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『命懸けの虚構〜聞書・百瀬博教一代』#23


レイトンハウス・赤城明との邂逅


1986年、突如、博教の前に現れた「バブルの申し子」こと赤城明とは何者なのか(百瀬本では、赤木明と表記)――。

 赤城明は、もともと「丸晶興産」という名の不動産会社の社長だった。
 都心のオフィスビルやゴルフ場を経営し、折からの地価高騰を受け、業績を伸ばし、その後、「ホテルレイトン」を買収した。
 六本木のディスコ「トゥーリア」(後に照明落下事件を起こす)の経営他、手広く一等地の地上げを行い、バブル全盛期に業界の風雲児として知られた青年実業家だった。
 そして他業種にも進出、レーシングドライバーの萩原光とその弟である萩原任兄弟の求めに応じて1984年の秋から全日本選手権クラスのレーシングチームのスポンサーに就任した。
 当初は「丸晶興産」名義でスポンサーを行っていたが、1985年の後半より「レイトン」というイギリスの地名をもとに「レイトンハウス」のブランドを名乗ることとなる。
  しかし、レイトンハウスの名前を冠したレーシングチームを立ち上げたばかりの1986年4月、萩原光がメルセデス・ベンツのマシンテスト中に事故死した。
(その翌日、タレントの岡田有希子が四谷の事務所のビルから投身自殺し、世間は騒然となった)

 この事件で、そもそも素人である自動車レースチームのスポンサーを辞めるべきだという声もあったが、萩原の遺族の意向もあり、赤城は強気のままレーシングチームの運営を続行した。それは功を奏した。
 1986年シーズンには全ての国内選手権クラスのレースへの同時参戦を開始し、それに合わせる形で子会社の「メーベル商会」の社名を「レイトンハウス」に正式に変更した。社名変更と時を同じくして「レイトンハウス」ブランドによるアパレル展開もスタートし、チームカラーの鮮やかなターコイズブルーの「レイトンブルー」でも一世を風靡した。

 勢いは留まることを知らず、1987年には、イギリスの名門チーム、マーチと提携する形で「レイトンハウス・マーチ・レーシング」として、レーシングビジネスの世界の頂点Fー1に進出した。
 チームの好調振りと共にアパレル事業も順調に発展、一時は首都圏やサーキットのみならず、全国の大都市にブティックを展開し、アパレル事業単体で年商20億円を超えた。
 ついには親会社の丸晶興産がマクラーレンのスポンサーとしても知られた西ドイツの老舗紳士服ブランド「ヒューゴ・ボス」を400億円で買収するという話までになった。
 親会社の本業の不動産でも横浜市に「レイトンハウス」の名を冠した高級賃貸マンションや、釧路市で式場併設のホテルレイトンも展開するなど、レイトンハウスブランドを拡大していった。
また、F1参戦前年の1986年にはレコードレーベル「レイトンハウス音楽産業」を設立し、音楽事業にも参入していた。

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 そんな時代の寵児である赤城と博教の出会いは1987年だった。

それは、当時、「地上げの帝王」と言われた「山晶興産」の社長、赤城がマーチ社のスポンサーとしてF1に参加した時だった。
 F1のスポンサーとは、当時から世界最高峰のタニマチだ。
 スポンサー料は最低、年間8億。
 しかも、ブラジル、フランス、イタリア、ハンガリー、ベルギー等、年間16戦で各国を転戦するから、別途に3億は優にかかるビッグビジネスだった。

 そして、赤木はこの二年後の平成元年、1989年、マーチグループPCLからF1、F3000部門を20億円で買収し、完全にオーナーとなった。
 当時の赤木は本職の不動産業がバブル経済の上げ潮に乗って、横浜中華街近くの地上げで一晩で70億円儲けたと噂されるほどの豪腕だった。

 博教と赤木とは、赤坂のディスコ「夢幻」の売却をめぐって名乗りを上げてきた数々の会社の中の一人の社長として邂逅した。

 初対面の日、彼のもの言いの上品さと立ち居ふるまいの優雅さに、博教は圧倒された。

 そして赤城はと親しくなると、こんな思い出を話してくれた。

「まだ、小学校に入る前でしたが、父の友人のキャデラックで音羽の鳩山一郎さんの家に行きました。鳩山邸の下まで行き、車から降ろされたんです。当時のキャデラックは馬力がなく、音羽の坂は無理だったんですね。そこでミゼットのような車に乗りかえさせられて坂を上っていきました」

 赤木明は昭和19年11月生れだからこの時、46歳だった。

 赤城が聞かせてくれる話の一つ一つが、生れてこの方ベンチャービジネスというものにたずさわったことのない博教には新鮮で夢物語に思えた。

 オックスフォード城の買収に8億円。ヨーロッパで見つけた古いオルゴールを置く為に大正時代に建られた西洋館を購入した話。正月明けに箱根にある横井英樹の別荘を買う為、横井と一緒に箱根に行った折、途中細い山道でバスと擦れちがう時、80歳に近い横井が乗ってきた車から飛び出し、バスの運転手に「オーライ、オーライ」と言って手を振り無事に通らせた話。東京一のファッションモデル学校を作る為に、ニューヨークから元「ヴォーグ」のモデルだった講師とモデルを数名呼んだ話。

 低い声で喋るのだが、赤木の話は総て判り易くて痛快だった。

 赤城は博教に対して徹頭徹尾、低姿勢だった。
「百瀬さん、仕事が落ちついたら、ロンドンに行って二人乗りクラシックカーの試合に出ましょうよ」
「駄目、俺、運転出来ないもの」
「そんなことは大丈夫ですよ。運転は全部私がやりますから。百瀬さんは隣で睡ってくれててもいいです」
 人は言葉でぶっ翔ぶ。
 赤木の言葉にへろへろに酔った博教は、何人もの友人、知人にF-1オーナーとして雑誌のグラビアを賑わし人気絶頂の彼を会わせたくて、乃木坂にある会社へ案内した。
 そこは時代の寵児が集まるサロンだった。
  永久にその繁栄は続くかのように思われたが、栄枯盛衰のことわり通りに、現在、そのビルはジャニーズ事務所となっている。

 この年、博教は赤城に招待されてF-1イタリアグランプリを見るためにミラノのモンツァへ行った。
 日本航空のファーストクラスで飛んで行き、空港に着くと「LEYTON HOUSE」の名が入ったヘリコプターが3機、博教達を迎えた。
 初めてのヘリコプターに恐々乗り込んだが、降りてからの後は、見るもの聞くもの初めての体験だった。
 レースに出場するF1マシンを4台収納できる大型トレーラーや、レース用の車の修理をするトレンスポーター、そして、レイトンハウスのドライバー用の仮眠用ブース2つと、レイトンチーム特別応援団の接待用に使うモーターホーームカーの見事さ。一台のトレーラーに4、5億の制作費が掛かるらしいので、3台では12〜15億になる。
 もうバカバカしいほどの経費が掛かるので、世界に冠たる大企業でなければこんな贅沢な遊びはやれないのだ。
 日本でも、レースのスポンサーはホンダのような大企業なのに、無名の不動産会社の社長、赤城明が世界最高のモーターレースF1チームのオーナーになったのだから、世間の車好きはひっくりかえるほど驚いた。

 博教が大勢の客と一緒に軽い食事をとりながら、赤城の大タニマチぶりに舌を巻いていると、赤城がやってきて、
「百瀬さんは車に興味がないんですね。ここにずっといるのは退屈でしょう。よかったらヘリコプターで空中散歩してきて下さい」と言った。
 博教は6人乗りのヘリコプターに通訳とふたりで乗ってモンツァの町を空から見物した。
 翌日、グランプリ予選に観戦に行く赤城とその仲間とは別行動をとり、博教はコモ湖へ行った。今はホテルになっている別荘のレストランから、太陽の光を受けて水面が鏡のように煌めいているコモ湖を眺めた。
〈池田稔、赤城明という錬金術の天才と巡り合ったからこそ、こんなにも豪華で愉しいイタリア旅行が出来るのだ〉と博教は思った。

赤城は豪胆な漢でしたよ。言葉遣いも綺麗だし、タニマチに徹して俺を好きなように振るまわせた。セコいところが一切なかった。旅の地でも好き放題なんだもん。小言や嫉妬を口にすることも一切ないんだよ。

 次の日、いよいよ決勝日になった。Fー1会場はジェリービーンズをぶちまけたようにカラフルだったが、そんな中でも一際目立つのは、赤城明のシンボルカラー、レイトンブルーだった。
 この日は、最後の最後にフェラーリチームが逆転優勝を飾り、地元、ミラノの観客が狂喜乱舞した。
 翌日は市内見物、レオナルド・ダ・ビンチの『最後の晩餐』を見て、ドゥオーモ、モンテ・ナポレオーネ通りで買い物。夜はクラブでホステスと踊った。
 次の日は、ミラノ駅から列車でヴェニスに向かった。そこで2泊し、旅の終わりはフランクフルトへ行った。
 そして、このイタリア旅行の帰途、隣席に座ったのが野村證券の中村義昌だった。
 博教が機内で親切な対応をしていると、
「これプレゼントしますわ。スイス銀行がくれた金貨です。いや私は何個か持っていますので、どうぞ。いや、いや、貴方は親切ですし、正直でよろしい。自分で不良なんて言う人はおりませんよ。貴方は実に気持ちがいい。F-1見物でミラノに行かれたらしいが、お話に出た車の横に企業名を入れる広告、私が3つ4つ取ってあげます。一社一億円ほどでいいんでしょう」
 中村良昌は、一年後、北京に渡り新会社を興した。
 野村證券は世界に冠たるリサーチ網を持っている所為か、日本に居る間、中村は色々なアドバイスをしてくれた。
 例えば、親しい不動産会社副社長が、ニューヨークにある100億円のビルを購入しようとした時も調査してくれて、
「おやめなさい。56億円で売りに出しているようですし、場所もメインテナンスも良くありません」
 と、これ以上ないほどの忠告をもらった。

 博教の交友や取引はますますと桁違いになっていった。

 ミラノの旅から約一年後、
「ブタペストに行ったことはありますか。そうですか、一度行ってみてください。ドナウ川の向こうに紫色でライトアップされたブタ宮殿の美しさってたらないですよ。8月にブタペストでF-1のレースがあります。その時、ご招待します」
 と、赤城の招待で博教はハンガリーへ飛んだ。

1990年8月11日、パリ発エール・フランス機でブタペストに降り立つと、ホテルコロナへ直行。ヒルトンホテルでロールキャベツを食べた。
 それはマガジンハウスの清水達夫に教えてもらったところだった。
ゲツレートホテルの中の大温泉を見学し、観光地を見て回った。そして夜に百年前も同じ佇まいのドナウ川岸を散歩し、道に立っている物売りから絵画や復活祭の日に飾る木の玉子の置物を土産に買った。ブタ宮殿を一望のもとに見渡せる場所に立った。「綺麗ですよ、一度見るといいですよ」と、赤城が言った通り、紫色の照明を浴びたブタ宮殿は真夜中に咲く紫陽花のように輝いてみえた。
〈ありがとう赤城さん、こんなに美しい風景を見せてくれて〉
博教の心は感謝の気持でいっぱいだった。
 翌日、朝早く起きて昨夜書いた数枚の絵葉書をフロントまで届けに行った。
切手を貼るだけの仕事なのに、気の利かない女なのでもたもたした。やっとのことで切手を貼ってもらって、フロントから離れてエレベーターに向かう時に、背中を叩く者がいる、振り返ると、F-1ハンガリーグランプリに出場するレイトンチームのドライバー、イワン・カペリだった。博教はカペリとがっちりと握手をし、「グットラック」と励ました。
日本へ帰って、赤城にそんな土産話をした。
翌年、1991年にも博教は、赤城の誘いでF1ハンガリーグランプリを観戦した。連れは大学の後輩、堀口圭一、彼は立教大学相撲部時代に学生横綱、社会人になってアマチュア大会も制したほどの強豪だった。
車でウィーンへ向かい、クリムトの美術館へ入った。旅の終わりはロンドン。博教が23歳の時に泊まったヨークホテルへ向かった。
 日本へ戻ると、また赤城によい旅をさせてもらった挨拶に行った。
 この頃から赤城の勢いが感じられるなくなっていった。

マネーゲームの時代、博教はそのど真ん中にいた。
しかし、バブルの崩壊は静かに近づいていた。

 「金運大明神の時代だよ。今まで大なり小なりあった勢いとは違うんだよ。よく「お金が降ってくる」とか言う表現があるけど、もう土砂降りのように札束が降ってきたね。この頃は。もうチマチマとお金を数えることがなくなったよ。俺の中で金銭感覚が変わったね。それにF―1の現場を見たことは大きいね。あれを演っているのは世界一のタニマチでしょ、世界一の道楽ですよ。K-1とか言って世界一の興行だってふんぞり返っても、そんな規模はどうってことないでしょ。F−1に比べればチンケですよ。それに23の時に、裕次郎に憧れてひとりで世界を廻っているから、何処へ行ってもどうってことないんですよ。海外で物怖じすることがないんですよ。外人でもヘッチャラなのが百瀬さんらしいところですよ。よく日本人は張子の虎のように外国人にペコペコしちゃうでしょ。俺は何処へ行っても堂々としてたよ。だから外国人の女性にもモテるんだろうね(笑)」

「僕の黒船」裕次郎の死

時を戻そう──。

1986年の7月17日、「博教の黒船」、石原裕次郎死去──。

 博教は、裕次郎が亡くなった日、慶応大学病院前を通って新宿の厚生年金会館に、初めて聴く稲垣潤一のリサイタルを観に行っていた。
その日の昼の番組で、裕次郎の重体を聞いていたので、慶応病院の前を車で通る時、ちょっと頭を下げて、『あにき、早く良くなって下さい』と祈った。
 車が会場に着くと、稲垣の所属する会社の社長が出迎えてくれたので、稲垣にやる花束を社長に渡し、社長に案内され招待席に座わった。
 席に座っていると、一度楽屋に戻った社長がやって来て、
『百瀬さん、石原裕次郎さんが死にましたよ』と告げた。
 ショックを受けたまま、じっとしているとショーが始まり、稲垣潤一がドラムを叩き出した。
 そのドラムの音は、博教を「嵐を呼ぶ男」を見て、裕次郎に衝撃を受けた高校2年生にタイムスリップさせた。


 裕次郎は、手の届かない銀幕のなかのスターだった。
 そして、自分が20歳になる前に裕次郎と邂逅できたことを誇りに思った。
 初めてあの人を見た時、こんな美しい人間がいるんだなって思った。
 近しくなってふざけて抱き上げたり小倉日活ホテルで風呂上がりの姿なんか見た時、こんなに無駄のない強靭な肉体の持ち主だったら、百歳くらいは行けるんだろうと思っていた。
19のとき、父、梅太郎は、デブの息子に向かって、「お前みてえな躰じゃ、30まで生きられねえかもしれないぞ」と本気で言っていた。

裕次郎は享年52だった。
その3年後、昭和の最後の年に、美空ひばりも52歳で逝った。

 芸能界の頂点を極めたふたりの死は、昭和の終わりを大衆に告げたのだ。

 博教の「想い出ゲーム」の最大の郷愁、石原裕次郎は、二度と帰らぬ「想い出」そのものとなった。記憶とは過去の強烈な体験、経験だ。
 それは例えば、裕次邸の「嵐を呼ぶ男」を観たのは錦糸町の江東楽天地の一番奥の名も知らない映画館で、18歳だったというように、己の過去を定位し場所づけることにもなる。だからこそ、一日一日をうれしい気分で送れるようにしたいものだとしみじみ思った。

博教にとって「思い出ゲーム」は、は単に記憶力の勝負はなかった。その人 間がこれまでの人生でどんな出会いをしたかにかかっている勝負だった。
博教の「想い出ゲーム」の中に、どれほど石原裕次郎が大きな位置を占めていることか。
そしてそれをどんなに誇り高く思っていることか。

                                                             つづく。

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