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巡る 回る 破壊と再生

約2年半ほど前、私にとって衝撃のニュースが耳に入ってきた。実家のすぐ近くにある、子どもの頃は毎日入って格好の遊びの場であった山が造成されて宅地になる、ということだ。あまりにもいろんな想いがあふれて言語化できず、それから1年くらい温め続けて、それからようやく自分のFacebookに投稿した。そしてそれが市の広報SNSに掲載いただくこととなった。
https://www.facebook.com/search/top?q=%E3%82%B0%E3%83%83%E3%83%89%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%82%AF%E3%83%AB%E3%81%84%E3%81%93%E3%81%BE%E3%80%80%E5%9B%B3%E6%9B%B8

失われていく山の一角にある古びた建物。私はこの方50年ほどずっと市の土地と建物と思っていたものが、実は私有地に建っていた、私設の寄り合いの場所であったことをこの頃に知る。
そしてこの投稿をみた方が、SNSをしていないお母様に見せられたところ、この投稿の中で図書室を開かれていたご本人さまで、市役所の方にご連絡をしてくださった。

ご縁、とは不思議なもので、街の写真をたくさん撮っているココちゃんと私はその方、平井さんのお家にお邪魔をさせていただく運びとなった。

当時、市内に図書館がなかったため、県立図書館から週一回トラックで運ばれる図書と寄贈された本を並べて図書室を開かれていたそう。その頃地域にまだたくさんあった田んぼの水利組合の寄り合い場所として使われていた場所だが、窓が外れるようなことがあって危ないからとその場所が使えなくなるまでの数年の間だけこの場所でされていたことを知る。運営に携わっていた人の中に同級生のお母さまたちがいたことがわかったり、私の母のことも覚えていてくださり協力的だったと教えてもらい涙がこぼれたりした。

子どもの人数、どんな絵本の読み聞かせをしたか、当番は誰で、どんな気づきがあったかなどを詳細に記録されたノートを今も保管されていて、そして数枚の図書カードがノートに挟まれ残っていた。この中に私の名前があったりして…なんて冗談を言いながらめくっていったところ…ありました、本当に私の名前が。

リアルなロウソクの灯のもとでされていた読み聞かせ。これは書いて覚えて入念に準備をした上で読み聞かせをしてくださっていたことをノートから知る。何人もの大人が地域の子どものために、時間も労力もたくさんかけて見守られていたことを40年という年月を過ぎて知るのだった。

平井さんの声掛けで当時一緒に運営してくださっていた方々にもお会いできた。

そして、この投稿にコメントをくれたのが、ちょうどその時期古民家を再生して、MITERIを作ろうとしていたダダさん。解体される材木再利用できたらいいのにね、という話からダメ元で連絡してみよう!と思いつく。いや、マジでこの時の私の行動力を大絶賛したい笑

土地の持ち主も知らないし、もはやこの近辺の住人でもないのに、とりあえず工事が始まるらしい、という日に現場に向かってみて、敷地の中に入っていった軽トラの人に声をかけて聞いてみる、というガッツ。そしてそれがたまたま地主さんだったという幸運。でも、地主さん自体もすでに売却しているので勝手に許可を出すことも出来ない、と返事を受け、もしも可能であれば解体をする前にせめて建物の中を見せてもらいたいと思っているという事を業者さんに話してもらうことになる。

返事がなかなか来なかったので、まあ、やっぱりだめだよね、と諦めていた矢先にOKの電話を頂く。まーじーでー?!の驚きだったが、このご縁を大切にしたく、一緒に見守り写真を撮ってくれてる宣伝部仲間のココちゃん、ダダさんたちと日時をすり合わせして、そして一緒に中を見せてもらい、そして建具や机などなど頂くことになる。そして一気にがさっと解体した方が仕事としては楽であろうに、柱なども解体時に分解して頂くことも許可してもらう。


ユンボでガシャンと壊して終わってしまっていただろう建物が、丁寧に一つ一つ吟味して、持ち出し、人力で1枚、1枚運び出して次の形になる順番を待ってもらうことになった廃材と呼ぶには愛おしくなった材木や建具たち。

この一連の動きの中で私は山がなくなること、思い出の建物がなくなることに対して大きな気持ちの変化が起きた。それまでマイナスの感情で受け止めていた事象に対して、何年か先にこの地に移り住んでくるであろう人々、子どもたちに思いを馳せ、そしてそこに新しくプラスの文化が築かれていくことに対する希望を持てるようになったのだ。1年ほど、ずっと肚の底にあった言葉にならない『哀しみ』が昇華されたことに私自身が一番驚いた。

私の中の感傷的な思いを投稿しただけに過ぎなかったのが、それを起点としてこんなに多くの人が動いていることに感動した。そして40年ほど前に図書室がないから作りましょうと動かれた方の気持ちやその当時に地域の子どものために動いてくださっていた大人の働きとそれらが間違いなく今の自分の一部を作っていることを実感した。そして今、まさにそれがまた次の世代につながっていくだろうという漠然としながらも確信を感じたのだった。

私を一番よく知るダンナがいう、世界めんどくさい選手権があればオリンピック選手ゴールドメダリスト級とされる私のめんどくさい思考癖は、子どもの頃のあれやこれやそれやどれやで、とにもかくにも自分の地元が大嫌いだった。こんな街出てってやる、できるだけ遠くに行きたいと小学生の頃から思っていた。いかに合法的に家を、街を出ていくかシミュレーションし続けて18歳で地元を離れた。関東に住んだり、海外にまでも移住した。にもかかわらず、結局シングルマザーとなり、実家に近い所に戻って来て住むのは不本意でしかなかった。この街が好きだと口をそろえて言う人たちを気持ち悪って心の中で思っていた。

なんでそんな好き好き言うん?ボランティアで市の広報をやるまちの宣伝部ってなんなん?ぐらいの目線で街を好きという人たちを冷ややかに見ていた。でも、好き好きいう人たちの理由を知ってみたい、とふと思い、カメラも貸してくれるし年齢的にも参加できるラストチャンスやし、と参加を申し込むことにしたのが4年前。

参加したことで街に仲間が出来た。同級生などのつながりを断ち、ママ友もほぼ持たなかった私にとって、アウェー感満載だった場所の色が変わったのだ。まるで古ぼけた白黒写真をデジタルでカラー化したような変化だった。ちょうどその時期に、仕事で北九州市の街のストーリーをたくさん教えてもらったのも大きかった。自分の足元を見直すタイミングとなったのだ。

宣伝部を中心に街のたくさんの素敵な人と出会うことで私の中に地元愛貯蓄がうなぎ上りにちゃりんちゃりん貯まっていったのだ。これは私の想像を超える副産物だった。私、めっちゃ気持ち悪い人やん、でもなんかしあわせ度高まってるからよしとするか、という具合でこの数年、自分に戸惑うこと多々ありだ。

材木を運び出して数ヵ月後、まちの友達があの時の材木が屋台に使われているらしいよ、って教えてくれた。

ダダさんチームでいろいろ作るシムさんはまほうつかいだ。ありとあらゆるものを作り出していく魔法の頭脳と手を持った人。

グッドデザイン賞も取ったチロル堂の出張だがし屋さんの屋台だったり、商店街の企画で使われたり。

そして今、南チロル堂が新しく作られているが、ここにも存分に活かされている。建具や窓がまさに生まれ変わろうとしている瞬間。

新しい資材と図書室だった建物からの古い材木が調和されながらそこに存在している。炎天下の中で黙々と作業を続けるお二人の愛と労力で、ちょっと先の未来の子どもたちの笑顔のあふれる場所になろうとしている。

住みやすい街として評価が上がってからマンションや開発が活発になった我が街。気が付けば実家の周りにあった池も山もなくなり、住宅街に変わっていった。
人は退化する。モノは劣化する。コンフォートゾーンは心地よいが進歩もなく、朽ちていくだけとなる。歴史は繰り返される。50年ほど前、同様に山を切り開き池を埋め立てた上に建てられたうちの実家。元々の地元の人たちとよそものという溝があったことは両親から聞いていた。日本全国、よくある話だろう。

過去の経験や行動の悪しきところは反省点として、そして良きところはより強く次世代へとつないでいかないと、とおもう。私有地の売買、開発は個人の力でどうすることも出来ない。でも、情熱や社会への思いは途絶えることなく繋がれる気がする。大小さまざまなグッドサイクルが繋がったり、広がったりすることで、大人も子どももちょっと幸せ度が増して、選択肢が増える街になってほしい。



私は破壊の先に明るい未来が再生されるのが見たい。だから考える。私には何ができるだろうかって。



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世界平和は可能と信じてます💖