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『命懸けの虚構〜聞書・百瀬博教一代』#19

秋田の獄に暮らして三年四ヵ月過ぎた一日、開く筈のない時間に博教の入れられた独居房の扉が開いた。
「面会だ。東京から従弟の坂本好延さんが来てくれたぞ」
 博教は妹に絶対面会に来ないよう何度もハガキを出していたからだ。何事が起こったのだろうと思った。
 正座して本を読んでいた博教は白衣をきちんと着直して、まだ一度も行った事のない面会房のある棟に向かった。
 ニワトリ小屋のような面会室に入ると、錆びた金網の向うに、何と、この拳銃不法所持の事件の共犯の後藤清忠が坐っていた。
  奴がチンコロしたから博教は自由を奪われ獄へ落とされたのだ。
 後藤は静岡の獄に下獄したと聞いていた。が、それは博教が保釈逃亡する以前だから既に刑期を終えて出獄していたわけだ。

 後藤が口を切った。
「お兄さん、お久しぶりです」
 黒澤明監督『用心棒』の出演志願した事もある男だから堂々の役者振りだ。
「ああ、好延ちゃん、よく来てくれました」
後藤は博教の顔をしっかりと覗きこみ、博教の目の中に残っている怒りがどのくらいのものかを計っていた。
 博教に先輩風を吹かし、尊大だった後藤がこんな形で会いに来るとは、下獄以前の後藤がそんな発想をするとはとても思えなかった。
 そんな博教の心の動きを瞬時に捉えた後藤は
「お兄さん、先日家に後藤さんが来ました。これからもお兄さんと仲良くお付き合いしたいと何度も言っていました。僕が東京へ帰ったら、お兄さんがこれからも後藤さんと付き合ってやると返事してくれたと伝えたいんですが、いいですか」と言った。
 十分ほどの面会時間が終って独房に戻ると、いきなり扉が開いて区長が怒鳴った。

「おい百瀬。面会に来たのは従弟じゃないべ。お前の先輩の後藤だな。先刻は俺が居なくて面会をやらせちまったらしいが……」
 そう言うと抱えて来たファイルを目の前に開き、博教の写真と並んで貼ってある後藤の写真を指でトントンと叩いた。
「どうしても後藤と言わないのか。よし、それじゃあそういう事にしておこう」
 日頃温厚な区長だが、何度詰問しても博教が答えないと知るや、怒気を全身に表わしながら、荒々しく扉を閉めて立ち去った。
 後藤の裏切りを博教は長い間、許せなかったが、しかし、映画もどきの方法で面会のチャンスを掴んだ後藤と、六年振りに会えて喋れた事は痛快だった。

 後藤が面会に来た数日後、隣房の者が死んだ。
入浴の時一度一緒になった割箸みたいな躰の無期刑の男だった。
看病夫が運び出した棺はダンボール製だった。セロテープで留めた棺の蓋に旭影が当たっていた。看病夫が棺を運んで行く足音が屍体置場の方に消えると、あわただしかった廊下は普段通り凛と静かになった。

秋田では死に対していさぎよくない者に対して「命根性が汚い」と言うらしいが、この言葉を秋田の獄で聞いた時、ぐさりと博教の胸に刺った。
博教は、一刻も早く後藤のように早く自由になりたいと思った。

後藤の訪問は驚いたね、しかもスパイ映画みてぇな感じでお芝居しちゃってさ。「お兄さん」なんて言うから、こっちも笑いそうになったよ。後藤のことは許していませんよ。ただ獄に居てずーーっと本を読んでいると後藤のことを忘れていくんだよ。そりゃあ獄が居心地が悪ければ、もっと憎んだろうね。でも、本の中には、もっと悪い奴とか凶暴な奴とか憧れたり、尊敬したりする登場人物が出てくるだろう。だから奴の存在が薄れていくって感じかなー。

 昔から、博教は外国の小説は苦手だったが、獄の長い時間は、そんな小説も読ませた。
『白痴』は、昭和四十七年一月、秋田の獄の病舎の安静時間に、頭から蒲団をかぶって看守に見つからないようにして読んだ。
この方法で『アンナ・カレーニナ』、『罪と罰』等ロシア文学に触れ、レールモントフの詩や、プーシキンが街を歩きながら喰べたさくらんぼの種子をほき出していたエピソードを識った。

 こんな安静時間中の読書のお陰で、獄を出て十六年目、詩人の高橋睦郎氏に東京駅から新橋駅までの間の横須賀線の中で紹介してもらったロシア文学者木村浩教授とも、随分親しくお付き合いさせて戴くようになるとは思わなかった。
 
 1972年5月――。

博教は秋田から山形に移管された。
 博教は、私本三百冊の中から選んだ六十冊を持って移った。
 獄では官本と私本が月三冊読めた。
官本とは獄の図書館の本、私本とは家から送られた本や自分のお金で買った本のである。
 明治末年に建築されて隙間だらけだった木造の秋田市川尻の獄舎で、夏は蚊、冬は隙間風に大いに苦しめられて来たので、建って間もないという、美しい庭のある病院のような造りの山形の獄舎の立派さに驚いた。

 それだけではない。なにもかにも秋田の獄とは比べものにならなかった。
山形に移された夜、独房で喰べた丼いっぱいのスパゲッティ・ナポリタンの味にも感激した。
 カレー、コーンフラワーのてんぷら、軟骨入りシチュー。秋田の獄では見る事のなかった生玉子が月初めの朝食に必ず出された。カレーには臓もつが喰べきれないほど入っていた。正月でもないのにトンカツが出た。大きな精進揚も出てきた。
 博教にとって、一番の魅力は房に常時醤油が置かれていた事だった。
 納豆にたっぷりと醤油差しから醤油をかけて喰べながら、鼠の糞混じりの盛りきりのめしと不味いお菜の毎日だった秋田での暮しを思った。
 それでも、すっかり喰べ終ると、それまで忘れていたミルク紅茶、名古屋の金剛あられ、赤貝のにぎり等を思い出して切なかった。

「秋田とは全然違うんですよ。2階級昇進みたいなもんさ。今でも信じられないけど、苺ののっているショートケーキも出たんだよ。篤志家が寄贈してくれたらいしけど、生クリームが唇の端についたのを指で拭いて舐めた時の嬉しさは今も忘れられないね」

 ――寿司好きな百瀬さんと何度も同席したが、赤貝だけは必ず締めに食べていたのを思い出す。そしてどんなイタリア料理やフランス料理の高級店に出向いても、必ず持参した醤油を料理に振りかけるのには驚かされた。

 山形では、作業にも出ることにした。
 病舎を出て自主的に出役した研修工場で三週間働かされると、印刷工と写植工が仲良く作業している総員三十五名程の第一工場に配属された。
 第一工場は、高校の体育館を半分にしたほどの小さな工場であった。
 第二工場は木工、第三工場は溶接、第四工場は車の整備を教えるところだった。
 新入りの博教は昼食後、鈴木賢一工場長から全員に紹介され、解版係に回された。解版とはインテルで組まれた8ポや9ポの活字をインテルをはずし、平仮名、片仮名、漢字、パーレン、中黒と指でつまみ上げて選り分け、活字箱に戻す仕事だった。
 秋田の獄で長い年月、一日中独房で坐ってばかりいたから、足がすっかり萎え、休憩はあったが立ったままの解版作業は辛かった。
「今は六月だからいい。冬になってみろ、活字が凍っていて解版する指の先にぴたりと吸い付くんだ」解版の方法を教えてくれた、もうすぐ五十歳になるという男が言った。解版係はその男と博教の二人だけだった。
 並んで作業を続けながら、工場長の席から一番遠いという事に甘えて果てしなくお喋りした。

 山形での暮しも慣れると八月になり二度西瓜が出た。
「娑婆のより甘い」誰かが西瓜を噛りながら大声を出した翌日、博教は解版係から写植係に移された。
 ここで、博教は印字表を覚え、すっかり校正が出来るようになった。
 写植の機械スピカの前に一日坐れば、最低六千字は打たなくてはならなかった。何日やってもノルマを達成できない。印字技術の低かった博教を叱りもせず、「校正やってみろや」と言った鈴木工場長のお陰であった。

「刑務所の作業の話は安部(譲二)さんが散々、面白、可怪しく書いてきたから、俺はあまり書いてないだろ。あれは安倍さんの縄張りだと思ってんだよ。でも校正は山形で完全に覚えたよ。編集者に専門用語を言うと、なんでそこまで知ってんですか、って驚かれるけど、俺は不良だけに校正は旨いんだよ(笑)」

1973年、秋田の獄の独房で三年八カ月暮した博教は山形で33歳の誕生日を迎えた。読書に勤しむ代り映えの無い生活が続いていた。

 ある日、下獄して四年二カ月ぶりに、大勢の仲間と一緒に草刈りをした。
 肩に唐獅子の刺青をしている小太りの杉山が、土だらけの赤紫蘇を持ってやって来た。
「こんなもん見つけました」
「いいもの持って来てくれたな」
担当の目をかすめ、十人ほどの受刑者の見ている前で、葉も茎も全部喰べた。香ばしい匂いにうっとりする。日曜日の畳に出るコッペパン用のジャムを、お返しとして杉山にやった。

山形では、塀の中のソフトボールにも精を出した。そして刑務所内で月に2回行われる俳句会に欠員があり入会した。

 博教は独居房で交流の少なかった秋田に比べて、山形では社交的になっていた。

「塀の中のソフトボールも安倍さんが書いてるからね。滑稽な話は山ほどあるんだけどね。とにかく俺は何処へ行っても順応性はあるし、何時の間にか場の中心になるんですよ。秋田では社交する時間が惜しいほど読書に夢中になっていたからね。でも山形ではそういう時間も多かったね。そうなると区長には警戒されるんですよ。良からぬことを談合してるんじゃないかって、取り調べの時に言われたけど、俺は『生まれつき乾分を作りやすい体質』だからね。しょうがねぇよ。寄ってくるんだから」

――私は「生まれつき乾分を作りやすい体質」という表現と人を評する言葉を初めて聞いた。

 博教の出獄の時が近づいていた。 
 
 第4章  了

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