見出し画像

武士とはなんぞ

ほとんどがCoten Radioの文字起こしですが、鎌倉殿の13人、新しい大河ドラマを楽しく見る為にも、日本の武士ってなんで始まったの?どんな人たちなの?のメモ

武士の種類には2種類
 ・将軍(ないしその部下)に使える人:御家人
 ・フリーの人:非御家人(御家人から見た蔑称)

武士のご先祖様の2種類
 ・在地領主:地方の土地の有力者がスタート
 ・派遣領主:地方を治める為に中央から来た役人が居着く

古代、大和政府が国を作ろうとした時、政治的先進国だった
中国から「律令制」を取り入れて国を作ろうとした。

ただ、律令制は大きな官僚、役にの基盤が必要だったが、まだ古代日本は、政治を理解し役人となっていける人材があまりに乏しかった。しかし一度進めた制度、穴だらけのなんちゃって律令制を進めていく。

当時の日本には、東北側に蝦夷(えぞ・えみし)という対抗勢力があり、そこを牽制していく必要があった。ただでさえ官僚が足りない中、軍事官僚も当然のことながら不足。

当時の日本は、公地公民の中、職業軍人は少なく。民衆の兵役で軍事行動をまかなっていた。これを皆兵制という。
ただ、それでも人不足の中、新たなイノベーションが起こる。

制圧した蝦夷地区の敵兵を懐柔させ、引き込み、自軍の兵力として、蝦夷と戦わせるという健児(こんでい)という制度が始まった。

健児制で味方にした蝦夷兵を俘囚(ふしゅう)といった。
強い上に人数が多いので、前線の9割の兵が俘囚となっていった。
 ※空海は俘囚の子孫

ただ、この俘囚、強いが故に集めると怖いので、坂東(1万人)と
九州に配置。俘囚をまとめて、蝦夷や朝鮮と戦うための師団を結成していくこの師団長として、中央から送られた小野春風、阿倍比羅夫、藤原保則といった軍事官僚が武士の祖となっていく。

地方に下って、その土地の有力者の娘と婚姻をし、中央との人脈・縁をもちつつ、地方の経営地盤を持った存在が武士のゼロ世代

地方の有力者は産業や流通など人材や財は持っていたが、中央政府とのパイプを持つことがなかなかできなかったが、軍事官僚はこの点問題はない。

また、律令制の課題の官僚不足に対して、行き届かない地方での行政活動を担おうと、地方でやるべきことが増えていく。

強い政府にする為に

より強い政府とするには、税収も人口も増やしていく必要があるが、牧歌的な公地公民文化では、効率もあがらない。

そこで中国の班田法を真似て取り入れた班田収授法(公田畑を耕すと3%は税で治めるが残りは自分のものにできる)を進め、モチベーションアップを期待したが、穴だらけの戸籍や登記をしない畑などの問題があり、逆に税収が減ってしまう。

では、「三世一身法」はどうだと、3世代に限った開墾による私有地を認めたが、モチベートはわずか20年で無くなってしまう。

そこで、さらなる動機づけをと発布されたのが、墾田永年私財法。
開墾した土地は、ずっと、その人のものですよ。と個人所有を認めた。

ここで耕された土地が、「国のものではない土地」として存在感を増し、寺社や貴族などの大資本が開墾地を増やし、後の荘園となっていく。

「この土地はあなたの土地ですよ」

このキーワードは武士の根幹となる。この状態から鎌倉まで続く。


源氏が総大将のわけ

1051年に前九年、1083年に後三年の役が東北に起きる。
陸奥国の土着で、有力豪族の安倍氏が税を収めないなど、政府に反抗。

最初、この反抗を仲裁する為に派遣されたのが、源頼義だったが、一向に態度を変えない安倍氏を討伐することに。

ただ、中央からの派遣では、あまりに安倍氏と対抗するには、戦力が足りず坂東(関東地区)の在地領主を味方軍として引き入れ、連れて行く。

その報酬として味方した在地領主に中央政府の「官位」を与えることになる。

ここで、自然な形で封建の形ができる。
官位は、この土地はあなたの物と政府が公認するということ
御恩(領土の承認)と奉公(働き)
これが源氏が武士の頭領となる基本となる。

この土地はあなたの物ですという「本領安堵」が強い権力によって証明されれば、その土地を奪いに来た敵に対し、大義名分をもって助けを呼び、皆で一斉に攻撃することができるようになる。

坂東の武士は、初めて中央にその本領を安堵された強い御恩と奉公の繋がりで、当時総大将だった源氏が坂東武士の総大将という位置付けになっていく。

対して、平氏はどうだったか。平氏は、津々浦々の海運・流通を抑えていくことで、経済面から中央政治にパイプを作り、血縁関係を強化し、巨大化していく。

その二大勢力がぶつかった源平合戦

戦いに勝利し、源頼朝が得たのは、軍事権と警察権、とその任命権。
全国の守護と地頭の任命権

守護は今でいう都道府県警、軍管区を管轄する部署
地頭は、地区の管轄市警署と税務署(徴収)が仕事で軍事動員権はない


朝廷は行政や宗教の組織となり幕府とは治安維持の組織となった。
今で言えば、軍隊や警察が幕府の本質となる。

朝廷は行政
幕府は治安維持
日本独特の「権威」と「権力」の分散の形となる

ただ、朝廷側が治安維持権も欲しがり、争いになるのが
承久の乱。行政側が負け、後鳥羽上皇が隠岐島に流され、
幕府が行政権も握って行くことになる。

鎌倉幕府という強い武家政権が生まれることになる。


幕府、御家人は家族が増えてるだけ

源頼朝は、強い武士団。強いファミリーを作って朝廷と戦うことを決めた。

ヤクザの抗争と組織に似た、「俺のために死ね」ができる強い組織で朝廷と対峙していく。
それなのに弟の義経が後白河上皇から警察長官の立場をもらい、部下若い衆に示しを見せる必要が出てしまい、兄弟で戦うしか方法が無くなる。

その悲しい戦いの裏で、義経に官位を与えた朝廷に激怒し、その見返りとして他の権利を奪い取る。

幕府はあくまで治安維持の為の非常事態臨時組織であったが、それを常在の組織とする。最高位の征夷大将軍は、京都にいなくて良い最高の官位ということで、地元にいながら、朝廷の高位につくことを可能にした。

鎌倉幕府成立、ここで東日本も日本の権力が及ぶようになる。

昔は1192年に鎌倉幕府成立 だったのが今は、変わってる
1185年になっている。これは守護地頭の指名権力を渡された年。

地方の武闘派任意団体は、公家に対する服従しかなかったのが、
その上部任意団体が警察ライセンスをもらった途端、
兵隊が国と繋がり、モチベーションや権力の向上を得てさらに強固になる。

改めて源頼朝は坂東武者の頭領となり、武士の頭領は源氏を固めてく、
さらに、西日本の御家人ではない武士も統率する事になり、その
エリアマネージャーを坂東武者が担うという形を作った。

統制の中で、御成敗式目などのルールもできた。
これは、法律ではなく、源・北条家のルール

ただ、鎌倉末期に天皇家が2つに分裂、

武家は当初これを仲裁したが敵認定を受けてしまい、戦乱が起きていく。

それまでの戦いでなぜ朝廷、天皇家が亡くならなかったか。それは、天皇家を仇なすことで、周りに一斉に攻める「大義名分」を作らせてしまうから。メリットに対してあまりにリスクが高いので、権威(朝廷)と権力(幕府)という形が続いていた。

南北朝は、どちらについても、天皇家を仇なすことになる。
また、坂東など地元の土地から離れて戦争に行くとかなりリスキー

人の土地を奪う。相続権がないのに土地に居座る。
こういう「土地を奪う人」が悪党という言葉の語源。

朝廷権力も幕府も弱くなり、牽制力・警察権が弱くなり所領安堵できなっていく。

武士は根本的に陣取り合戦が好きな、そもそも、他人の土地取りがちな人

御家人は奉公として戦いに行くが、土地を奪われるリスクが高い。周りは敵だらけ、味方になるかもわからない。そうやって戦いに行きたがらなくなって戦いが収まっていく。

幕府はそもそも私的な集団、こんなに弱い北条に従わなくてよくね?と気づいて戦わなくなっていく。
その中で勢力を増したのが足利尊氏、新田義貞、後醍醐天皇

幕府(武士団)は、本領安堵できなくなったら終わる。

武士は武闘派の地主


血気盛んな人が不動産が好きなのもちょっとわかる気がします。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?