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20211029 伊都能売の心で京都へ

【2021年10月29日(金) 平安郷、後白河天皇陵、三十三間堂 御参拝】

27~28日に箱根、熱海の御参拝を許され、29日最後は京都。
昨年10月の北海道定山渓御参拝を皮切りに、メシヤ様の聖地に東から西へ。
今回の聖地参拝が終わると、やっと九州の神社参拝が許されることをメッセージで頂いていた。ただただ惟神で進ませて頂く。
 
まずは平安郷へ。
大彌勒尊像の御前で祝詞奉誦途中、少し緑色とオレンジ色のような霊視があり、右側から吹き降ろし、また昇るような強い風があり神様、、、龍神様のように感じ涙が零れた。
 
御参拝後、右から7枚目のガラス戸上方に、神殿を思わせる跡が記されていることに気が付く。拭き後にしては不自然だ。
 
不思議なものを拝見させて頂いたな、と考えながら帰る方向に歩を進めると、春秋庵の敷地内にある石に赤とんぼがフッと降りた。
風に吹かれ、一度石から離れるが、またすぐその石に降りたのだ。

どこかでこの光景を見たような気がしていたが、すぐに思い出した。
昨年、北海道の定山渓で御参拝後、敷地内から出る時に、石に赤とんぼが止まっていたのだ。
(下写真、昨年の北海道定山渓にて)

『一つ二つ三つアンテナに蜻蛉(せいれい)のとまりてうごかず秋空の下』
(メシヤ様詩歌 武蔵野の秋 昭和六年十月二十日)

岡田茂吉美術館にて、以下の御文字等を拝見。
・「金龍」昭和24年
・「世界一家」昭和23年
・「無碍光」昭和23年
・描画「楊柳観音」昭和20年
・「妙智之光」昭和23年
・「天国」昭和23年
・描画「蓮華観音」昭和12年
・「清流」
・描画「富士」昭和初期
 
今回の御参拝の想念でもあった、伊都能売の心を日本から世界へ、地球統一。
全て繋がっていることに感極まる。

次に、後白河天皇御陵と法住寺へ。
御奉告と引き続きお力添え頂きたい旨御参拝させて頂く。
御朱印の墨はどちらも金粉入りだった。

最後は三十三間堂へ。
祝詞奉誦をさせて頂くと、目に涙が溜まる。
 
青目尊像にも想念で御参拝させて頂くと、白毫が青緑色のように見えた。
白毫についての質問にメシヤ様の御言葉を以下に掲載致します。
 
御光話録十二号(昭和二十四年六月二十三日)
 
―――仏像の眉間の「ほくろ」にはなにか意味があるのでございましょうか。
 
あれは白毫っていうんですよ。人間で一番大事な所は眉毛の上の所で、ここを天帝というんですが、神様の霊線はここから通じるのです。だから白毫っていうのはその印ですね。
 

以上がメシヤ様の御言葉です。
 
三十三間堂境内にある太閤塀の写真を撮ると光が入った。

どこか気になり、このnote を纏める時に調べると、西宮神社の大練塀、熱田神宮の信長塀は日本三大土塀に数えられているとのこと。
 
熱田神宮に御参拝した際にも、写真を撮っていた。
(下写真2018年12月22日撮影)

いずれ、西宮神社にもご縁があるかもしれないと考えた。
 
以下にメシヤ様の御教えを掲載致します。
 
昭和二十五年九月二十一日
地上天国出来るまで
 
 本教唯一の事業である地上天国建設に就て、最初からの事をかいてみるが、其模型だけ造るにしても、容易なものではない。此様なものを造るという事は、外国は知らないが日本では殆んど例がないといってもよかろう。私自身としても、希望だけは持っていたが、実行の段になると、いつも躊躇逡巡(ちゅうちょしゅんじゅん)した事である。処が、神様の方ではどうしても私に造らせようとなさるのである。之は種々の奇蹟を見せらるると共に、凡(すべ)ての事情がそうしなければならないような、段取りになってくるので、段々私の考えも変って来てどうやら自信がつき機会を待っていた、それが昭和十八年頃であった。すると彼(か)の太平洋戦争が段々激しくなって来たので、東京も空襲の危険があるばかりか、そうなっては出来なくなる、という訳で移転するの止むなきに到った。そこで気が付いたのは愈々(いよいよ)前述の時期が来たのだ、という訳で先(ま)ず箱根に狙いをつけた。それは私は余程以前から、箱根と熱海が非常に好きだからである。
 然(しか)し箱根なら、強羅に限ると思ったので、強羅を探させた処、恰(あたか)もよし、故藤山雷太氏の別荘が売物というので、早速行ってみたが、非常に気に入ったので、見た翌日購入の約束をしたのである。此家屋は大分古いが、寔(まこと)に申分がなく、土地は六百余坪、家屋は百坪位、入口は巽(たつみ)にあたり自然石の階段を十数間上りつめ、玄関に上るや、三段の階段あり、それを上り広い廊下を屈折すると、突当りに又八段の階段があり、それを登ると座敷は、御神前に相応しい広間である。四方の眺望は実に風光明媚なる事、箱根随一であろう。又此家は、家相からいっても非常によい。巽の入口は最もよく、門から爪先上りになっており、玄関から広間に至るまで、前述の如く階段が二箇所もあり、又左の方が日本間、分れて右の方が洋間になっている。之は鶴翼の形と言って最もいいのである。而も、洋間のつくりは船の形になっており、之も波を切って進むという意味で、何から何まで理想的である。特筆すべきは、家全体が岩の上に建っていて、祝詞にある下津磐根に宮柱太しき建てというのは之であろう。全く神の家として相応しく、前から神様が用意されたものである事は、よく判るのである。
 そうして、此館を神山荘と名付けた。というのは背後に箱根最高の山である神山があるからで、其前一段低い山が早雲山である。神山荘へ移るや、隣地約二千坪の土地を登山電鉄会社から買いとった。此地は二十数年前電鉄が作った日本公園という小公園であったそうで、貸別荘が数軒点々としてあるが、別荘とは名ばかりで、腐朽住むに堪えない程である。此辺一帯長い間手を入れなかったので、八重葎(むぐら)生い繁り、昼尚暗く道さえ定かには判らない程である。無論平地などある筈もないが、此小公園の中央部に私は離家を一軒建てたいと思い、凹凸の地形を整地して、漸(ようや)く三十余坪の平地が作られた。当時十五坪以上は建てられなかったので、十五坪の家を建てようとしたが、何しろ戦争酣(たけなわ)なる頃とて、材木を手に入れる事も出来ない。処が、都合のいい事には数年前東京の宝山荘の庭園内に離れを建てるべく、木材の上等品を集め、建前するばかりになっていたのが、訴訟事件の為、裁判所から建築停止命令を受けたので、そのままになっていたのをフト気がつき、恰度(ちょうど)いいと想ったが、当時は民間のトラックは駄目だったので困っていた処、海軍に関係のある信者が之を聞き、搬出してくれたのである。愈々(いよいよ)建築に取掛り三分の一位出来た時、空襲が愈々激しくなり、職人に食わせる飯米さえ手に入れる事が出来なく なったので、工事を一時中止の止むなきに至った。すると不思議なるかな、突如として一信者が、白米六俵をトラックに積んで来て寄贈されたのである。私はハハア神様は工事を中止してはいけないという思召しだなと思って、工事は休む事なくそのまま続行し、二十一年八月出来上ったのが今の観山亭である。
 処が、二十年八月十五日、戦争の幕が閉じるや、私は大きな家を建てたいと思い、翌九月部下に命じて、秋田県に遣わし、杉材千石を買付けさせた。其頃はまだ安い時分で、石三百円であった、それは神社の立木、五十余本である。すると神仙郷の一段低い処、六百余坪を売るというのですぐさま購入したが、此処は前から非常に欲しかったので、大いに喜んだのである。手に入れるや此所へ神殿を建てるべく、斜面を整地し平坦な土地数百坪が出来たので、建築に取掛ろうとした時、突如某氏の紹介で、現代日本に於る建築設計界の、第一人者ともいうべき美術学校教授、吉田五十八氏が来たのである(氏は現在歌舞伎座の設計担当者)。話合ってみると頭脳明析、私の意見とよく合うので、全く神様が寄越してくれたと思った。此様に資材と言い、土地と言い、設計家といい、必要なものは必要な時に、チャンと神様は遺憾なく整えてくれるという訳で、何から何まで奇蹟の連続である。此建物が今度名を改めた日光殿である。
 その頃、此強羅の神苑を神仙郷と名づけたのである。建物としては最初買入れた神山荘を初め、次に出来たのが観山亭で、此家は私の住居に宛てていたが、余り狭いので今年建増しをした、此家は神仙郷の恰度中央に位していて、三方山に囲まれ眺めは非常によいので、右の名を付けたのである。その下方低い平地に建てた茶席は、山月庵といい、之も今年出来上ったもので、之は有名な木村清兵衛という茶大工が、心血を注ぎ三年掛かりで完成したものである。其の横に萩の道を作り、其処に記念として建てた小家屋を萩の家と名づけた。此萩の家に就ての一挿話をかいてみるが、今から二十数年前、此処が日本公園であった頃、数軒の貸別荘があったが、私は其以前から強羅が非常に好きなので、是非一遍住んでみたいと思い、貸別荘の中一軒を借りて、一夏住んだ事があるので、其時の追憶忘れ難く、其貸別荘を修繕したのが右の萩の家である。萩の家の前の道を稍々(やや)上ると、岩石を遇(あしら)って竹林を造ったが、之は支那(シナ)風で、仙境に遊ぶ思いがするといって、観る人からよく賞められるのである。そこから石の階段を数段上ると、稍々広い敷地がある。そこへ美術館を建てるべく、目下整地の土工中である。
 いつか一遍かいた事であるが、此神苑は昔から誰も試みた事のない、新機軸的のもので、神命のまま造るのであるから、神の芸術といってもよかろう。狙い所は、自然の山水美と人工的庭園美とをよく調和させた、一個の芸術品を生み出そうとするのである。それに対し、錦上花を添える意味で、右の如く美術館を計画したのである。之は自然の山水美と人工的庭園美だけでは物足りないという訳で、どうしても日本独特の美術品を展示しなければ、真のパラダイスとは思えないからである。今一つの目的は、来るべき将来、観光外客が箱根へ遊覧に来た時、此神仙郷を観覧させるとしたら、日本美術紹介に如何に大なる貢献をするかを考え、それを具体化したものである。茶室も勿論その意味である。之によって日本人が、如何に芸術に対する深い理解と、高い審美眼と、優れた技能を有しているかという事を、世界的に知らせたいからであり、此事が国策上の一役を荷(にな)う所以(ゆえん)とも思うからである。
 茲で、神仙郷に就ての沿革や諸々の事をかいてみょう。先ず、神苑の小高い処に立って眺むる時、まなかいには明神、明星の両嶽が青々としてなだらかな曲線を描き、金時から乙女峠へ連なっており、箱根特有の山容のおだやかさは、心を和めずにはおくまい。明神が左の片袖とすれば、右の片袖は浅間山である。両神の間稍々展(ひら)けたる処、遥か霞の奥に湖と見紛うばかり、淡々たる海原が見える。之はいう迄もなく、相模湾の小田原寄りで、晴れたる時は、三浦半島が一条の一線を描いている。其少し上方一線を画している地平線に、長々浮んでいる模糊たる山並は安房半島で、鋸山の特異なギザギザもよく見える。振り向いてみれば、浅間山は椀を伏せたような山で、遠く早雲山まで続いている。それを圧するような大きな山は、ハイキングで名高い駒ケ嶽である。遠望はその位にしておいて、イザ之より庭園を彷う事にしよう。ここは早雲山の麓になっているから、後を見上げれば早雲山は庭内の山としか思えない程指呼の間にある。庭園内到る処、巨巌怪石、面白く其色、形、一つとして同種のものはなく、ここにも神の技巧を見出すのである。而も観山亭の西南の方角を囲んで、丈余の巨巌が立ち並んでいて、箱根特有の神山颪(おろし)を防いでいるのも奇妙である。特に玄関を隠すが如く屹立(きつりつ)せる巨巌は、魔を除けるという地曳岩とも思える。
 そうして特記すべき事は、箱根全山の内、最も巌石の多いのは強羅であり、強羅の中央部に位する、吾が神仙郷は巌石の集中地点ともいえる。此辺り地を掘れば、巨巌累々として底知れずである。処が、一丁位隔てた先は土ばかりで、殆んど岩石を見ないのであるから不思議というより外はない。而も岩石の種類は数限りなくあるから、庭園を作るとしたらお好み次第である。先ずその中の主なる種類といえば、一は灰色で鋭角のある頗る硬質であり、二は青黒味かかった灰色の硬度が稍々低い、皺や刻みが多いのは流下の際無数の衝撃に遭った為であろう。三は赤色黒木風の溶岩的のもので、四は褐鉄色の多角的な硬質のものである。何れも早雲山爆発の際流下したもので、此あたりに集積されたのは勿論である。此時の噴火は、ガス噴出により、地殻の岩盤が爆破されたもので、所謂、爆裂火山である。
 面白い事には、此時の噴火によって、相当量の火山灰が降下し、堆積した痕跡がある。というのは、数丁下の宮城野村に、今でも土を掘ると、高さ二、三十尺位と思える、杉の巨木が埋っており、長い歳月を経て今は神代杉になっている。以前は土地の百姓などが、それを掘出して、相当の利益を得たという事である。これでみると、火山灰の積層は、数十尺に及んだ事は明かである。最も大きな杉は、直径六尺に及んでおり私も見た事がある。その時の噴火口の跡は、早雲山を見上げると、中央部が陥没しており、赤膚になっているからよく判るのである。大湧谷の温泉も、その時出来たものであろう。ここから湧く湯が強羅の温泉である。私は以前、早雲山から神山、駒ケ嶽辺を跋渉(ばっしょう)した事があるが、全山灌木 地帯で、巨木は全然見当らないにみて、噴火はそれ程、古い時代でなかった事が肯れる。というのは、此火山灰には硫黄分が含まれているからである。大体、箱根全山は余り巨木をみないのは、相当遠方まで火山灰が降った為であろう。
 そうして話は戻るが、神苑の一石、一木、一草たりとも、皆私の指示によらぬものはない。面白い事にはこういう石が欲しいと思うと、必ずその付近にあるか、その辺を掘れば出てくる。之によってみても、神は何万年以前、岩盤が造られ、或程度に硬化するや、噴火を起し、適当の大きさに破砕し、神仙郷を中心として流下させたもので、今日私に指示を与えつつ、庭園を神の思うがままに造らせておられる事は、実によく判るのである。此事だけに見ても、私が常にいう処の、神は私を機関として、地上天国を造らしむるという事の神意は余りにも明かである。又木や草、花卉にしても必要なものだけは誰かが必ず持ってくるか、付近の植木屋か、別荘の庭などにあって、それを売りたいと言ってくる。実に奇奇妙々である。よく世間で少し大きい事や難しい事などやろうとする場合、苦心惨澹するというが、私にはそういう事は殆んどない。前述の通り、欲しいものや、要るものは、自然に集ってくるからである。金銭なども右と同様、必要なだけは必ず入ってくるから心配など些かもない。勿論、足りない事もないが多すぎる事もない。恰度よい位である。曩(さき)に述べた通り、私が一歩から始めたのは、昭和十九年の五月からであるから、まだ僅々六年にしかならない。その間戦争の邪魔などがあったに拘わらず、世間から問題にされたり、馬鹿に大きく扱われたりするのは無理もないが、何しろ熱海箱根の地上天国造営の現地を見れば、短期間の仕事とは、到底思えない程であるからである。という事は、前述の如く、一切、神が指示されるまま、其通り実行している以上、蹉跌(さてつ)や破綻などある筈がない。凡て順調に進むからである。
 茲で一つの奇蹟をかかない訳にはゆかない。それは今日迄六年の間巨巌大石を移動し配置する場合、 一人の死人も怪我人もなかった事である。大きいのになると、直径十尺に及び、目方も二万貫以上のものもあるのであり、それに携わる専門家の言によるも、経験上、此位の工事になると、何人かの死人が出たり、多くの怪我人が出たりするのが当り前で、此工事の如きは只々驚くの外はないといつも言うのである。彼等も遂に人間業ではない事に気がつき、神の実在を信じ、私のやっている経綸も認識されたと見え、今日は一人残らず入信したのである。
 以上は最初から今日迄の経緯を大体かいたつもりであるが、現在美術館を除き其の他は、殆んど完成の域に達したので、今回その落成式を秋季大祭に兼ね行おうとするのである。此祭典は九月二十一日から二十七日迄、一週間、各会順繰に、執り行われるのであるが、実は三日間位に切り詰めたいとは思ったが、何しろ日光殿では狭過ぎるので、庭園の方へ仮に張出しを作る事にしたが、それでもまだ足りそうもないので、一週間に引延すの止むなき事になったのである。そうして祭典の外に、余興として七日間を通じて、毎日人も番組も違え、一流の芸能人を招いたので、大いに天国気分を満喫させようとの企画である。それは、私がいつもいう地上天国とは芸術の世界であるから、今迄述べたような天然美、人工美の外に、歌舞音曲の如き耳目を楽しませるべき芸能もなくては、完璧とはいえないからである。以 上小規模乍ら、地上天国の模型建設に就ての経緯をかいたのであるが、要するに今度の祭典はその一歩を踏み出す記念すべき、頗(すこぶ)る重大なる慶事である事を告示するのである。
 
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