「山根青鬼画業75周年記念展トークショー」へ行ってきた話
はじめに
10月12日の出来事、続き(笑)。
この日の午後から入れていた用事が、こちら「山根青鬼画業75周年記念展トークショー」
というか、イベントの存在自体も知らず、今週の火曜日にTwitter(現X)を見てビックリ
僕が愛読していた「コロコロコミック」の『名探偵カゲマン』の作者である、山根青鬼先生ですよ!
(なにせ好きだったから、いわゆる「グリコ・森永事件」で犯人が名乗った「かい人21面相」と、カゲマンに登場する「怪人19面相」とがごっちゃになったくらい)
しかも、トークのお相手は、ビッグ錠先生にのむらしんぼ先生!?
なんというビッグネームが揃うんだ。。。
当初は「この日ってサイン会あるんですかー」と電話で聞いたところ「トークだけで無いんですよー。聞きに来られますか?」とスタッフのかたからの反応に「あ、じゃあ伺いますー」と答えて申込した次第。
トークショーの前に
会場は東京・清澄白河の森下にある江東区森下文化センター。以前仕事で近くまで訪れた際に「のらくろロード」という通りがあってのらくろのイラストが可愛い、と感じた思い出こそあれど、実際に通ったことは無し。
ちょっとワクワクしながらの訪問でありました。
13時半入場・14時開演で、10分前から会場となる2Fの廊下には十数名の行列。
自分もいそいそと並び、先着順で前から2列目のど真ん中の席を確保。
トークショーの開演前にも、1Fにある記念展にある原画を見て、『名探偵カゲマン』に懐かしさを感じたりしたのでありました(ツキユビで小太りの男、いたなぁ)。
あと、2Fから1Fへ階段で降りる際に、お話をしている人の横を通ることとなり、その最中に「あ、のむらしんぼ先生だ!」と気づいたり(汗)
トークショー、第1部スタート
定刻となりトークショースタート。
まずはスタッフのかたから、諸注意があり、トークショーは撮影など一切禁止(残念! なので開演前の写真だけ)、携帯もマナーモードでなく電源を切ってなどなど。
トークショーは15:30までを予定してますが、盛り上がると延びるかも的なことも示唆され、いよいよスタートで、3先生が入場。
1部は、山根青鬼先生の歴史・功績を振り返りつつ、時折両先生からコメントを……のハズでしたが、両先生からのコメントはほぼ無し。
なにせ、山根青鬼先生のトークが面白い!!
たとえば、当時の編集者がコマ割りなど1つ1つ細かく注文してきたという話になって「あれはつらかったー。なんでここまでと愚痴ってたよ」とボヤきながら本音を吐露され、会場大爆笑。
でも「今にして思うと、それが役に立ってるんだよね」と悪者扱いにならないようしっかりフォロー。
と、お話自体がユーモラスで面白い上に、当時の描写などが貴重すぎて興味深いという意味でも面白い!
しかも89歳! お若い!!
ほとんどノー知識で行ったので、知ったことを箇条書きに。
・山根青鬼先生と弟の赤鬼先生は双子で、小さい頃から漫画を描いていた。
・大阪から富山へ疎開。そこで地元の新聞で「ふた児の天才マンガ家」と紹介される。当時中学生。
・「家の光」社が、その記事を田河水泡先生(のらくろの作者)に紹介し、先生が富山にSLに乗って会いに来てくださった。
(もちろん、青鬼赤鬼先生も「のらくろ」は大好きだった)
・田河水泡先生の第一声は、2人の頭を撫で「小さいね」
・その後、旅館で何十枚も絵を見て頂き、
「君たち、何でもかけるのかい?」と聞かれる。
できないと言ったら認められないと思い「できます」と答えたら、
「バカモン!!」と叱られ「ワシにもかけないものがある」と言われる。
・これが当時中学生の天才漫画家としてちやほやされていた自分には、大きく活を入れて頂くこととなった。
・なお、その後の弟子入りなどでも怒られたことはなく、この1回のみ。
・幻のデビュー作は『立川坊や』。13歳(!)での作品。
地元の出版社からいきなり「単行本書いてくれ」と依頼があった。
・初めての単行本は『思い出』。
学校が夏休みの3,4日間、人生初のカンヅメとなって仕上げた作品。
あまりに時間がなかったので、下書きも無し。
・「子供なので…」という理由で原稿料は無し(!!)
代わりに鉛筆・ノート・消しゴムなどが貰えた。マネージャー役をしていた父親は怒っていたが、まだ紙不足だった当時、青鬼先生としてはありがたかったとの談。
・デビュー作は『北日坊や』。北日本少年新聞(週刊)での連載で、兄弟2人で月2本ずつ描いた。この原稿料も鉛筆だったなーとのこと。
・ペンネームの名付け親は、田河水泡先生。
出会った翌年に上京した際につけてもらったとのこと(その命名の書なども公開された)。
・父親は怒ったが、「鬼のようにマンガ道を精進せよ」「鬼才」などの意味合いと、乳児期のエピソード(双子で間違われやすく、それぞれの体にあった青痣・赤痣で見分けられていた)が込められていると知り、納得したよう。
・メリットとしては、自己紹介をしたら、必ず覚えてもらえる。
・一方、こども向けマンガでは「鬼」という単語が怖いと敬遠されることもあり。本名や、ひらがなにひらいた「山根あおおに」という表記も使い分けたとのこと。
(うん、僕もこの表記が一番なじみがありますなあ)
・田河水泡先生のお弟子さんは多く、杉浦茂先生や長谷川町子先生(サザエさん!)などもいらっしゃった。
・田河水泡先生は「お前は才能がない。もうやめろ」というのはハッキリ言うタイプなので、やめていったお弟子さんも多い。
ただ、その後NHKでアニメ制作をしたり、鉄道関連の記者になったりと、それぞれ才能を発揮されていった。
・月に1回、勉強会が開催。田河水泡先生自らが鉄筆・ガリ版で書いた紙を配られていた。
「一休和尚からの滑稽」などマジメなテーマで、当時の青鬼少年は正直つまらなかった。ただ、後に読み返してみると、なんと素晴らしかったのだろうと、その価値を再認識。
以降は、作品と共に思い出を色々と(口頭で聞いたものも多いので、マンガ・漫画など表記など違ってるかもしれません。ご容赦を)
・昭和26年『漫画少年』学童社
全国から漫画目指す人が投稿する雑誌である一方、篠山紀信・筒井康隆なども作品を発表していた。まさに「雑」があつまった「雑誌」。
(当時読者だったビッグ錠先生、この頃は投稿していなかったそう)
青鬼先生は上京直後に連れていかれ、連載が始まるのですが、そこで会ったのが手塚治虫先生(!!)。『ジャングル大帝』を描かれていたそう。
・『ばあやのお里』きんらん社の単行本。
貸本漫画で、「映画作品」を扱っている。カラー表紙。
映画のストーリーを渡され、「これで描け」との指示で動いた。
(さすがに僕も全然世代じゃないけど、たしかに洋画のタイトルがついたマンガって、昔の描写であった気がするなあ)
毎回150ページの月に1冊ずつで、ギャラは15,000円(昭和30年代)。これで食べていけた。
なお、当時父親は仕事を捨てて、息子たちと一緒に上京(僕たちに賭けてみたんでしょうねえ)。出版社などを回る営業活動的なことをされていたらしいが、ほとんど門前払いで終わったとのこと。
・講談社 少女倶楽部『めだかちゃん』
モデルは、青鬼先生の母親が働いていた修道院にいた子。
この頃、赤鬼先生は『よたろうくん』という少年漫画を描いていて、なんとなく「青鬼先生は少女マンガ、赤鬼先生は少年マンガ」的なすみわけがあったらしい。
なおこの時の赤鬼先生の編集者(ヤマモトさん)が厳しい人で、最初の原稿に13回も書き直しを命じた(!)そう。でも、赤鬼先生もそれに食らいつき(!!)。「本当に赤鬼先生はすごい人だよ」と弟を褒める青鬼先生。
・S32年 『がんちゃん』講談社「ぼくら」(「なかよし」の男の子版)
最初は兄弟合作だったが、青鬼先生単独に。
ちなみに、合作か単独かなどは、基本は出版社からの指示によるんだそう。
・『なかよし横町』講談社「なかよし」
この頃、過労で倒れる漫画家が多く、マネージャー役となっていた父親が「倒れてはイカン」と気を遣い、先生は講談社の専属になる。
……が、逆にかえって忙しくなったそう(苦笑)
というのも、専属になると同社の出版物すべてに描かされることとなり、『たのしい一年生』~六年生のシリーズ、大人向けの4コマ漫画、『婦人倶楽部』などの大人向け雑誌のイラストなど、色々させられたそう。
というわけで、3年後に専属は外れる。
・『でこちん』少年画報社
専属を外れた先生たちの元へは依頼が殺到。その1つがこちら。
ちなみに、当時はマンガ作品のタイトルロゴも毎回すべて描かれていたそう。(曰く「(セリフの)活字以外は全部やった」)
・『ヒッチのもへい』週刊少年マガジン
初の編集連載。この編集のウチダさんが前述の細かく指示する人(笑)。ただ実際その指示に従うと人気が上がり、我流だと低下したので、さすがだなあ思われたらしい。
コマ割りについて、淡々とするだけでなく、ときどき手塚先生のような大胆にナナメでのカットを入れたりなど、細かいが的確な指示だったそう。
・『トンこなぞなぞ日記』小学館
コノミヒカルさんというなぞなぞ作家がいらっしゃり、その方からのなぞなぞやとんちを膨らませて、ストーリーを考えるとのこと。
……ボク個人的には(クイズやパズルを生業にしていることもあり)ここはグッと注目しちゃいました。
そういえば、当時から「なぞときパズルマンガ」みたいなのが好きで。当時はそういう本が多く出ていたり、雑誌の付録でついていたり(マンガ禁止の家庭で育ったオイラは、友達が「これあげる」とくれたそういう小冊子をありがたく読んでいたのでありました)。
昭和の頃によくあったこういう「なぞときパズルマンガ」が、僕の人格を形成していったのは間違いないなぁと確信しましたわ。
閑話休題。
・『ピンボケ一家 パンチくん』 ろまん書房「月刊のらくろ」
こちらは青鬼先生・赤鬼先生の合作作品。
なお合作の手法は「交代で描く」で、同じ原稿を2人で描くことはないそう(そのため、「あ、これは赤鬼が描いてますね」など一目で見抜かれる)。
ただ、当時は同じ家の中で、互いに向かい合って描いていた。そのため忙しいときなどは、作者名はそのままで「手伝ってやるよ、原稿料はくれよ」と、互いに手伝ったこともあった。
「双子の漫画家ならではですねぇ」との談
・『はずれ太くん』「キング」
体がバラバラに離れるという、ちょっと個性の強い作品。
この頃からラリーが好きで、作者名に車のロゴマークがあったり。
・『なるへそくん』「少年キング」
イズミ製菓という会社がスポンサー。キャラクターは決められており、ガムなどでこのキャラを展開し、アニメ化をすることに。
ソノシートはつくられ、TCJ(今のエイケン)でアニメが1本作られた……のだけど、製菓会社がつぶれて幻の作品となったそう。
・『ゲテゲテ学園のズレタン』 秋田書店「冒険王」
こちらは顔のパーツがズレるという、個性強めの作品。「福笑い」から浮かんだらしい。(ここで、のむらしんぼ先生が、青鬼先生の効果音(オノマトペ)のセンスを絶賛)
また、時代的にはこの頃子供が生まれたこともあり、別々の家で暮らしたため、赤鬼先生との合作はなくなってきたそう。
・『おやじバンザイ』(寄席に出てよかったね)
毎回実在のタレントやCMネタをもじったりなどもしており、今回の作品では扉絵に獅子てんや・瀬戸わんやが(一目でわかる、そして会場の半分近くが誰だか知ってたという感じの客層でありました)
・『阿尼世穴多■津余■丹代』(あによあなたはつよかったよ・■部分は漢字失念)「少年キング別冊」
読み切り26ページ。これまでの作品展でも出したかったがなかなか出せず、今回が初展示。
コワイ顔の主人公が妹を探す旅に出るが、顔で誰からも嫌われる。
遭難事故に遭い、一人の女の子を助けるが、自分は命を失う。
その女の子が実は…… というストーリーもの。
青鬼先生の作品の中で唯一のストーリーもの(ギャグなし)になるらしい。
なにせ、タイトルの謎の漢字が位牌の戒名として遺影とともに仏前にあるというカットからはじまるので、いろいろと異色ではありました。
・『ラリー88(パッパ)』「別冊少年キング」
オールフルカラー。車に命が宿るという話で、毎日小学生新聞に連載していた車のマンガが元。
この頃ラリーが大の趣味だった青鬼先生にとって、自分の経験を生かすこともでき、描いてて楽しかった、とのこと。
・『怪獣ダイゴロウ』
円谷プロからの持ち込み企画(!!)。エイケンで打ち合わせしたらしい。
キャラクターは毎回円谷プロから提示されるが、コワかった怪獣をカワイイ感じになったなーとのこと。
・『ゴンタロウ』
こちらはオリジナルの怪獣。サルとカバの合体ですかねーとのこと
・『のこっ太くん ダイゴロウの 大わらいだよ お正月』
見開き2ページの中に、色々なキャラクターが描かれていて、セリフを言っている。
スタッフさんは「マンケイ」と言っていた。(一枚の中でいろいろなものを紹介する?らしい)
当時、この雑誌に連載のキャラクターを、このページ担当の青鬼先生が全部描いたとのことで、『ドラえもん』『てんとう虫のうた』『キカイダー』『ドロロンえん魔くん』など他作品のキャラも多数。
・『フィンガー5 ジャンボマックスの スターさつえい会』
こちらも見開き2ページに、芸能人がいっぱい。顔部分だけは顔写真が貼り付けられている感じ。あったなぁ。
セリフも当時のCMのパロディなどもあり、これも青鬼先生が考えられていたそう。
と、これらを眺めて
「あ、たしか『名探偵カゲマン』で、紅白歌合戦がかい人19面相に乗っ取られる回で、見開き2ページで色々な芸能人がいろいろ言ってたカットがあったかも?」
と思い出しました。もしかしたら違う漫画だったかもしれないけど、ただこういう見開き2ページでコマ割りもなく、色々なキャラクターが色々言っているというページ、当時(コロコロコミックに)ちょくちょくあって、結構楽しみだったなーと記憶がよみがえってきました。
……それも青鬼先生の手によるものだったのか。。。
『くろっぺ』 自費出版
元は毎日小学生新聞で、毎日横長で掲載していた作品。
忙しかったが、まさに脂がのっていて、やりたいことは何でもやりたかった時期だったそう。で、1冊にまとめたいと出版社に打診したところダメとの返事。
そのため、500部を自費出版。
さらに100部は全国の出版社へ配って売り込みを行い(!!!)
1か月後に小学館から、「主人公を探偵にして、うちでやってくれ」との話が来たそう。
……こうして生まれたのが『名探偵カゲマン』とのこと!!
終わりそうにないので、ここからはつまみ食いで。
『宇宙っ子UFOくん』
ぐんぐん学習塾という、勉強冊子の掲載。めずらしく左開き
『8ばんライト ロボコン』「てれびくん」
ロボコンの野球漫画……ただロボコンは、石ノ森章太郎のキャラクター!
当時、青鬼先生が野球をやられていたということで、連載が回って来たそう。
ただし、わずか数回で終了。なぜか?
……石森プロから「これは石森が描きたがってるので、描きます」との話が来たそう(笑)
『名探偵たっちん』家の光 社
田河水泡先生との邂逅にも一役買った家の光社からの(先生曰く 随分経ってからの)依頼。
迷路やクイズなどが掲載。
そうそう、こういう「謎解きパズルマンガ」ですよう!!!
こちらは掲載の迷路やクイズなど、先生が考えて描かれたそう。
偉人伝『エジソン』『キュリー夫人』 ポプラ社
「先生なりに描いてください」との依頼だったので、大筋は伝記だが、ギャグもちょこちょこ勝手に入れたそう
『ゆかいな2人』
電車&工事の人がユーモラスな1コマ漫画。
展覧会用の絵。第8回マンガ協会賞を受賞。
(今回の展示会では、この新作も展示されていて、何とも楽しかった)
そして時は平成に。
山根青鬼先生・赤鬼先生と永田竹丸先生は、田河水泡先生から「のらくろ」を継承することとなりました。
『山根青鬼山根赤鬼 漫画道中記』自費出版
これまでの半生が漫画でつづられている
『のらくろ政治漫歩』
国会議員向けの月報誌への掲載。のらくろこそ出るものの、政治批判やパロディが強め。
怒られるかなと思っていたが、どこからもクレームは出なかったとのこと。
『朝日町のあゆみ』
住んでいた富山の町長さんからの依頼。青鬼先生は、故郷への恩返しのためだから無料でいい!と最初は断ったものの、行政で予算をつけた都合もあり頂くことに。
『ドクター・ドジ』「月刊医局」
お医者さん向けの雑誌で、51年経った(!)現在も連載が続いている。
依頼時は「お医者さんの悪口はかかないで」と言われたが、そういう要素がないと無理ということで、あえて「ドジ」という名前にすることで失敗などを描くことに。
ドジであって、決して悪い人ではないというのもポイント。
『おだいじに』
こちらは季刊誌での4コマ。こちらは30年。
第1部の終了
と、第1部・第2部あわせて90分のトークショーが、もう80分経過(笑)。
結果的に、10分ほど休憩を取ったのちに、第2部となり、そこで改めてビッグ錠先生とのむらしんぼ先生のお話となりました。
・今回の2人の人選は、青鬼先生自ら。
・ビッグ錠先生とは4歳差。
・一門の会(後述)に誘われたことで、親交を深めたそう。ただ初めて話をしても「初めてという感じがしない」ほど意気投合したそう。
・その後に、実は大阪で近くに住んでいたということが判明。
(旭区大宮町の、大宮小学校と(戦争の焼け跡に出来た)大宮西小学校)
ただ、この4年はちょうど「小学校でいわゆる戦前教育を受けてきたか、来なかったか」の境目であり、その差は出てるかもねぇ、との談
・一方ののむらしんぼ先生は、同じく大先輩であるビッグ錠先生が横にいらっしゃることで恐縮しきり
・青鬼先生との出会いは40年前。デビューすぐのコロコロコミックの忘年会で、(当時40代の)青鬼先生の隣の席が空いてると編集部員に促され着席。
「君、漫画協会に入らない?」
「入ると、何か得はありますか?」
「なんも、ないよ」
と言われ、今も入ってないとのこと(そして今回も「入らない?」と青鬼先生からのアプローチ(笑))
・2009年に、先生2人で中国で開催のイベント(カンフーパンダの監督など、アジアのクリエイターが多数出席)に行ったところ、VIP待遇。
のむら先生は青鬼先生の秘書と勘違いされつつも、周囲が敬愛する様子に感銘を受け
「「立川談志一門」のように、「山根青鬼一門会」をつくって、先生の名をきちんと残せるようにしなくては」
と決意。
その結果、今では30人以上の有名クリエイターが集まることに(当初は声優や監督もいたが、今は漫画家・イラストレーターに絞ってるとのこと)
・参加者は、「〇〇鬼」と自分の希望で名前を決め、青鬼先生から命名を頂けるらしい。
・ビッグ錠先生は、「あじ鬼」。
同年代ばかりが集まりやすい中、この会は若い人が多く、なんと居心地がいいのだろうと。
まさに青鬼先生の作品通りの雰囲気で、もしかしたら師である田河水泡先生の影響もあるのではないか、との談
・のむら先生は、北京でビール飲みながら決めた際は「桃鬼」
(青鬼赤鬼桃鬼というリズムもよく)
ただ他の人に取られてしまい、「かげ鬼」(笑)
・このセンターで開催された、一門会での過去イベントも色々紹介。
スケッチ大会、豆まき会、マンガを描くワークショップなど(こんな豪華な参加型イベントがあったの!? 行きたかった…)
・青鬼先生曰く、「集まるときは、上下関係なく、みんな仲間です」「この年になっても、勉強しなくちゃね」
そして、予定時間を30分押して(笑)、おひらき!
その後も、客席のあちらこちらで色々な挨拶している人たちが目に留まる。
出版関係者や、まさに一門の会の人らも多数来ていたらしい。
(集まって写真撮りましょー、とおそらく一門の会の人が集まっていた。漫画家先生の顔と名前はほとんど一致しないのだけど、浜田ブリトニー先生がいたっぽい(笑))
そんなこんなで、実に濃くもあり、少年期に『名探偵カゲマン』や謎解きパズルマンガが大好きだった自分には、忘れていた創作マインドを取り戻させてもくれた、素敵なトークショーでありました。
何より、生で山根青鬼先生を見られたことに感動。
いつまでもお元気でいてください!
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