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Encounter in the sky

ヴァルター・ベンヤミンは『複製技術時代の芸術作品』において、時間と空間とが織り成した独特で一回性の現象が纏う雰囲気や存在感を〈アウラ〉と表現している。

それは仮に何かが模倣され今ここにあったとしても、実はオリジナルの本質を備えてはいないのだと解釈できるが、これは単に本物にはアウラが在るが複製には無いということではなく、複製が当たり前になっている・ありふれている世の中にあってはアウラという概念そのものが失われるということ、またかつて芸術作品が持つアウラは社会の伝統的な価値感によって保証・支持されていたがその価値観が破棄され複製技術が発展した”現代”(ベンヤミンが生きたのは20世紀だが、ここでは敢えて現代と表現する)では”大衆ウケ”さえすればひとつの作品として成立し得るという、ある意味では哀しい現実をも示しているかと思う。

大衆は往々にして、目の前にある作品が成った時代背景や作者の意図に気付かず、調べず、ただ単にそれ自体を己の知識レベルと境遇の域内において恣意的に消費するだけの存在だからである。

更にまた、現実主義者の目は、より一層厳しいものとなる。

それはオリジナルだろうがコピーだろうが、真作だろうが贋作だろうが、自分にとって都合が良いかどうか、利益をもたらすかどうかだけが評価の基準であり、無駄に有難がるということをしないからだ。

人生において受け得る富の範囲や総量は限られており、何より時間は有限だから、この考え方はひとつの正しさを主張し得るようにも思う。

日本絵画における伝統的な主流派と言えば、狩野派と琳派を挙げることができる。

この二派には、表現技法の違いはもとより集団形成の在り方において、決定的に異なる点がある。

それは、前者が血縁や師弟関係を主軸とした正統性或いは同時代性によって成り立っている一方で、後者は旧時代の作品から受けた影響を自らの作風に落とし込み発展的に継承するという意味で”私淑”によって成り立っているという違いである。

古代の儒学者・孟子は、儒教を本質的に理解するためには始祖である孔子に師事する必要があると考えたものの既に故人であり、それは到底叶い様がない願いだった。

その時の心境について「子は私(ひそ)かにこれを人よりうけて淑(よ)しとするなり」と語りこれが私淑の語源であるとされ、現代では、直接教えを受けてはいないが著作や作品などに触れる事で傾倒して師と仰ぐ、という意味で使用されている。

琳派はまさしくこの通り、”垂らし込み”と呼ばれる技法や大胆な意匠を凝らした作風などを私淑によって継承し続けており、その代表的なものとして空中における二鬼神の遭遇をドラマティックに描いた日本絵画の主要テーマとしての『風神雷神図屏風』が挙げられる。

このオリジナルと目されているのは京都・建仁寺が所蔵する17世紀の作品であり、かの俵屋宗達の手によるものとされる国宝である。

”よるものとされる”と表現したのは、この図屏風自体には一切の銘が施されていないからである。

琳派に連なる後世の絵師の中でも特に名の有る尾形光琳と酒井抱一はそれぞれ18世紀初と19世紀初に全く同じ構図でこのテーマに挑んでいるのだが、オリジナルが表現している迫力や雰囲気を彼らの作品から看取できるかどうか、という観点で敢えて言うならば、その挑戦も再現も、どちらも完全に失敗しているように思う。

では、その原作者・宗達の作品と前述した二者との違いがどこにあるのかというと、第一に場の拡がりの捉え方とスピード感の表現の違い、第二に状況演出の仕方としての視線の違いが挙げられるだろう。

まず第一の違いについて、オリジナルである宗達の作品では左上から滑空して来たであろう雷神の連鼓の一部がフレームアウトしていることからその向こうにある広大な空間が想起されるが、後世の二者のそれは図屏風というフレームに収めることを意識しており見る者が(創造的に)抱く場のスケールには大差が生じている。

また、滑空から急停止したことにより雷神の下肢は虚空に踏ん張るかたちになりその効果として黒雲が描かれているが、この描き方に関してオリジナルでは動から静へと体勢が急変した様が表現されている一方で、摸作である二者では黒雲は雷神が虚空に留まる足場としての役割を与えられているに過ぎないようである。

そして第二の違いである視線についてだが、場の右側からやって来た風神はおそらくは上方から突如として飛来した雷神の姿をいち早く認識しており、次いで雷神は急降下の途中で視界に入った何かを確認するために急停止している都合上その視線は未だ下方に向けられていることから、両者の視線は交わっていない。

他方、模倣である二者のそれでは視線がぶつかる様になっており、当初からフレーム内の所定の場所に風神雷神を相対する形で配置することを前提として描かれていることが窺える。

つまりは、宗達が描いたのは完全なるアクシデントとしての鬼神たちの遭遇であり、その場面をどうにか切り取ったような趣きが見て取れ、後世の二者が描いたのは一見すると宗達の完全な模倣ではあるが絵師の意図を読み解いたり作品が成った経緯や時代背景などを考察することを好む鑑賞者にとっては、似て非なるもの・物足りないもの、ということになりそうである。

では仮に、宗達と全く同じ素材・描き方で経年による風合いや手触りのようなものまでも忠実に再現した精巧な複製が目の前にあった場合にはどうだろうかと考える。

おそらく、複製であることを知らされない限りにおいてそれ自体は素晴らしいものとして鑑賞され、取り扱いについても緊張感を持って厳重に行われ、製作にあたってのコストや労力なども相応のものになることが予想される。これはこの図屏風に限らず、物質的な芸術作品全般の複製において同じようなことになるだろう。

このような時代において”オリジナル”として後世に残るような作品とはどのようなものなのかを考え出すと眩暈がするが、それでも、世界中でアナログ・デジタルの区別なく日々新しいもの、心を揺さぶられるもの、思わず目を奪われてしまうようなものは創造され続けているから、人間というのは私たちが思う以上に、まだまだ未知の可能性を秘めている生き物なのかもしれない。

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