20210303 蓮華王院三十三間堂
【2021年(令和三年)3月3日(水)蓮華王院三十三間堂御参拝】
御堂に足を踏み入れた途端、胸から湧き出る想いが込み上げてきた。
中央に御坐す千手観音坐像中尊様の御前にて、天津祝詞、善言讃詞を涙ながら奏上させて頂いた。
この現界をどう観察されているのだろうか。
何事も責めるのではなく受け止め、あらゆる事象の見えない部分を想像していきたい。
善言讃詞について思うところがあり、今回は「觀音勤行儀」も求めた。
御参拝後、境内を散策し、気になったところを撮影。
下の写真には光が入っていた。
石碑にも目を向けた。
どうして今まで気づかなかったのだろうと思う。
下の写真は読みやすいように加工した。
観音経と善言讃詞について、メシヤ様の御教え(御光話)を以下に掲載させて頂く。
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御光話録(発行年月日不明)
新道場早雲寮仮落成式 昭和二十三年八月一八日(水)
今日の仮落成式はどういうわけかと言うと、ふつう落成式はできあがってからするのが本当だが、わざわざまだ工事中に落成式をするのは神様は非常に順序をやかましく重んじられる。ここができれば熱海のほうもできやすくなる。箱根がまだなら熱海も着手できない。そこで箱根はできあがったという意味で仮落成式をやったわけです。熱海に新しく作るための一つの段階です。熱海のほうを先にしようとして去年あたりからいろいろとやってみたがどうしてもうまく行かない。なにかと故障がある。そこでこれは箱根を先にしなければまずいということが判ったためです。で、仮落成式を急いだんです。本当の落成式は来年になるでしょう。
観音様は仏であり光明如来も仏であるのに、それに神主の服をつけ祝詞を上げたりするのはちょっと変かもしれないが、観音様は菩薩から出世するのではなく、一時菩薩の位に衆生済度のため下げられたから、元の上の位にお戻りになるのであって、一段上の位が光明如来それから五六七大神になられる。いまは仏と神との中途です。善言讃詞は観音経を縮めたものです。この経はもとインドの言葉である梵語で書かれ、二千数百年前のインド人の生活に合っていた。ところが今日の日本人がこんな長ったらしいお経を上げていたんでは会社も遅刻だしクビになってしまいます。現代には現代に適応する方法でなければならない。それで善言讃詞を作ったのです。ところで日本の祭典は古来神の形式をとっていた。一三○○年前仏教が入って来たが、その前まではすべて神の形式であり、本来は祝詞であった。仏教のよい点を神式にしたのが善言讃詞なのです。この御軸は今日初めてかけた。昭和七年、いまから一六年前に画いたのですが、ずっとしまっておいたのです。白髪の観音様はこれだけです。上下のは四天王であり、周りの薄墨は夜の世界を表わしています。この御軸を今日ここにおかけするとは思いませんでした。神様のすることは深遠です。この建物の用材も終戦ごろ秋田の神社の神木であったのを買ったんです。運賃ともで石三〇〇円あまり・・・四〇〇円まで行かなかったんです。いまだったらとてもたいへんです。・・・今度は熱海に二、三千人入れる洋館を建てるんです。箱根は日本的、熱海は水で外国風にし大きくする。小田原には和風洋風をとり入れた総合的なもので、それで五六七となるのです。この敷地も六〇〇坪ですが、以前交渉して売ってくれと言ったときはぜんぜん応じなかったが、今度の財産税で手放すことになり、向こうから持ち込んで来たのです。今後分会や支部の家を見つけるのも無理をしないで時を待つのがよい。「果報は寝て待て」とはいい言葉です。果報はねって(練って)待てと言う人もあるがそうではない。つまり寝て待てとは忘れること、執着をなくしていることです。徳川家康の「鳴くまで待とうほととぎす」、あれがいいのです。信仰している人は神にお任せする考えになるから悠々としている。種を蒔き時を待つのが本当です。神様のことを人に教えても最初は信ぜず、 やがて向こうから求めてくることがある。これは蒔いた種が魂の中で育つんです。「あんな人に話をしても無駄だ」 などということはない。種を蒔いて時を待つことです。すべて人間はいままで「時」ということに関心がなかった。「時」くらい絶対力のものはない。これに逆らうから失敗したり苦しんだりするのです。まず時に従うこと、あとは我と執着をとることです。この三つを守れば常にうまく行くんです。天地惟神の大道というが、天地とは大自然であり、惟神とは神の御心のまにまにという意味です。私が以前病気治しをやっていたころ「先生はだれからそれを習ったのか」と尋ねられると「大自然から習った」と答えたものです。この手の光も火と水で光になり、やはり火水土です。浄化も大自然は火水土で行なわれているのです。私の先生は第一は大自然ですが、次の先生は病人です。実際病人を治していろいろ習ったわけです。・・・惟神の大道とは自然の道です。だから大森にいたころ、なにかの事が起き、それに対してよい考えのないときは「惟神にしておけ」とよく言ったものです。これが判らぬ人はあくまで自分の力でやろうとして苦しんでいるがそれは駄目です。人間の力の弱いことを知ることが肝腎です。ナポレオンは「自分の辞書には不可能という字はない」と言ったが、これは人間の弱さを知らなかったのです。だから最後はセント・ヘレナの孤島に流されてしまった。ヒトラーとか東条なんかもそういうほうだったんです。また自然を征服するなどとよく言うがこれくらい間違ったことはない。自然に従い自然と調和することが本当です。山を征服するなんて言うと山の天狗が怒って難に遭ったりするのです。昔は六根清浄と言って山の神の守護を願ったから事故も少なかった。山には山の神、海には海の神、すべて神が支配し守護するんですが、 いまどきこんなことを言うと原始的未開的と言われるが、そんなことを言う人がかえって原始的未開的以上に原始的なんです。
よく雨が降りますね。箱根へ私が来るときは必ず雨が降りますが、それも本に書いたように「火は水で燃え、水は火によって流動する」という意味があるのです。太陽は月の水気で燃え、月は太陽の光で輝くのです。今度の本にも書いたが、太陽の黒点はその呼吸であり一一年目ごとに大きくなっているのです。太陽はまた男であり月は女になる。これはいろいろ実例を上げればよく判るが、公開の席上ではよしておきましょう。西洋は麦であり東洋は米を主とするが、これも陰陽になっており、月が満ちたり欠けたりするのも呼吸です。黒点が大きくなるのは息をさかんに吐くのだからすべてのものが育ち、また太陽の精気が強くなるから浄化も強くなり、いろいろなことが起るのです。来月『信仰雜話』を出版するが信仰のない人でも判るように書いてある。在来の宗教は宗教一点張りでほかのことは説かなかったが、私のは千手観音式でいろんなものに手を出すのです。今度の本も学問、政治、文化、科学などを宗教を通して批判するのです。これでも判らぬ人は救われない人と思うのです。これはまあ小学読本です。次は『霊界叢談』で、現界と霊界との関係や神仏の存在などについてで中学読本に当たり、次の『神秘の扉』は大学程度です。
この教団に若い人が多いのは、観音教が現代に合い現代を指導する宗教だからです。既成宗教は何千年か前の方法で現代に追いつこうとしているからインテリには判らない。インテリに判らなければ現代を指導するわけには行きません。まあ自動車で行く者に「牛車は風流だ」とか、〔駕〕籠も乙(おつ)だとか言ったってだれも笑うだけです。私のほうは自動車より早い方法・・・まあ落ちない飛行機ですね。
以上が、メシヤ様の御教え(御光話)です。
・順序を重んじること
・執着をなくすこと
・「時」は絶対力
・大自然から習う
・自然に従い自然と調和すること
今の自分に大事なことをご教示頂けた。
また、先月より何度か目や耳にしていた「五秘仏観音」。
上記の御光話の中にもお話があり、驚きを隠せなかった。
惟神の精神で進ませて頂く。
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