見出し画像

『命懸けの虚構〜聞書・百瀬博教一代』#20

第5章 出獄

 1974年8月──。
 34歳になっていた博教に出獄の日が訪れた。
 この日、4人の男たちに迎えに来てもらった。
 服も建物もドブネズミ色の世界から、どの方向に走り出そうが、誰も付いてこない巨塀の外側に向け出たことで、博教には視界に入る全ての景色が総天然色で新鮮だった。
「何を食べに行きましょうか」
 それが、迎えに来てくれた人の最初の言葉だった。
 車を走らせ、市川に着いたのは真夜中だった。
 入獄した夜、出獄の日に必ず食べようと決めていた、仙台の「大町とんかつ」の「ひれかつ定食」を食べに行ったが、麦飯に舌が慣れ運ばれてきた白米を半分も食べられなかった。
 ごはんを残した時、あんまり腹が減って花壇の横に生えていたタコ草をむしって呑み込んだりした自分を忘れてはならないのだ。と思った。

「どんな囚人でも出獄の日を夢見て何を食べるのか決めていない奴はひとりもいないね。でも刑期が長ければ長いほど思い描いたものと違う味なんだよ。食感が変わっちゃうんだろうね。俺ほどの米好きが食べられなかったもんね。え? 俺が花や草をムシャムシャ食べる描写が多いって。それはなんでだろうな。それが他人から見れば奇行だって客観的にはわかっているからだろうね。でもやっちゃうんですよ。プロレスラーってその最たるもので、グラスやガラスを食べちゃうとかやるだろ。あれも虚構だからやってみせるんですよ」

 家に戻った翌日は上天気だった。
 博教は留守中お世話になった方々へ挨拶しに出掛けようと思った。が、体重が四十キロ減ったので、胴廻りも二十センチは細くなり、総ての背広は着られたものではなかった。
 小岩のジーンズ店でジーンズの上下を買った。鏡に映る姿は、これが自分かと思うほどスリムだった。
 その後、地元の同じ年の友人、梅津勉の事務所へ行った。
 梅津は、博教が訪れたが顔を見てもすぐにはわからなった。
「痩せましたね。判らなかった」と梅津は言い、獄の生活を労うと、ふたりで珈琲を出す店に行った。
「本当に痩せましたね。今なら相撲をやっても組みやすいだろうな」と、梅津は言った。
 早速、テーブルと椅子を退けて空間を作ると一番勝負することにした。
 梅津とは、博教の父が毎年勧進元をしていた市川市素人相撲大会の決勝で対戦したことがあった。そのときは博教が勝って市長杯を貰ったが、あの頃はふたりとも大学生だった。
 柔道五段の梅津はプロレスラーの坂口征二が明治大学の柔道部の大将だった時、試合をして体落としで技ありを取ったほどの強者だった。
 ふたりは仕切り二回で立つように決めて、立ち上がった。
 激しくぶつかったがが、最後はジュークボックスの線が抜けたところで、常に攻勢だったので勝負は博教の勝ちとした。
 博教は体重こそ落ちたが、まだまだ戦闘力は落ちていないと自覚した。
 テーブルと椅子を戻すと、ジュークボックスで曲をかけた。
 「裏切り者のテーマ」を選ぶと、梅津も立ってきて、
「精霊流しって知っていますか、とっても良いんですよ」
 と言って選曲ボタンを押した。
 博教が初めて聞いた、さだまさしの精霊流しは、しんみりとして物悲しいイントロだった。唄がはじまった。
 亡き恋人をしみじみと偲んでいる、心優しい若い女性の心情を歌った『精霊流し』は、博教の心の底に常に蟠っている無常観に触れた。一巻の終わり。一枚の絵のように。
 『精霊流し』を聞き終わった博教は、もうすっかり冷めて不味くなったアメリカンコーヒーを啜った。

 6年半もの間、獄の中で本の世界に浸っていた博教は、これからは虚構を離れて、娑婆の世界で再び現実を生き続けねばならないのだった。
しかし、現実こそが虚構なのが博教の世界だった。

 博教は、まずは体を鍛えることにした。
 獄中では就寝前に担当の目をかすめて、腕立て五十回、壁に足を支えての逆立ち腕立て二十回を日課としていた。
 獄を出た二日後の夜からマラソン好きの後輩に伴走してもらって、毎夜、市川、本八幡間を往復するジョギングを始めた。
 どんなに忙しくても毎夜、4キロを入っている石原慎太郎を心の底で意識した。
 しかし、それも八ヵ月程で止めてしまった。
 博教は再び太り始めた。それは自分が望んだことだった。

「オマエがよく言っているけど、象は象、豚は豚、サイはサイ、カバはカバ、皆、適正体重があるんだよ。俺も太ってるわけじゃないんですよ。俺は相撲をやってたから相撲の攻撃力がわかっているんですよ。相手に対して十分に威圧できる体重なんかもね。慎太郎さんが言うような広岡の体型じゃあ俺の能力は発揮できないだろ。いいかい百瀬さんは百瀬さんの体重がベストなんですよ。今はもう滅多にやんないけど、若い頃はまだ、突発的な生身の暴力のなかに身をおいているからね、痩せたままでいられないんだよ」

 ある日、博教は拳銃不法所持の際、麹町警察署の留置所で邂逅した、一力会会長、鍋島力哉を訪ねて堺大浜へ行った。
 鍋島氏とは九年ぶりに再会を果たした。
 その頃の鍋島氏は台湾から石を輸入する商売が大当たりし景気が良かった。
家に行ったら、9年前に訪ねた家は4階建てのビルになっていた。
 車はベンツとキャデラックでクルーザーも持っているとのことだった。
「モモちゃん、お願いがありますのや。今度アントニオ猪木、坂口征二、永源遥等と台湾の陸軍にプロレスを見せに行くんですわ。紋付持ってまっしゃろ。それ着て、坂口征二と坂口の後輩の大城大五郎が柔道の模範試合する時にレフェリーやってほしいんやけど、どないです」
 台湾の陸軍と警察学校の招待だったから、台湾の警察で模範演技するとのことだった。
 プロレスの興行を手掛けていた鍋島氏は新日本プロレスの永源遥と懇意にしており、自宅に当時人気絶頂であった400キロを超える双子のマクガイヤー兄弟を招いたりしていた。
 博教は当時、アントニオ猪木とは一面識もなかったが、坂口征二は赤坂の用心棒時代から知っていた。博教にとって台湾の台北市は懐かしい場所だから行ってみたかったが、半端な小遣いしか持って行けないので、この申し出を断った。

「俺らがラスベガスに行くんでもなんでもそうだけど、飛行機代がたとえばファーストクラスで行って80万円とするじゃない。小遣いは、あと200万円は持っていけるわけですよ。そうすると向こうで、たとえばアンディ・フグなんかと会ったときに『俺がご馳走してやるよ』っていうことができないと、行ったってつまらないじゃない。だから行かなかったの。自分の親父がそういう部分でいろいろ苦労してるのも見てたしね。男を売る稼業っていうか、そういう人たちって見栄の張り合いなんだよ。そういうことで行かなかったんだけど。で、鍋島さんが台湾から帰って来たら、向こうに450万円だか持ってったら全部使ったって言ってたね。プロレスの話は、もう一つあってね。出所して数ヶ月後には坂口征二が挨拶に来てくれた。『お小遣いとかそういうの大変でしょ? もしそういうことがあったら自分が話してプロレス一晩150万円で自分が出してあげます』と言ってくれた。俺はその話しに乗って、船橋で興業を打とうと思ったけど、話は頓挫したが、そのとき興行を打ってれば、俺は今頃、新日の百瀬になっていたね」
 

夏、博教は代々木の床屋「ナリオカ」で、市川高校の後輩、川村龍夫氏と再会を果たした。その後も、川村氏には、鳥越祭りを楽しむ会、出版パーティーなど、さまざまに協力してもらうようになった。

 1975年、35歳になった博教は、またしても石原慎太郎に関わり合うことになる。
 この年の4月、衆議院議員の石原慎太郎が現職の美濃部亮吉を向こうに廻して東京都知事選に出馬することが決定したのだ。
 石原慎太郎にとって最初の都知事選への挑戦だ。
 生来の祭り好きで暇を持て余していた博教は慎太郎の選挙の応援をすることにした。
 応援スタッフの青年部の役員として、表紙にマジックの太字で「石原慎太郎必勝ノート」と書いた大学ノートを抱え、日々、石原に投票してくれる人に著名してもらって歩いていた。

アントニオ猪木との出会い

 そんなある日、鍋島氏が東京へやってきた。堺で博教と話をしていた、台湾で開催したプロレス興行の後始末のため、新日本プロレスの事務所に行くのに博教も同行した。
 その前に一緒に表参道の「ロペ」へ入ったところ、目の前に絶世の美女がいたので大学ノートを見せながら、「都知事選、石原をよろしくお願いします」と頼んだ。
「石原さんの小説は読んでいますが、私、東京の人間ではありません」と美女は応えたが、後に、この美女が真野響子と分かった。
 南青山の新日本プロレスの事務所に入ると、アントニオ猪木がソファーに腰掛けていた。
 後に世間から「アントニオ猪木の隣の人」と呼ばれることになる博教だが、ここで初めて博教は猪木と邂逅した。

 翌年にはモハメッド・アリと戦うことになる猪木は異種格闘技戦を掲げて、ジャイアント馬場とは異なるストロングスタイルのプロレスを打ち立て、人気絶頂であった。
 が、尊大に振舞うこともなく、しかも相手に照れることもなかった。
 博教は、レスラーらしく、わざと強そうにしたりするところを、猪木がカッコつけていないところが気に入った。
 しかし、互いに心を開いた感は無かった。
「こいつは一筋縄ではいかない漢だ」と思った。
 後に知ることになるのだが、猪木と博教とは、血液型、誕生日が同じであった。

その後、猪木とはラテンクオーターでも会話を交わしたが、そこでも、まだ親しくなることはなかった。
 博教と猪木は、この日から14年後の1989年に田辺エージェンシーの副社長にまで登りつめていた、後輩の川村龍夫氏が仲介して、西麻布「キャンティー」で邂逅し、親しく話すようになった。

「猪木との出会いはこのあたりだよね。今やふたりで誕生会を一緒にやるほど親しくなるとは思わなかったよ。猪木と『白いブランコ』を一緒にカラオケで歌ってんんだからね、信じられねぇだろ。思い出すと、初対面のときから、ひとりの人間としても英雄としても様になる、品がある人だったね。特にこの頃は、体も猛獣のように締まっていたし、ピカピカしててカッくいいんですよ。モミアゲも伸ばしていてライオンみたいだったさ。俺のことをタニマチ筋だと思って安く距離を詰めてこないところも上品だったね」
 
と取材時点では答えていた。が、後に裏切り者と呼ぶようになるとは思っていなかった。

 ある日、石原慎太郎が参議員選挙へ初出馬した時の選挙参謀、飯島清と一緒に「浅利慶太を叱る会」に出席した。
この席で博教は、水割りを飲んでいた、詩人の山本健吉氏とツーショットで写真を頼らせてもらおうと申し出た。
 しかし、この文化勲章受草者はぷいと横を向いてしまった。
 が、14年後の『新潮』5月千号記念号に、山本健吉から「百瀬博教という詩人」で激賞されることになるのだ。

4月13日は東京都知事選挙の投票日であった。
マスコミは接戦と書き立てたが、最初から勝負は決まっていた。
 博教は、昭和43年に石原が参議院議員選挙に初めて出馬した時からの選挙参謀、飯島清から投票前に「今度の選挙は五十万票程度の差で負ける」と聞かされていた。
 そして、結果は美濃部が268万評、石原が233万評で、やはりその通りの数字が出て石原は勝てなかった。
 選挙期間を通して博教は、飯島清の票を読む才能を知り、飯島もまた博教の器量と教養を認めていた。
 選挙の後、赤坂の石原事務所を訪ねると、石原慎太郎が自らサイダーをコップに注いでくれながら「しかたがねえよ、全面的にバックアップするって言ってた政党や宗教団体が裏切ったんだからな」と言った。

 博教は都知事選が終ると熱中してやることがなくなった。

「慎太郎さんの都知事選との関わりはここからだけど、やっぱり最初はあんな人気者ですら、あんなしょぼくれた爺さんにかなわなかったんですよ。
でも飯島さんとの出会いは大きいね。中曽根さんのブレーンで前から知ってはいたけど、俺のことを好いてくれるようになった。マーケッティングとか社会心理学とか知らない世界を教えてくれたし、俺に無鉄砲ではなく計算ずくで立ち向かうことを教えてくれたんだよ、いろんな面倒を見てもらった飯島さんが早く亡くなったのはそれは残念だね」

獄から出て自由を得たが、博教はまだ何をやったら良いのかわからなかった。

つづく。


サポートありがとうございます。 執筆活動の糧にして頑張ります!