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49 古館伊知郎「人生の予告編」


「人生には予告編がある!」
ボクがこのフレーズを頻繁に使い始めたのは50歳を過ぎてからだ。

偶然の出会いは必然の証──。

 これを時間軸では「予告」と呼び、心理学的には「星座」、一般的には「運命」と言うのだろう。
 そして「共時性」と言うべきか、ボクと同様に、この一節を同じ意味で語る芸能界で最も能弁な語り部がいた。

「人生には予告編があるんだなって思うんだよ。ただ、その予告編が流れている時に、『これは10年先の予告だ!』って自覚がないんだな」

 2016年12月16日。
 古舘伊知郎は、かつて自分が司会を務めた『報道ステーション』と同時刻のラジオ番組で、こう語った。

 古舘は、その年の3月末で12年間、他の仕事を全て降りてまで専念していたキャスターの座を降りた。
 一時、引退説が流れたが、バラエティに帰還。
 そして、10月からニッポン放送で『古舘伊知郎のオールナイトニッポンGOLD』をスタートさせた。
 ボクは、2012年に上梓した『藝人春秋』で、古舘に一章を割き、あの過激実況を惜しむあまりに「このまま〝報道という駅〟を人生の終着駅に決め込むつもりなのか!」とまで挑発的に書いた。

 ゆえに〝バラエティ界のミッシングリンク〟の復帰を殊の外喜んだ。
 その日のラジオで古舘伊知郎は人生に於ける3度の「予告編」を語った。

 最初は小5の時の後楽園ホールでのプロレス初観戦の話。
 その日、アントニオ猪木がマイクで絶叫した「明日の川崎に来い!」を、リングサイドの自分の目を見て言われたと思い込んだ古舘少年だったが、小学生の身では如何ともし得なかった。
 ところが、後年、新人アナ研修で訪れた川崎市体育館で猪木へのインタビュー役を任される。
「猪木さん、『あの時、川崎に来い』って言いましたけど、今、来ましたよ!」と言おうとしたが、口をついた言葉は「猪木さん、朝何食べましたか?」だった……。
 猪木の「コーヒーとスパゲッティ」という返答に、若き古舘は二の句が継げなかったという。
 しかし、その後、新日本プロレスの過激な実況で一世を風靡することになるのだから、つまりは小5のときに「予告編」を見ているのだ。

 2度目は中学2年の時。
 友達と遊びに行った六本木で迷子になり、夜の路地から公園に抜け出て安堵しながら、鬱蒼とした木立を分け進んでいたところをガードマンに見つかり、つまみ出された。
 見上げれば「NET」のネオンサイン。
 木立はドラマの美術セットであった。
「ここがテレビ局かぁ」と子供心にうっすらと憧れを抱いた。 
 その後、22歳でNETのアナウンサー採用に受かった古舘は「テレビ朝日」に社名変更した1977年4月1日、かつて迷子になった時と同じ場所で行われた入社式に参加した──。
 と、その予告済みの運命を不思議そうに振り返る。

 最後は26歳の時。
 局アナとして閑職続きの折、知人に「遠い親戚に、家族で貴方の大ファンの歯医者さんが居るから会いに行って」と頼まれ、一人で杉並の住宅街にあるその一家の夕食にお呼ばれした。

 上品なご主人と奥さん、細面の中学生の息子から揃って「貴方は喋り手で出世する人だ」と激賞され「新興宗教の勧誘かな?」と思うほどの不思議な夜を過ごした。
 その翌日、雑誌の『宝島』で景山民夫が「古舘伊知郎アナウンサーは天才である」とのコラムが発表されるやいなや、すぐ『タモリ倶楽部』に出演が決まった。
 さらには、時同じくしてプロレスブーム到来。
〝古舘節〟全開の実況は、やがて一時代を築き、時流に乗って大ブレークしていく。

 そして、この話の伏線、回収の模様をラジオで語る。
 以下は、古舘実況で活字を聴いて欲しい。

 その後、30、40でフリーアナウンサーとして売れてからも、たまに『あの杉並の歯医者さんどうしてるかな?』と気にかけてて『あそこがオレの原点だった』と感謝していたんだ。
 しかし、50になると、その記憶があやふやになり『記憶は嘘をつくから自分の都合良く改竄しているのではないか? もしかしたら歯医者の家に行ってないのでは?』と不安になり『夢で見たものを補強しているかも?』と疑心暗鬼になった。
 それが60になると、赤ちゃん返りのように『絶対に行っている! あの家族に会いたい』と、ずっと願い続けていた。
 すると先週、都内の宿泊していたホテルでエレベーターに乗ろうとしたところ、すれ違うように出て行った家族連れで50代手前あたりのスラッとした男性が「あ、古舘さん……」って小さな声で呟いた。
 建前上ペコンとお辞儀したら、お辞儀を返し「あの古舘さんだよ」と子供たちにやさしく教えてあげていた。
 好印象を持ち乗り込んだエレベーターから眺めていたら男性が踵を返して振り返ったので、つい「写真ですか?」って聞いたところ、「写真じゃありません、憶えていらっしゃいませんか? 36年前の杉並の歯医者です」
 「エーッ! ってことはあなたは当時、中学生で……」
 「はい! 我々家族は古舘さんの大ファンで杉並の家に来てくれて……」
 言葉に詰まったよ。
「今の僕があるのは、あの時僕を盛り上げたご家族のおかげです。ずーっと頭の片隅にあったんです!」

 この奇跡的な再会は「チーーン」というエレベーターの無機質な閉音で、次の約束も交わさぬまま終了した。
「気にしていると会えるんだなぁ。頭の片隅にあるとビックリするような現実を手繰り寄せられるんだな」
 いつも軽妙で饒舌な古舘が夜空に語りかけるように神妙に語った。

 ボクが深夜のラジオに耳を欹て、ここまで何度も話に聞き入るのは、10代でビートたけしに熱中して以来、35年ぶりのことだ。
「古舘さんに、また会いたいな!」
 放送を聴きながら切に思った。

 1996年の年末、ボクが変装免許証で謹慎中だった時、高田文夫先生に呼び出され、台東区谷中のスナックで古舘と酒席を共にした。
「こういう時期もあるさ……沈むなよ」と、帰り際、店の前で抱きすくめられ、慰められた、あの夜のことは今も忘れられない。

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 その後、お仕事では何度も共演したが、2004年に『報道ステーション』が始まってからは一度も会うことはなかった。

 それから約半年後の2017年7月25日──。

いとうせいこうの仲立ちにより、古舘伊知郎と長野智子の4人で会食する機会を得た。 
 一時、古舘がライフワークと呼んでいた『古舘伊知郎 トーキングブルース』の圧倒的独り語り芸を3人で独占したかのような宴。

 そして、2次会、3次会を経て、気がつくと、南青山のBARで、ふたりきりになっていた。
 数時間に及ぶノンストップのお喋りに一瞬だけ古舘が唇を閉じた。
 ボクは一気呵成に切り込んだ。
「古舘さん、あの人生の予告編の話、今度はボクのバージョンも是非聞いて下さい!!」
                       (つづく)

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          イラスト・江口寿史

 古館伊知郎の人生の予告編 中編 妻との出会い。
 
 2017年7月25日──。

 古舘伊知郎との久々の再会を果たした夜。
 時を忘れて談ずると、気がつけば稀代の語り部とふたりきりで南青山の「BAR JADA」のカウンターに居た。

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