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第10回飲茶先生の本について語ろう3

フランケンとの対談
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主題2 正義の教室
消防士の父。一つの部屋には自分の娘がおり、もう一つの部屋には30人の子どもたちがいる。火の勢いが強く、どちらか一方の部屋にしかたどり着けない。消防士である父は、どちらの部屋に行くべきか?
正義とは何か?について考える本だ。

これを撮ってるのは令和2年の4月なんですけど、この時点での最新刊ですね。この入り方は、マイケル・サンデルの「これからの正義の話をしよう」という有名な講義のオマージュとして始まるんですよ。これを頭に置いて、ああ、あれの話か、という読み方をすると盛大に裏切られる。そんなトリッキーな本ですよね。

・焼きそばパンの転売は正義に反するか?
大人気の焼きそばパン。購買部で1個100円で売っている。それをチャイムの合図と同時に購買部に一番近い席に座る学生が買いにいって、全部買い占める。それを1個150円で欲しい人に売る。購買の人はパンが売れて喜ぶし、高くても本当に手に入れたい人にパンが届くから手に入れた人は喜ぶ。転売した人もお金が手に入る。
これは正義に反するのか?というところからストーリーが展開します。

僕はこの本を読むまで、唯一の漠然とした正義が世の中に存在すると思っていた。
・3種類の正義。「平等、自由、宗教」
共産主義や社会主義は平等を絶対的な正しさとする国
一方でそんな国を抑圧的だと批判して、自由を絶対的な正しさとする国もある
その一方で、何らかの宗教、すなわち自分たちの国の伝統的な価値観を絶対的な正しさとする国もある。
最初の正義は「平等」です。
・平等の正義を実現するには功利主義(いいかえると人々の幸福の総和を重視せよ)
不平等より平等がよい。大多数の人間が飢えに苦しみながら貧乏な生活を送っているなか、一部の人間が特権により働かず搾取した富で裕福な生活を送るのは良くない。僕自身は、正直この本を読むまで、「平等であることは大切だけれども、平等であることが正義である」と言われると違和感を感じた。もともと平等でない人々を平等にするためには、何らかの強権が必要になるから。その強権に従わされる、つまり、自由を犠牲にすることに抵抗がある。
最大多数の最大幸福という言葉で説明される。全員の幸福度を計算し、その合計値が一番大きくなる行動をしなさい。これを功利主義と呼ぶ。3人の前におにぎりがある。1人は空腹で死にそうな状態。残りの2人は満腹。そうであるなら、そのおにぎりを空腹の人に与えた方が3当分するよりも最大多数の最大幸福に近づく。災害医療現場におけるトリアージはこの価値観に基づいている。最も重症な人から治療するのではなく、また、最初に来た人から順番に診察するわけでもない。

でも、極端な話になると、副作用の少ない麻薬を全国民に配るとどうなる?みたいな問題も生じる。最大多数の最大幸福を満たすので、功利主義的にはOK?
究極は、国家主導の臓器宝くじ。無作為に選ばれた人の臓器はそれを必要とする人の移植に使われる。それは、最大多数の最大幸福にはなるけど、本当に正義なのか?

功利主義の問題点としては
幸福度を客観的に計算できるのか?功利主義は強権的になりがちという問題(みんなの幸せを実現するためには他人を抑圧する強力な権力の行使が必要)

ベンサムの功利主義はいろんなところで出くわす考え方。一見、理にかなっているように見えて、実際に功利主義的にシステムを構築しようとすると「すごく割りを食う人」が必ず登場するという、なんか納得いかない考え方。臓器くじの話なんかもそうだよね。
「くじで選んで一人を殺して、5人に移植する」と「トロッコ問題」は根っこが同じ問題なんだけど、答えが大きく変わってくるのは、死ぬ対象に自分が含まれるかどうかなんだろうと思うのね。
臓器くじの場合、一人殺すべきだ、と言ったら、「じゃあお前死ねよ」と言われて終わりだからね。
歴史的にみて功利主義的論調って、持っているものを取り上げるときに便利に使われてきたような気がしてどうにもしっくりこない。古くは3次方程式の解の公式、いわゆる「カルダノの公式」ですけど、実はこの公式を発見したのはカルダノではないらしいですよ。当時は数学の問題は試合として出されていて、解き方は基本秘密にされるものだったんですって。1500年代のイタリアで、フェローが発見して、試合を無双しまくって、どうやら公式があるらしいってことをフォンタナが聞きつける。フォンタナは自力で解の公式を発見するんだけど、それをカルダノに教えちゃう。で、カルダノが自分の業績として公表しちゃった。ふつうに考えたらカルダノひどいって話になるけど、公表した方が数学にとって貢献が大きいっていってカルダノの行為は肯定されてる。実に功利主義的だよね。
ちなみに功利主義そのものの発明者はベンサムではなくてアウレリウスだったりする。

功利主義って、幸福をどう定義するかで最大幸福が何かっていう部分が変わっちゃうのが問題で、この矛盾にドラマ性が生まれるから、映画やドラマではよく見かける。政治指導者が国民を戦争に駆り出すシーンなんかも、国民全体の功利と個人の生命の対比で、基本的に矛盾をはらんでいる。トロッコ問題と同じだよね。政治指導者が功利主義的に「国民は国家のために死ね」という理屈の根底にトロッコ問題における「死なない位置で正論振りかざすな」という怒りがあって、政治指導者も死ぬリスクがある状況にドラマが展開して「臓器くじ」状態になったときに、「お前が大好きな功利主義的正義だぞ」と指導者を殺して見せる。これがエンタメになる程度には功利主義には不安定な要素がある、と僕は思うんですよ。(だれか詳しい人がいたら教えてください)。また別のメタファとしては、「24」のシーズン1で、核爆弾を爆発させるぞ、という脅しに屈してジョンマクレーンが上司を撃ち殺すシーンが出てくる。人を助けるために人を殺す、この矛盾を「道徳的一貫性」の侵害って言うんだよね。功利主義はさまざまなミクロ視点で道徳的一貫性を侵害する。https://plaza.umin.ac.jp/kodama/ethics/wordbook/utilitarianism.html

先生、24ネタちょいちょい挟んできますね。

よくできた概念だとは思うんだけど、功利主義、やっぱりクリティカルな部分で個人に負担をかけすぎる気がする。特に「なにかを突出して持っている人に過度の負担をかける」哲学じゃないのかな。そういう意味では、哲学としての功利主義は、経済学における共産主義にダブって見える。
トータルのGDPを下げるような最大幸福っていう共産主義は、ポイントゲッターのモチベーションを下げるんじゃないかしらね。僕、しっかりとした根拠は示せないんだけど、実際のチームマネジメントをやるようになって思っていることは、「みんなよし」みたいなマネジメントを「平等」という尺度を元にやろうとすると失敗するだろうっていうことですよ。
ちょっと功利主義の話からは離れちゃいましたね。でも、人事になぞらえて考えると功利主義はわかりやすいんだろうなって思います。

・自由の正義を実現するには自由主義(自由を重視せよ)
人の自由を第一に考える思想。ようは個人の自由を守る行動をしなさい。それこそが正義だ。ただし裏返すと、他人の自由を奪わない限り何をしてもいいとも言えるため一番フランクな正義ともいえる。
富裕層からたくさんの税金を徴収して、不遇な人たちに配分するという政策も自由主義。その理由は、不遇の人たちが社会の中で自由に生きられるように保証することに繋がるから。社会的弱者も含めて全員が平等に自由に生きられる社会を作ろう。逆に富裕層から勝手に資産を奪うのは泥棒と同じだという考えも自由主義。同じ自由主義の旗を掲げているはずなのにまったく正反対の政策を出していがみあったりすることが多々ある。
弱者に優しい福祉社会、弱肉強食の自由競争社会。ともに自由主義。

いわゆる「リベラル」。ぼくはこの辺の違いが全くわからない、わからないというか、進化が早いのでついていけない。
経済リベラル、リバタリアン、ニューリベ、ネオリベ、この辺に右左の話が乗っかってきて全く理解不能。橘玲の「読まなくていい本の読書案内」の最終セクションがこれです。これに取り上げられるってことは歴史的な変革が大きいってことですよね。この本では政治思想よりも、「正義」にフォーカスを当ててリベラリズム(自由主義)を解説していますね。
僕、ここはちゃんと話をできる自信ないです!

弱い自由主義 幸福>自由 幸福になるには自由が必要。だから自由を尊重しよう(その内実は功利主義)
強い自由主義 自由にやれ。ただし、他人の自由を侵害しない限りにおいて(本書において、自由主義は強い自由主義をさす)

そして、自由主義も極端な話になると
→安楽死は許容されるのか?
→愚行権の行使。人間には自分の意思で不幸になる自由はあるか?習慣性のあるドラッグに溺れていく人を救済すべきか?
→高層マンションの手すりにぶら下がって遊ぶ幼児を放置するのか?自分の子供がドラッグを使うのを止める権利は親にあるのか?

愚行権っていう言葉を思い出しましたよ。
愚行権すら侵害するなっていうのは自由主義の基本のようです。

自由主義が行き着く先は、「バカな人間は死ねばいい」という話になる。ドギツイフレーズですが、本に書いてあります。アメリカってそのような一面を持った国ですよね。

強い自由主義の問題点
富の再配分停止による格差の拡大、弱者の排除
自己責任、個人主義の横行によるモラルの低下
当人同士の合意による非道徳行為の増加(臓器売買、人身売買)

功利主義も、自由主義も追求しすぎると極端で行き過ぎになってしまう。

僕の中では、功利主義と自由主義の間にはタイムラグがあって、カントと功利主義の間にラグがあるのと同じようなとらえ。
功利主義、やっぱりちょっとちゃうんちゃうん?ってなって自由主義が出てくるという流れだと理解してます。
自由主義の根っこになるのがJSミルの「自由論」になるわけですが、
(自由論 https://vicryptopix.com/jsmill/
(カントと自由論 https://www.ne.jp/asahi/village/good/mill.html

ミル自身はベンサムの弟子で、ベンサムの功利主義を発展させて自由主義の根っこになるようなミルの功利主義を完成させるわけですよ。功利主義と自由主義は対立概念ではなくて、上位互換と考えた方がしっくりくるんじゃないでしょうかね。
さっき、あえて時系列にカントを加えたけど、カントと功利主義の対比は実は重要になってきます。

カントを乱暴に一言いうと、教科書。カント的には「善」正しさとは「善い意志」で、評価とは「目的」結果は2次的。良い意志を持って道徳的に行動することが大事で、結果が良いか悪いかは目的とはならない。もっと言えば、「結果よければ全てよし」はダメなんだよ、とうのがカント。ちょっと乱暴すぎるか。でも功利主義との対比としてはこんな感じですよ。
カント、まあ、美しいけどやってられない。

昔の人もそう考えた。そこで、結果ダメならやっぱりダメだよね。という話になっていく。この辺から結果主義へとながれていく。結果主義の一つの形が功利主義で、目的なんかどうだっていい。功利が最大化された状態が達成できればいいんだよ。っていう考え方だった。

・宗教の正義を実現するには直観主義(道徳を重視せよ)
良心に従って行動しなさい。それこそが正義である。理屈を否定して、良心を働かせば、正しいことは自明である。だからさあ、この正しいことをしなさいといった押しつけをしてしまう傾向がある。
宗教的であるとは、「物質または理性を超えたところにある何かを信じていること」
説明できないが、悪いことは悪いこと。という価値観に基づいている。人殺しは悪いことみたいな
問題点
正義とは無限に正しいものであるが、有限の存在である人間に無限の存在である正義を知ることができるのだろうか?という問題に行き着く。
この本は、ラストはちょっと衝撃的なエンディングを迎えます。これは実際に読んでみてもらいたい。

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