性器と子作りの行方を巡る戦い‐玉之浦の逢瀬
これは戦いって言っても何も不穏なもんでもないんです。ただそこに纏わる問題を放ったらかしにしておいても、望まぬ戦いにも繋がりかねないテーマです。性快楽と子作りや子育ての質などと争いの関係性全般について。
あるいは男女間の問題について。男女に対する子という特異点について。
僕がここに書き起こそうとしている戦いの内実というのは、新たに発生した問題や解決を保留にされ続けてきた問題の数々を、創世学(倫理情報工学)の見地から技術的にどう解決できるかという己の限界との戦いです。
同時に問題自体との戦いでもあり、それは要するに地球環境で現行して適用されている物理法則と有機生命との間で起きている不整合の現象そのものとの戦いです。
仮にその演算処理過程やそれに伴う感情や体調の揺らぎなどをトータルした生体波形は、群像バトルアニメのようにも変換できる図になっています。その世界観からすると「いつも戦い」です。
その変換図をそのまま少年・青年にウケやすいハイスピードバトル劇を何本でも描けそうなくらいには、疲弊しながら処理しています。裏返せばバトル映画のような刺激的なネタというのもそのような穏便な方法で調達できるものでもあるのです。
それこそが想像力や推理力などが重要視される理由であり「プロレスリングがプロと称される理由」です。演技に見えないように迫真に演技することで、避けなければならない本物の闘いは避けている。
もう一つの戦いのニュアンスもあります。端的に言えば広い意味でのセックスです。「どっちが先に惚れたか」とか「どっちが先に逝ったか」とか、そういう「ちょちょくり」に留まるもので本当に不穏なものではないです。
しかし大きな組織の舵取りを担い重責を負う社会的な関係図の中では、性快楽の原理的な仕掛けを武器として相手を罠にかけるハニートラップも、時と場合に応じてセキュリティ問題として深刻な戦略的警戒の対象になることがある。
何でもそうですが本来純粋に行為を楽しんだり関係を育んだりするために設計開発されたものを、社会や組織全体を巻き込むような派閥間闘争に利用されることが繰り返されていくと、その本義からどんどん遠ざかっていくんです。
結果論から見ればそのような狡賢さも一種の人の本能であり、自然な摂理の範疇と言えるものなのでしょう。ここではそれ自体の是非を問題にする気はありません。
ここで問題としたいのは、性器や性快楽の生理的導線などがツールとして存在している本義を忘れてしまったり、喧伝的に本義の認識を撹乱してしまうようなことです。
臨時の戦略的措置としてハニートラップ以外に取りうる手段がなかったというのであれば仕方ないですよ。それが倫理的最適解とも一致したやり方だったというなら尚の事。
そうであったとしても性や性器の本義が揺らぐことはないのです。揺らがせてはならないのです。それは自分のためにならないことです。この世に居る意味さえ失ってしまいますので。
さて、ここまではほんの基礎的な前口上です。僕の創世学コンテンツがこんな一般常識だけで片付くはずもないではありませんか!
もし僕が地球の今生で人生リアルRTAを試みるにあたって女性の身体で生まれるか男性の身体で生まれるかを事前に選べる条件にあったのだとすれば、少なくとも地球では女性の身体を選ぶはずはなかった。
最短効率で仕事に集中するには物理的に都合の悪い生理条件を知っていれば、そうなるのは当然です。だからといって女性が嫌いであるとか人格を否定しているわけではなく、男性として女性には至極当然に好意的です。
頭脳労働一つ取っても脳に栄養素や酸素などを運ぶには血液が必要であり、同時にそれらの要素を必要としているのは脳だけでなく身体全体がそうです。
月経のあるなしで鉄分の摂取量が変化するということは、月経のたびに脳だけでなく他の部分にも血をまわす必要が生じるということで、そのとき一時的に脳の活動も衰える。
単に妊娠出産のコストを引き受けているだけでなく、月経が伴うというコストも高齢に至るまで延々と続く。
第一線級のIT土方や作家など、朝から晩まで脳をフルで使い続け食事も簡易的に済ませるような仕事をしている人なら、尚の事そのことに信じ難いコストが生じているものと見なさずにはいられない。
かくしてその生理上のコストも機械で代替的に引き受けていくというカプセルベイビーの構想が優勢となっていく。
罪と罰の論法が旧くから存在し、月経に伴う生理が産むことの罪と罰の図で説明づけられている時点で、この世は原初の時点から終わりが見出されていた。
であるならば何のためのこの世界だったのかという話になる。それは原初の罪を理解し、そこからの解脱に至るまでの過程を理解し、未来に人類が到達する世界の仕組みの理由に納得できる素地を築くためだったと言える。
つまり古代の時点あるいは世界が創造される前の時点から、未来の高度文明の様子も確定していたものであると考えることに、仮説の妥当性が傾いていく。何のためか。学びのためとしか思えない。
対してスーパーマン・リターンズでは自然分娩の重要性が訴えられ、その原始世界の価値や有用性に改めて主張のメスが入れられるに至った。要するに「記憶の課題」なのです。
机上論で文献学習などから説明されてその時点で知識として吸収し納得できていたなら、わざわざこの世に生まれてこずとも問題は起きない。
しかしどうしてもそれに納得できなければ、原始世界に生まれ立ちそこで実感を伴う記憶を拾い集めてくる必要も生じる。かくしてこのような問答の数々は「全てひっくるめて現代神話」ともなってくる。
でなければいったい何があって「少年よ神話になれ」という歌詞が現世に詠われるというのか。
そこまで考え進めてこれば、同じように考えてこの世に生まれ立った者が最低でももう一人居てもおかしくはなく、僕が男性としてその一人であるとすれば、もう片方は女性であるはずでしょう。
ゼロからの記憶の積み重ねの検証となっていない限り、その試みの意味は限りなく薄れてしまうため、そう考えれば「あったはずの記憶を失っている方が自然」なのです。
それでも「何か大事なことを忘れているような」という感覚がこの生涯に伴い続けてきたのは、魂が覚えているからなのではないか、と。そこまでの目算をつけた辺りから「居るかもしれない約束の相手」を探すようになった。
困ったことに、その推論を前提として掲げ始めると今度は「約束の相手は私でーす」という「自称約束の人」が複数人登場しかねない。そうなってしまった時には、誰が真で誰が偽かを選り分けていくのも一苦労。
人口維持のために必要な出産数は一組の男女に二人。増やすなら三人、減らすなら一人か0人。寿命平均80歳として輪廻転生で1000年を過ごすこととなった場合、12回の人生を送らなければならない。
その間で自分だけが男性として生まれ相手だけが女性として生まれ、1000年の後に異世界もしくは完成形の世界に転生できるのだとした時、来世に至ってまで最愛のパートナーに自然分娩のコストを強いられるはずはない。
だから少なくともこの文脈において僕の口からは、来世は女性の身体に月経も妊娠出産の機能も付随しないと断言できる。
それを断言できなければ、本当に大切にしたかったことを来世でも大切にできないと断言できてしまうから。
「産むことにペナルティが存在しなければならない理由」を創世学的な道理に照らして答えるならば、それは「世界の健全な存続のためには生成による数値の膨張を無制限に許容してはならないから」です。
その生成数上限と数値上限の制御を確実に徹底できる構造さえ身体側ではなく世界側で代替できるのならば、いつまでも女性がその重みを引き受け続けなければならないわけでもない。
この一生で最後にすると言っても、何を取り逃がすかによってはまた来なければならなくなることも考えうる。たとえば親密な男女の間で交遊ツールとして有用な「性快楽が伴う器官」はどうなるのか。
その導入から推論の数々その結論までを説明するにはあまりに長大なものにもなりかねないので結論から言えば「神域の技術的にはどうとでもなる」と言えます。
肝心なことは「どうしたいか」です。それを自分一人で決めてしまっては「設計時点が独り善がりなマスターベーション」にしかならない!独り身の今のままではどうしたいかさえ自分では決めようがない!
記憶や実感に伝統的な様式美の付加価値を与えることで快楽の質をよりいっそう高めるということを考えるならば、尚更記憶構築の始点時点からの記憶の作り込みも欠かせない。
その作り込み如何ではナチュラルハイでキメセククラスの上質な快楽を再現することもできるでしょう。他にもちょんと触れるだけで気持ちのいい尻尾とか、そういうものさえ新たに創りようはあるのです。
ワクワクして未来への興奮を抑えきれませんか?同感です、来世が楽しみだ。しかし未だその時には早い。これでも飲んでいったん落ち着いてほしい。
現代の何が事態を難しくさせているかというのは、細分と調和の双方が加速的に進んだ結果として整理が追いつかなくなっているのです。仕分けに言い換えてもいい。
DNA配合に「複合形サンプルの縮小図」という試験的な試みがあるのだとすれば、上位互換となる世界ではその複合形も上位形式へと変換できなければならない。
二つの複合図から三つ四つの複合図ともなれば更に組み合わせのパターンが複雑になると同時に、並行して大分類から小分類・微分類へと属性分類が細かくなっていくとなればタスクが多すぎて捌ききれない。
であるからして手動で変換形式の確定していくのにも限界が伴うため、そのコストを対応可能圏内に収めるための自動変換の公式を確定できなければならない。それが確定すれば後のことはAIで対応できる。
極端な話をすれば、快楽信号のパターンさえ精密に解析の上で複写・変換できれば、カプセルで半永久的に生存可能な有機生命体の構造を伴う脳さえ機能していれば、仮想的な性器同士での接触だけでもセックスの性快楽は再現できるはずなのです。
だから脳さえあれば他はどんな形式でも得たいものは得られるということになる。肝要なことは、それを的確に再現しうるだけの物理の理解と実感サンプルを得ていることです。
ここから更に具体的に、創世学の通念として「性器などをどう扱っていくか」の話に移ります。この際には創世学から包み隠しておくべきこともほとんどない。「全て処理しなければならない」のですから。
神経が快感の刺激を受け取る瞬間の接触の段階、脳に刺激が快感の範疇に収まる加減のものであると判断される瞬間の段階、深奥の記憶・魂の領域下で望ましいものとして承認される段階、それぞれの階層を個別に捉えるとします。
脳に快感として刺激を送る方法は、必ずしも肉体的な末端の性器の神経経由でなくとも他に新たな方法を考案することは可能です。学術誌に示されたほんの小さな推論・結論から自身で類推するだけで想像に難くない話です。
古い記事の情報であり、詳細な研究報告のリソースも確認していませんが、尤度が高く有力な仮定に足るというだけで十分な情報です。
それらの事実に示されていることは、食事や性行為の快楽の結果を得ること自体には、必ずしも性器や食材を必要としない構造が実在しているということです。
一方で、人々が食事や料理の技術に求めているものは「味」ですよね。そのまま言葉通りに「味」を「結果の意味」に置き換えてもいい。「結果の意味」というのは過程の多様性や選択性を示しています。
多種多様な食材が存在し、それぞれの食材に異なる味を感じることが可能な身体条件。言い換えれば発端から結果に至るまでの過程に選択できるだけの豊富な種類が担保されている環境条件が地球にはある。
それらを全てが余計なものであると結論づけ、口から尻に至るまでの内臓器官や食材などを他の方法に代替できないまま全て廃してしまうと、意味のある過程の全てを消失してしまうことにもなりかねない。
要するに食事やセックスの事後に伴う「気持ちよかった・腹が満たされたという幸せの結果」と「いつもより新鮮で活発だった・家では作れない貴重な味だったという違いを知る喜びの結果」は別物であり両方必要なのです。
そこから更に飛躍して、子作りの在り方の課題にも今一度立ち返りましょう。
先ほどの意味や過程の重要性の論旨と同様に「どう生まれたか。誰と誰の間で、どのような関係下に、どのような行為から生まれたか」に、ただ生まれたという結果のみならず、より深い意味が伴うのです。
その意味の保有に、結果を保有していること以上の価値をいっそう担保するはたらきを期待することもできる。言わば地面にただ小屋をぽんと置くだけでなく、地中にまで支柱が固定された基礎の堅い価値強度になる。
より突き詰めて、自らを構成する肉体のDNAオリジンの構成の詳細は何であるか。そのことに特定的でない内は、数々の複合や変異を経てきたであろう自身の肉体が保有するDNAの意味も推し量れず、その真価も計り知れない。
要するに現時点での科学技術の通念上において尚も、地球の真価を決定づけるために必要な情報が出きっておらず、結論を出すには早いという状況なのです。
創世学では「どうであるかを問う学習」と同等に「どうしたいかを問う創造」も重んじられます。だから最低条件のバックアップとしては、情報や知識が失われても創れば復元できるということは言える。
しかし、何もかも全てを学習抜きに創造だけでゼロからこの環境構成に至るまでの知識を集積しようと思えば、果たして何年、何百年、何千年、何万年要するでしょう。
その悠久の時の間に、二度とこんな思いはしたくないというような失敗の数々がどれほど存在していたか。そんなことを全て改めてゼロから辿っていきたいかと聞かれたら、全くもってそんなことをしたくはない。
まあ痛覚遮断などが自由自在な神の身体でやるのと、人の身体で同じことをやろうとするのとでは全く感覚が異なるものかもしれませんが、とても人の身体でやって心が保つような物事ではありません、
だからまず、一つはっきりさせておきましょう。地球の存在やその過去、そこで培われてきた記憶自体を否定する必要はない。活かせるので。ただ「個人には荷が重いものまで個人が所有し続ける必要もない」という話です。
たとえ辛いことや苦しいことを自ら自己責任で引き受けるという覚悟を持って臨んだとしても、自分や血族の子どもたちや後世の人類のことを考えれば、誰かが真似をしてしまうかもしれない懸念も引っ掛かる。
それだけでなく、それが必要な柱であった以上は、たとえ誰からも見つかっていなかったとしても自身が抜けた後には誰かがその代わりとして自然再現する。
だから徐々にでも柔道や合気道のように快適な方へ軌道を変えていかなくてはならない。
ここまでの前提をもって、地球に適用されている物理法則の全てに対して限りなく100%に近い精密かつ膨大なデータを回収し、デジタル再現率100%もしくは創造的な値で補完したそれ以上の割合の再現率に到達したとすれば。
魔法のようなやり方で、地球で肉体を交えるのと同じかそれ以上の共感覚を伴う心地のいいセックスができたり、命を消費しない形式での料理や食事を再現できるようにもなる。
その次元の話にもなってこれば、性器を用いるも用いないも個々の選択に委ねられるという結論を導き出せる。伝統的な思い出や様式美を愛でる味を付加したいならば、あえて原始的なアバターやアクセサリを用いればいいと。
さしあたり世界を崩壊寸前にまで圧迫しかねない出生数の過剰増加を回避するなどの「生成数管理の課題」や、コスト許容範囲の上限ラインの把握及び制定などが課題となってくる。
それらのことが僕が創世学から提唱する将来的な地球と人類の救い方に繋がってきます。
まだ採りきれていないデータや安定性を確認しきれていない未開拓の相関などが最先端に残っているというのなら、滅びだなんだというのもまだ時期尚早な話となります。
ちなみに僕は痛いのは苦手で、病院とか痛いことばかりな施設なので、とてつもなく苦手意識があります。それも相対性の原理が相まって、速度が上がれば上がるほど微粒子との接触も致命的になる。
かくして心は最小限の有機生命構造で実現して、身体の方は無機構造体か電子情報体がいいかなと、少なくとも今の身体・心境からは思っています。その意向が後の余生で変わってくることがあるのかどうかは未明ですが。
ちなみにその「速度が上がれば上がるほど脆くなる」という図は、脳も同じで思考速度及び密度が上がれば上がるほど相対的に他の部分は無防備になるので、ほんの些細なことでも不安定になりやすくなります。
それは今後のタスクのノルマを考えればしばらく変わらないと思いますので、僕自身は孤独な生活が続く可能性も高い。それでもせめて皆には、大切な誰かと添い遂げていく一生を送ってもらいたいと想っています。
今世の自分は生涯地味で格好もつかないと内心思っている節があって、それはそれでいいかとも思い始めているのです。だからこそ、来世くらいは格好つけたいと思える節も生じてくる。
ともすれば、性器が身体に付随している形態でなくてもいいなと。漠然としながらも「光感応性交遊」の図を構想し始めていて、性器の交わりを変幻自在の魔法のような光操作に変換すると、格好はつきますよね。
むしろそれが恒常の世界で生まれ、それを基に世界観や価値観の常識を構築している存在からすれば、地球での性交はあまりに生々しく不格好にも見える。恥じらいだけがそのことに可愛げの味をもたらす救いかもしれない。
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