、近所の人達は見てくれたかしら。貴方のように堂々としている方が私を訪ねて来てくれるのを、皆さんに見て戴きたいわ」
  この言葉に感激した。アブ・シンベル神殿を見たいという彼女の夢は必ず叶えてあげよう。

  と、この夜、博教は誓った。

 しかし、この甘美なる付き合いは──。

 博教が昭和39年12月に拳銃不法所持で逮捕された時に終った。


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