徳の高い・寝そべり族をしよう🛏

鎌倉時代に末法が宣言されてから、約800年が経過したが
世の中は相変わらず混迷を深めている。

どのように令和時代を生き残っていくか
ヒントになるかもしれないことを書き記す。

徳の高い、とは何か?

よく私が言う「徳の高い」とはどのような概念かを
まずは説明しないといけない。

先に、一般的な意味についてAIに書いてもらった。

「徳」とは、人間に備わっている良き性質や、精神の
修養によって身についた優れた品性のことを指します。

「徳の高い人」とは、これらの徳を備えている人のことを
指します。「徳の高い」という言葉は
道徳的に優れているという意味でも使われます。

GoogleのAI Birdの回答を一部編集

しかし、道徳や品性など、AIで語られるような
社会的に優れた品位は廃れ、既に形骸化している。

例えば、完全に腐敗した葬式仏教などでは
「お葬式は150万でしろ!」だとか
「離檀料は700万円ほど掛かる!」だとか
おおよそ人道的ではないことが実際に言われている。

(出典:独立行政法人 国民生活センター)

そこで「私のFantiaでは、無料で徳が積める」
私が冗談っぽく言うので、笑ってくれる人も居るが
よくよく考えれば、徳は無料で積めるはずだ

(参考:とか言いながら有料プランでも徳は積めるように
なっている)

ブッダも「無財の七施」という例え話で明確に述べている。

(出典:天台宗)

徳の低いとは何か?

逆から考えれば分かりやすいかもしれない。
徳の低い、とは何だろうか?

ここでポイントなのは「社会から見て」という
客観的な指標ではなく「自分から見て」という
主観的な指標で良いということだ。

例えば、エロ画像などはそうではないだろうか?
自分から見て良いと思うものが、社会や他人から
同じように受け入れられることは、ほぼ無い。

政治家などもそうではないだろうか?
社会的には明らかにとんでもない人物でも
公職に就いているのであれば、選挙で当選できる程度に
票を入れてる人が必ず居るはずだ。

徳の指標は社会に存在しない

お気づきだろうか。
徳の高いという指標が仮にあるとするならば
人間の精神性にあるはずで、社会側には存在しない。

マナーやモラルと称されるものが
個々人の任意に任されているのはそのためである。
(箸の持ち方やご祝儀、本来の意味でのお布施、など)

つまり、あなたが「徳が高い」と思えば
マナー講師の入り込む隙などなく、それが正解なのである。

徳の高い、とは

以上を踏まえて「徳の高い」を私なりに書くと
以下のようになる。

人間の(自由)意志による決定に基づき、自身が幸せと感じる
ことについて、追求・表現する姿勢

すいかい

「それってあなたの感想ですよね?」と小学生に
言われそうだが、別にそれでいい。

自分の感想を否定せず追求・表現する姿勢こそが
「徳の高い」ということなのである。

(人間に自由意志がない派の人は適当に各自で文言を
置き換えておいてほしい)

徳の高い・寝そべりをしよう

例えば、親戚の集まりを想像してみてほしい。

  • あなたは訳あって無職だ

  • 働いている親戚のおじさんから
    あなたは、なじられている

社会性があり、徳があるのはどちらだろうか?
一般的には働いてるおじさんが
「社会性があり、徳が高い」とされている。

日本国では神聖な労働・納税をしている人こそが
道徳的な正義とされ、無職は人権がない扱いをされている。

なぜいま寝そべりなのか

前述した道徳的な正義が社会に存在する日本国では
氷河期世代に耐えがたい苦痛を与え、経済的にも
犠牲にして、いまだに放置していることは公然の事実だ。
もはや棄民世代と言っても差し支えない。

(参考:東洋経済新報社)

そんな事をしておきながら「持続可能な社会」だとか
「働き方改革」「子供への投資」など言われても
誰が信じるだろうか?

今こそ日本国憲法・13条に定める「幸福追求権」を
個々人で行使するべき時だ。

第十三条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

日本国憲法第十三条・衆議院HPより引用

徳の高い・寝そべり族になろう

とはいえ、デモや社会運動が流行る時代ではないし
そんな元気もない。やるだけ冷笑され叩かれ傷つき
無駄に終わるだろう。

そこで「徳の高い・寝そべり」である。
前段で述べた通り「徳の高い」とは主観的な
フリースタイルであるから、寝そべっていても
併存ができる。

寝そべり族によくある批判として「社会性がない」
「働け」「恥ずかしくないのか」「堕落する」など
口先だけで言う人々がいるが、これらは明確に否定できる。

(参考:冷笑についての記事)

令和の時代では、そのような根拠の薄い誹謗中傷や
ハラスメントは許されない。
親戚のたとえで言うなら、無職を人前でなじる方が
社会性がないし恥ずかしいし、Twitterで炎上するだろう。

もし現実の職場で同じようなことをやれば
パワーハラスメントで処分の対象になる時代は既に来ている

仮に、うるさい彼らの言う通りに働いたとしても
得るものは何もない。
正当な労働の対価なんて払って貰えるわけがないし
ほんの少しの現金さえも、税金や社会保険料などで
ごっそり回収され、どこかの年老いた上級国民のために
浪費されるだけだろう。

(参考:第一生命経済研究所)

更に言えば、そういうケチをつけるクレーマーは
何をしても納得せず、永遠と別のことで
ケチをつけ続けるだろう。

そして、誰もあなたに何の責任も負わない。
何ならクレーマー自身も不幸なままだろう。

そういう徳の低い生き方もあるが
私やあなたがそれをする必要は、もうない。

「堕落する」は、確かに通常の寝そべり族には耳が痛いが
「徳の高い」を持ってくることにより否定できる。
別に自身が不幸になることを目指してはいないのだ。

おわりに

怒りがコンテンツとして消費される令和の時代にこそ
喜怒哀楽を超えて、徳が高い・寝そべりの精神は
いかがだろうか?

その方が、人間が人間らしく生きていける気がする。

どうか、皆さんも「徳の高い・寝そべり」の
生き方を精神的な参考にしてみてほしい。

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