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42・ミスター・ライアー・大仁田厚

 邪道極まれり!!
 昨年10月、7度目の引退試合を終えたプロレスラー・大仁田厚が、2018年4月15日投開票の佐賀・神埼市長選に出馬した。
 今は選挙戦真っ只中。当選すれば政界復帰を果たす。
「またかよ!?」と思う人も多いことだろう。

 かく言うボクもプロレスラーの政治利用には眉を顰(ひそ)める派だ。
 しかし、そんなボクですら、この夜空に鈍い光を放つ大仁田という名の星屑の軌道に、これまで何度も引き寄せられ、巻き込まれてきた。

 そして、「佐賀」で出馬すると聞き及び27年前の在りし日を想起した。

 ボクが大仁田厚と初めて会ったのは、1991年8月16日の佐賀だ。
 鳥栖駅前の広大な操車場跡の空き地に4万人の観衆を集めたプロレスとロックの合同イベント『炎のバトル』開催前夜。
 翌日のトークコーナーに出演する高田文夫の鞄持ちとして同行した我々、浅草キッドも主催者による宴に招かれていた。
「おお、高田先生! 遠路はるばる、よくぞ来てくださったぁ! 是非こちらの上座へお座りください!!」

 酒を一滴も飲まない下戸の大仁田が、独特の大仰な言葉遣いで話す様は時代劇がかっていた。
「高田先生! ワシが天下を獲るのに何卒、お力添えを!」
 大の男が正座して畏(かしこ)まる姿は、まるで勝海舟と対峙する西郷隆盛のようだった。
 翌日、我々が4万人の前で余興としてアキラ100%風の踊りを「フリチン隊」の名で披露したのに続き、打ち上げ花火、メインイベントとして大仁田の電流爆破マッチが行われた。

 当時、ボクは大仁田厚率いるプロレス団体「FMW」に夢中だった。
 90年代初頭、UWFをきっかけに、プロレス界は格闘路線の真っ只中にあった。
 だが、プロレス引退からカムバックした大仁田は、デスマッチ路線という真逆のコンセプトを打ち出した。 
 やがて有刺鉄線や電流爆破を用いた禍々しさ満載のスタイルが話題を呼ぶ。
 醒めたリアリズムより、泥臭いフィクションでも熱くなりたいというファン心理をつき、全財産5万円から始まった極貧団体のサクセス・ストーリーと「涙のカリスマ」というキャラクターで、大仁田は一躍、時代の寵児になっていった。

 一方、我々もテレビ東京『浅草橋ヤング洋品店』のレギュラーに抜擢され、各界の奇人変人を捌(さば)く猛獣使いぶりが注目された。
 また〝プロレス大好き芸人〟の走りとしてバラエティ番組に出始めると、必然、大仁田と共演する機会が増えた。

 大仁田は人気絶頂の1995年に2度目の引退。が、わずか1年半であっさり復帰すると、タレント活動と並行して41歳で高校入学。
 2001年には明治大学に進学後、突如、政治の道を志し、参院選に出馬・初当選。政治活動を行いつつ、プロレス興行の集客のために2010年まで6回も引退と復帰を繰り返し、周囲を驚かせ、同時に辟易させた。

 それでも自称〝ミスター・ライアー〟として開き直り続けた。

 フェイクニュース流行りの今、この男のショーアップ、性根、商魂ぶりは、ある意味、時代を先取りしていた。
 大仁田厚の最盛期は2000年、メジャー団体・新日本プロレスへの挑戦だ。
 当時、引退していた長州力と1年8ヶ月かけて一騎打ちにこぎつけた。 
 当初は世間に冷笑されていたが、両者の橋渡し役を務めたテレビ朝日のアナウンサーに対する大仁田の恫喝ぶりが「大仁田劇場」と持て囃され、いつしかプロレス中継の目玉企画となっていった。

 あまり知られていないが、実はこの頃の大仁田とボクには接点がある。
我々がメイン司会を務めたCSのマイナー番組で、当時、大仁田と反目していた『週刊プロレス』元編集長のターザン山本に〝逆挑戦〟させる企画を実行。まだ無名の若手芸人だったマキタスポーツと東京ダイナマイトのハチミツ二郎にターザンからの挑戦状を持たせ、夜間高校に通っていた大仁田の下校時を狙い、校門前を襲撃、直訴したのだ。 

 正真正銘のアポなし企画とは言え、待っていたのは、大仁田からのハードな洗礼だった。
 「俺を馬鹿にしてるのか?」と2人を小突き廻し、「関係者を出せ!」と怒号をあげ、頬に強烈すぎるビンタを張った。
 そのビンタは、プロレスの一線を越えたビンタであった。
 芸人とプロレスラー。共に人前で身を晒す職業ではあるが、その境界線を「またぐ」ことを大仁田は、簡単には良しとしなかったのだろう。
 その後、大仁田とターザン山本は、本当に後楽園ホールで有刺鉄線デスマッチを戦った。

 そして、20年近い月日が流れた。
 昨年5月に大仁田の7度目の引退が発表されたが、そこに噛み付いたのが、芸人・東京ダイナマイトのハチミツ二郎だった。
 二郎は、もとを正せば、ボクの郷里、倉敷の後輩であり、東京ダイナマイトは浅草キッドの一番弟子だった。
 オフィス北野を退社する際、師弟関係を解消し、その後は芸人とプロレスラーを兼職。
 現在は吉本興業に所属し、漫才師としても劇場ではトリを務める大看板、名を成した。
 彼は大仁田への対戦を要望し、「僕が新人だった頃、浅草キッドの指示のもとのロケ企画に腹を立てた大仁田さんから殴る蹴るの暴行を受けた。次の日の朝まで痛みが残るような激しいものだった。新人の僕が、ジャンルは違えどプロは厳しいと叩き込まれた瞬間でもあった。けれども、やっぱり大仁田厚をぶん殴りたい。引退するということで、今、やらなきゃ気が済まないと思いました」と、その挑戦理由を語った。

 若き日の理不尽な扱いを記憶し、舞台=リングの上で、その遺恨を晴らすのが、芸人でありレスラーだ。

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