もし、シンギュラリティなるものが2025年にきたらどうなるのか、、

もし、シンギュラリティなるものが2025年にきたらどうなるのか、、
⇒ [何を幸せとして生活するのかをもう一度考え直す必要があると思う]
ここでいうシンギュラリティの定義は人間の知能を人工知能の知能が超えてしまうことで、人間が作る陳高知能よりもAIの作るAIの方が優れていたら、一気にその連鎖が広がり人間が研究する価値がなくなる。この問題点は人間よりも優れるAIは人間が作ることが前提としていたのに、AIをAIが作れるようになってしまったら完全に主導権がAIにわたる。人間の理解の範疇を超えるAIを作ってしまったら、最終制御装置なるものでも人間の理解の範疇を超える知識でそれをハックしてくるだろう。AIによって人間が支配される社会とはこういう社会であろう。例としては、人間が今制御している豚や養殖場にいる魚、牛や鶏、ペットなどがあげられるが今度はその家畜が人間となり、人間はAIによって制御される世の中が来るとしたら、、
人間が生き残る道は、AIにとって都合の良い動物にならなければいけない。豚や愛護兼、盲導犬などのように、、、
それか、野放しにされるか、、少なからずAIに牙を向く危険がある人間は淘汰されるであろう。

実際の例をあげると、人間が一番活発に知識を入れる、情報を取得する30年間の知識量にはある程度数字が出ていてその数字をAIが迫ってきていると言われている。取得できる情報量はとうに超えているのでおそらくここに含まれるであろう情報とは、文脈や表情、情勢やなんとなく、、などあいまいな情報を含めた話も含めての話だろう。
そうなると、勝てる勝てないの話でいけば完全にAIに軍配が上がる。動画や音楽、計算系はもちろんのこと。人間が心地よく聞くことのできる音楽をAIが理解して作成できるところまでは可能になった。人間の定義化が難しい言葉を理解してその状況に応じて最適化された命令を下した

もうするとしたらなんとなく知的生産的なもので欲求を満たすのではなく何も考えずに遊ぶ娯楽をするか、恋愛くらいなものでは、、知的生産・経済的ビジネスによる承認欲求、勝敗によるモノから生まれる感情はAIには勝てなくなる。いや、闘技場の世界かも、、AIによってフィールドを与えられてその中で人間だけが競って勝敗を決める世界。

たぶんだけど、いまものすごく時代の転換期に来てる気がする。
多分今まで見たいにテクノロジーが先に来て一部の人が使ってそれは大衆に流れてって感じだろうけど、、
多分気が付かないだけでもう支配されているのかも、、
本当に最先端というかどこから情報に触れるかで全然変わってきてしまうんだろうなと、、
また、その情報というかテクノロジーでさえもAIの進化のほう早くなったやったりして、
一番やばいのは、「テクノロジーが自分で進化しててそれが人間の速度を超えている」という命題
またこの進化もすべて知っている奴が進化させているのではなくて進化して試して問題点が見つかって改善してという一連のプロセスを踏んでいること。
 うーんと、つまり何がいいたいかって。
みんな平等に楽しくいきようってことなんだけどw  ⇒ 自分ができていなかったことだし今もできていないこと。。
馬鹿な人間を馬鹿にする時代は当の昔に終わっていて知識人・インテリ・文化人ともて話されていた時代ももう終わったよな。牛にも知能指数の高い低いはあるがそれはAIにとっては誤差のようなモノでありそれらみんな総じてAIに手の中で転がれて遊ばれる。馬鹿を馬鹿にする文化というか、、どんなに自分でものを考えて学習して相対的に知識が増えても、その知識もAIの中じゃ手も足も出ない。本当に賢い奴がすごくなくなってきている。 → かしこいやつらによって、
まずはどこまでいってもばかだと認めてみんなと楽しく過ごすのが一番なのかなw
結論ひどいけど、、とにかく何かを比較する時代は本当になくなってきている。だれかと誰かを比べて賢いとか優れているのか。年収が高いとか、、

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