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『命懸けの虚構〜聞書・百瀬博教一代』#6

第2部   力道山の出現 

市川学園中学

 昭和28年、板門店では朝鮮休戦協定が調印された。
 国内では、吉田茂首相が『バカヤロー解散』により衆議院を解散した。

  13歳になった博教は地元の市川学園中学に入学した。
 中学一年生の入学式が終って、博教は一年F組に配置された。
 担当の教論が来る前に教室に入り、何をしたわけでもないのに博教より躰の大きい奴が「俺に眼をつけた」とかで喧嘩を売って来た。
  いきなり殴って来たので体当りをするとすっとんだ。二、三発殴って、喧嘩は終わった。
 入学初日から、揉め事のカタをつけたことで、以降、博教にとって学校が過ごしやすい環境になった。

  市川学園は、初代校長の古賀米吉が昭和15年に開設した私立学校であった。当初は3クラス程の中学校だけの学園だったが、昭和24年に高校も併設し、今では、中高一貫教育の千葉県有数の名門校へと成長を遂げた。
 しかも新設校でありながら校長の肝煎りで優秀な先生を揃えていた。

  中学、高校を通じて、国語の教師に能村登四郎がいた。
  能村は馬酔木賞を受けるほどの俳句の名人であった。しかし、博教は当時から、俳句をやっている男ということだけで女々しいと毛嫌いしていた。
  博教は能村が首を曲げて出席簿を小脇に抱えて廊下を進んでくる姿が生理的に嫌いだった。お馬さんと渾名のある色白の長い顔が、ヒステリー持ちの母、菊江にそっくりだった。
  しかし、能村が博教の小馬鹿にしたような授業態度を許すはずがない。
 横見している博教の顔にいくつも白墨が飛んで来た。それを避けると、博教の席までやってきて、博教の坊主頭を黒板消しで何度も殴って白雲頭にさせ「お前なんか死んじまえ」と言って教壇に戻った。
  それでも、博教は能村を軽視し続けた。

  後に、博教が能村先生を再認識して尊敬することになるのは三十五歳で出獄して、母校の市川学園図書館に行った時に見つけた、能村のエッセー集「花鎮め」の中の「抱一の雛」という一篇を読んでからであった。

「能村先生には悪いことをしたと思っているよ。俺の文学的素養ってのは、刑務所に入ってからだからさ。もう俳句だの短歌だの言っている奴は女なんだよ。そのころは漢でありたいと思ってるわけだろ。
「長靴に腰埋め野分の老教師」なんて先生自身の先生時代を読んだ句があるんだけど、そういうのを読むと、あの頃を思い出すよ」

 この年、2月1日にNHK東京テレビ局が日本初のテレビ本放送を開始した。
 受像機は1インチにつき約一万円と高価だったため、受信契約数は866台に過ぎなかった。半年後、最初の民放テレビ局の日本テレビも放送を開始し、テレビ普及のため街頭テレビを設置する。

  博教は、テレビ放送がはじまって7ヶ後に、通学路の農家の家で初めてテレビを見せてもらったが、一般の人はテレビというものを当時はほとんど知らなかった。
 この1953年のうち、日本テレビの社員、業務局事業部員4名が関東一円を駆け回り、駅や公園、寺の境内などに街頭テレビを設置して回り、その数は一時、278台を数えた。
 最初のうちは、テレビはプロ野球やプロボクシングで人気を呼んでいたが、これを熱狂的にしたのは、なんと言っても、昭和29年に始まったプロレス中継であった。

力道山との邂逅

  昭和29年2月19日、両国国技館でシャープ兄弟を闘った力道山の世界選手権試合において、東京・有楽町の日本劇場前に設置された27インチの街頭テレビの画面には1万人近くの群集が釘付けとなった。
 大通りまであふれかえった大衆のすぐ後ろを車がかすめていくような状況となり、日本テレビの担当者は「とにかく早く中継が終わってくれ」と祈っていたという。
  この試合は日本中を興奮の坩堝に巻き込み、力道山を一夜にして、国民的英雄に伸し上げた。

 ここで今一度、この戦後初の英雄・力道山の足跡を駆け足で辿れば……。

 力道山は1924年11月14日に北朝鮮咸鏡南道に生まれた。
朝鮮姓、金信洛であったが、日本に渡ってから出身地を長崎県大村市に、日本姓を百田光浩に改められた。
 昭和14年に後の養父となる百田己之助にスカウトされ朝鮮半島から単身日本に渡る。
 翌年、二所ノ関部屋入門し、昭和21年入幕、24年関脇昇進と順調に出世した。上突っ張りと張り手を多用するスタイルとオートバイで場所入り姿、などこれまでもない新しいタイプの荒々しい力士として人気を集めた。      また、後の横綱初代若乃花は弟弟子に当たり、力道山が可愛がっていた。
 昭和25年、大関直前で肺ジストマを患い、低迷し、自宅で自ら髷(まげ)を包丁で切り落とし相撲界を去った。
 角界での通算成績は135勝82敗15休、幕内在位11場所であった。
その後、後援者である、新田新作の新田建設に身を寄せた。

 昭和27年、アメリカで、人気を博している新たなスポーツであるプロレス修行のため、羽田発飛行機でハワイへ出発、その後米国太平洋岸を転戦して、300戦295勝5敗の戦績を残し、翌年3月に帰国した。
 昭和28年、7月、自ら中心となって、28歳で日本プロレス協会を設立、主催者となってプロレス興行を日本で初めて打つ。
 アメリカでプロモーターのノウハウを学習した力道山は、その後のプロレス日本興行をどのような企画で行い誰を呼ぶかを考え自らワンマン経営で実行したのである。
  翌年、2月19日 蔵前国技館3日間連続興行を決行。
 この日のカード、力道山、木村政彦vsシャープ兄弟の一戦は日本テレビ、NHKが二元中継を行い、その模様は東京を中心とした関東一円の街頭テレビおよそ220台などでも放映され、全国的なプロレスブームが爆発するきっかけとなった。
  その後も、この年、12月22日、東京・蔵前国技館、巌流島の決闘、日本選手権試合で不世出の柔道家、木村政彦を破り日本一の座に就いた。
 世界一を目指した力道山は、昭和32年10月、世界王者である、鉄人ルー・テーズを招聘、東京・後楽園球場でNWA認定世界ヘビー級選手権試合を戦った。61分3本勝負で時間切れ引き分けた。
 昭和37年には宿敵、噛み付き魔のフレッド・ブラッシーと連戦し、ブラッシーが得意の”噛み付き技”を力道山の額に加え、日本プロレス史上初の流血戦となった。
 このテレビ放映を見ていた老人が一度に6人もショック死した。
その後の興行でも老人のショック死が相次ぎ、プロレスのテレビ中継規制が検討されるようになった。
 そして、昭和38年12月8日、暴力団員に刺され重症。
 7日後の15日死亡、享年39歳であった。
 その場所は、博教が働く東京・赤坂のホテル・ニュージャパン地下のナイトクラブ「ニュー・ラテンクオーター」であった。
 それは日本プロレス協会設立後10年目のことであった。

  わずか10年の輝きであったが、戦後最大のスターとして君臨し、力道山が普及したばかりのテレビの画面のなかで、シャープ兄弟、ゼガス・オルテガ、プリモ・カルネラ、キングコングなどなど強く大きな外人を相手に空手チョップになぎ倒す姿は日本人に敗戦のショックを一時の間、忘れさせた。

 博教と同じ年である、直木賞作家の村松友視は、力道山の出現の衝撃を次のように書いている。

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  力道山と言う名前が、一般的日本人の頭に衝撃的に灼きついたのは、角界引退の新聞記事が出てから千二百五十五日たった一九五四年、すなわち昭和二九年二月十九日の夜のことだった。(中略)ただ、昭和二十九年二月十九日の夜にテレビ画面から放たれた力道山像は、そんなレベルをはるかに超える強烈すぎるといってよい光をおびていたのだった。
 この夜のシャープ兄弟対力道山、木村政彦組の試合は、一瞬にして平均的日本人の心をつかんでしまった。(中略)シャープ兄弟を次々と“抱え投げ”で叩きつけた力道山は、最後には弟のマイクをロープに突き飛ばし、はね返ってくるところをケサがけに手刀で打った……つまり“空手チョップ”だが、このときはまだ“空手チョップ”の呼称はなく、アナウンサーは「力道山、カラテ、カ道カラテ、カラテ! カラテ!」と連呼していた。
 マイク・シャープは、左の頚動脈をおさえながら、朽木が倒れるようにマットに沈んでいった。その瞬間、力道山ブームは口火を切った。
 シャープ兄弟と木村のもみ合いは十二、三分つづいたが、力道山がリングに躍り込んでからは、わずか一分足らずの時間だった。
 大袈裟にいえば日本中の人々が、その光景のインパクトに陶然とし、力道山を神話の主人公として迎え入れようとする構えをつくった……それに要した時間は、信じられぬほどの短さだったのである。
 中学一年生の私は、全身の血が逆流するような興奮、電気屋の暗がりの中でじっと抑えながら、ブラウン管の青白い光をみつめていた。
 私が小学生であったなら、これほどの興奮をおぼえることもなく、無邪気にはしゃいでいるだけだっただろう。もし高校生であったなら、いま少し冷静に画面をながめていたはずだ。中学一年生……このいかにも熱血プロレス少年の世界にハマりやすい年齢で、一般的日本人の前に初めてお目見得したプロレスを、しかも後年電気屋の暗がりの中で観たことは、その後の私にも大きな影響を与えたにちがいなかった。
 『私、プロレスの味方です』なんぞという本を書くいたる端緒は、まさにあの暗がりの中の数十秒にあったというわけなのだ。
                 (「力道山がいた」朝日新聞社)

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  当時、丁度、村松友視と同じく、中学一年生の博教も例外に漏れず、力道山の声援に、テレビにかじりついて熱狂した。
 しかし、村松友視や多くの日本人にとって力道山は街頭テレビの白黒の小さな画面のなかに存在する手の届かぬ偉大なある英雄であったが、博教にとっては、力道山は昔から馴染みのある、顔見知りの小父さんであった。

 実際、力道山と博教は、人生に綾なす明暗の糸が絡み合っている。

「力道山と俺は子どもの頃から、最後に殺されたときまで、いろいろ縁があったねー。中山競馬場、浪花町のレスリングセンター、湯河原稲川道場、ニュー・ラテン・クォーターとか、都合10回以上、擦れ違ってきたけど、どの時も俺には力道山はとても気持ちよく接してくれたんだよ。悪い印象がない。酒癖はたしかに悪かったけどな。笑顔がいいんだよ。なかでも、湯河原で相撲大会の後、ニコニ笑いながら『お疲れさん』て言ってくれた声を一生忘れられないね―—」

 そもそも、博教と力道山との係わり合いは力道山の力士時代に遡る。
 それは、力道山の大スポンサーであり立志伝中の人物である新田新作がいたからだった。
  新田新作は父、梅太郎の兄弟分で蛎殻町一帯を仕切る貸元・鈴本栄太郎の乾分から身を起こした。任侠界の風雲児だった。

 新田新作が大出世するのは、ある恩返しがきっかけとなった。
戦争中、新田新作は川崎の捕虜収容所で働いていた米国軍人捕虜達の管理を軍から任されていたが、敵兵に対して実に紳士的に接し、親身に世話を焼いた。 
  終戦後、数ヶ月して新田新作にGHQから呼び出しが来た。
  自分は捕虜収容所の看守長みたいなことやってたいたのだから、きっと死刑になると思っていた新田は出頭を嫌がったが、博教の父・梅太郎が「付いてってやるから、とにかく行け」と一緒に行った。
 GHQに行くと、新田が野菜や時にはウイスキーを差し入れてやった捕虜の一人が東京復興局の担当官、責任職となったいた。
  そして彼は、戦時中の新田の好意に対し謝意を表し、その恩返しとして、東京中の瓦礫の山の生理整頓する土木事業の仕事を新田に命じた。
 その事業の総額は、いまでいうと600億位の規模だったらしい。
  新田新作は日ならずして大金を懐にする。

  新田新作は、その後、数々の事業を手がけて出世街道をひた走り、44歳の若さで明治座の社長となった。

 戦争終結後、両国国技館はアメリカに接収され、相撲の「本場所」がなくなった。協会は、当初、後楽園でやったり、靖国神社で臨時開催したが、新田は昭和二十四年、春、夏の二場所を三千万円の建築費でこしらえた仮設国技舘で相撲の「本場所」をやらせた。
 場所は現在の明治座裏公園だった。
 連日札止めになったが、気前のいい新田はこの仮設国技館をポンと相撲協会に寄付し相撲協会の大スポンサーとなった。

 そして、現役関脇のまま、自宅の台所で自ら髷を切って大相撲と決別した力道山の後見人となり、プロレス修業にハワイへ渡る手筈も付けた。

  博教は子供の頃から、父の友人のなかでも、金が切れて、気前のいい、この新田新作のおじさんが大好きだった。
   新田は、父・梅太郎と連れ立って、よく中山競馬場や府中競馬場に出向いた。
  競馬好きだが大勝したためしのない父・梅太郎に、新田は「小父さん、これ人参代」と言って小遣銭を渡した。
  それだけではない。林檎の紅玉一個十円の時代に小学生の博教に「坊やほらお小遣い」と言いながら五千円くれたのだ。

「金銭感覚が桁はずれなんだな。金は天下の周りものって言うけどね、新田さんは俺が初めて逢った『金運大明神』だよ。もう俺がいくら言っても信じてもらえねだろうけどね、今、思うと、俺の親父は新田さんから現在の金で10億円以上は貰っていたのではないかな」

 力道山の大パトロンだった新田新作は、博教に合う度にいつも上機嫌で、「中学を卒業したら我家へ来なさい」と言い、本気で、博教を養子に欲しがった。
  博教は新田家の子供になったら、どっさり小遣を貰えて、毎日「明治座」へ行き新国劇の芝居や新派の舞台を観られることばかりを思って浮き浮きした。博教は心から新田新作を好きになった。
  
 博教と力道山との初の出会いは力道山が相撲を辞めて、新田新作が経営する新田建設の資材部長をしていた時である。
  しかし、資材部長という役職も名ばかりで実際には力道山の仕事は社長付きの運転手であった。
 その日、博教は、梅太郎と新田新作を乗せた力道山の運転するキャデラックで中山競馬場に行った。
  博教は父と共に後部座席に深く身を沈めながら、恰幅の良すぎる運転手が、大きな体を縮めて運転している様子を見て、彼が2年後には日本中を熱狂させる英雄となることは知る由もなかった。

「俺はそういう極端なのを子どもの頃からたくさん見てきてるんだな。やっぱり、くすぶっている人が大出世して金ぴかの輝きを持つ瞬間を何度も目撃したから、それは子供心にも衝撃だったし、人はこんなに変われるものか、だったら自分ももっと立派にならなきゃあと思うようになったね」

  プロレスが大ブームになると中学生の博教は、その力道山を見たくて、週に一度は、浪花町にある新田建設の倉庫を改装した力道山道場に行った。
  お目当ては力道山であったが、何日通っても力道山が練習している姿は見られなかった。
 ある日、友達の藤井と何時ものようにカ道山道場へ行った。
その日はカ道山が白いジャガーのオープンカーで既に来ていた。
〈ようやく、力道山に会える〉博教は子供心にときめいた。

  道場のドアを押して昼間でも薄暗い練習場に入ると背広を着たカ道山が喋っていた。
  遠藤幸吉が遅れてやって来て、笑顔で挨拶すると、いきなり力道山が「おい、税金早く払えよ……」と言った。
「カさんに比べれば、俺のなんかちょっぴりだから、あわてて払わなくても税務署は困りゃしませんよ」笑いながら遠藤が着替え室に入って行った。
 子供の頃から家で税金の話など一度たりとも聞いたことがなかった博教は「こんな人でも税金って払うんだ」と改めて驚いた。
 この日もカ道山は二十分程しか道場にいなかった。
 そのまま、ジャガーで何処かへ出掛けて行った。子供達が走り出そうとする車の周囲を取り巻くと力道山は、車の警笛ではなく、車の先の方に仕掛けてあったカウベルを鳴らした。
 カランカランという牧歌的な音が響くと、そのあまりの場違いさに子供も大人も笑った。
 カ道山も大笑いしてから、隅田川の方向へ猛スピードで走り去った。

 それが博教が力道山を見た2度目の経験だった。
 キャデラックの運転手のときとは、雲泥の差であった。

  中学生の博教は、この日を境に、目の当たりにしたスーパースターにすっかり虜になり、その後も、藤井を連れて力道山道場へ通った。
  博教は、すっかり馴染みになると、日本人レスラーはもちろん、外人スターであるシャープ兄弟とも写真を一緒にとってもらったりした。
 力道山には、なかなか会えなかったが、当時のプロレスラーの練習風景を眺めることが出来た。鉄アレイをぶらさげ、首を鍛えているのはユセフ・トルコだった。
 太過ぎるほどの腕を見せびらかす為か、絶対にトレーニングシャツを着たのを見たことがなかった豊登。
 笑うと金歯が光った芳の里。
 台湾出身の元力士、二メートルの巨人、羅生門は見あげるほど大きかった。
 道場ではレフェリーの沖識名が首投げの練習をしていて、その体の柔らかさと強いのにも驚いた。

  博教が道場で不思議に思ったことがあった。
  博教は中学二年生の時だけで、十五回はレスリング道場へ通ったが、そこで元出羽ノ海部屋の剛腕力士だった駿河海光夫の姿を一度も見たことがなかったことだった。
 彼は創世期の日本プロレス界にあっては力道山、木村政彦に次ぐスターだった。
 入幕した場所でひざを痛めたのが原因で、前頭十四枚目を最高位として廃業したが、抜群の腕力の持ち主だった。
  怪我さえなければ三役は間違いない逸材だったのだ。
 駿河海は力士を廃めた後、当時の山一証券社長、大神一にやっかいになっていた。
 折りも折、シャープ兄弟対力道山・本村組の興行試合の後援を毎日新聞社が引き受けた時、開局で話題沸騰中の日本テレビが実況放映する話がついた。
 ところが海のモノとも山のモノともつかぬプロレスにスポンサーがつかない。結局、山一證券がスポンサーの名乗りを上げたが大神一社長の
「俺んとこに、相撲をやめた駿河海というのがいるが、その男を前座試合に使うならスポンサーになろう」
 という一言で駿河海はリングに上がることになった。
 当時三十四歳だったがプロレスのリングでは、まるで華のない地味な選手で、博教の目にも止まらないまま、いつの間にかリングから消えた。

 その駿河海の姿を再び目にしたのは、博教が高校三年生の時のこと。
 市川高校の通学路に「石原食品」という看板を出したスーパーマーケットがあった。その店の前に作業着を着た六尺一寸五分(一八六センチ)の駿河海が立っていたのだ。
  リング上で見せたあの精悍な横顔に午後の陽が当っていた。
 二、三人の仲間と一緒だったが、過度に感傷的な博教は「ほら、あそこに元プロレスラーの駿河海がいるぞ」とは誰にも告げられなかった。
  今をときめき隆盛を誇る力道山に比べ彼の姿はあまりにも切なかった。
  博教は自分のはかりのなかで、力道山と駿河海を比べて人知れず寂寥感を抱いた。

  力道山は駿河海のように消えていった多くのレスラーの影を背景に、眩しいほどに輝いて見えたが、それは博教の少年の一瞬の憧れとして留まった。

 その後、博教は中学3年生の時、父・梅太郎に連れられて蔵前国技館へ、「力道山 vs キングコング」がメインイベントの大会を見に行った。
 梅太郎と共に国技館の大きな扉を開けて、支度部屋まで突っ切ると「入っちゃいけないよ!」と、相撲からプロレス入りし、さらに後に俳優に転進して黒沢明の「どん底」にも出演する藤田山に言われた。
 「誰に言ってんだ!」梅太郎は怒鳴り返した。
 瞬時に、藤田山は言葉遣いを変えて「坊ちゃん、お父様、いらっしゃっいませ、あれが国鉄のピッチャー金田正一、その隣りが大映の船越英二ですよ」と控え室を案内した。

「わかるかい。こういうのが大事なことなの。だってカッコつけると最後にはやられるなってことを、あの時、あの瞬間に俺は学んだからね。
『失礼ですが、どちら様ですか?』って綺麗な挨拶するえばいいんですよ。それを『入るな』って言うから、叱られるんですよ。カッコなんかつけてたら絶対ダメですよ。何カッコつけるとやられちゃうんだから。わかるだろ、挨拶は身を守る鎧なんだよ」

 この日、博教がリングサイドで目の当たりにした力道山は、スポットライトを浴びて光り輝いていた。

「力道山は、もう出て来ただけで金太郎かなんかが鬼の首100個取ったぐらいの感じで、試合する前にそれぐらいピッカピカだったね。でもよー、この日本一のスーパースターとなんども俺はすれ違うんだよな」
 
 確かに、この物語を辿っていくと百瀬博教と力道山は、何度も人生の転機に擦れ違うことになる。

 それは「星座」と言っていいほど運命的だった。


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