いまだ金時ラジオNote用正方形Logo

第7回嫌われる勇気_主題3

フランケンとの対談
00:00 | 00:00
主題3
アドラー心理学 後編1

さて、岸見アドラー心理学、ここまでで、「自分が主観的に抱える問題は、自分に起因する問題だ」っていう事を気づかせてくれた。
順風満帆で生きてる人は、そんな事を悩まなくてもいい。だって、主観的には問題を抱えてないんだから。でも、逆に風向きが変わった時には大きな壁を感じるかもしれない。医療クラスタの人って、基本理系のエリートだったりするじゃない?こういう人が人生で初めてぶち当たる壁って、ちょっととんでもない事が多い。僕の周りにそれこそいっぱいいましたよ。生き死にに関わる問題にしちゃうような人達。
アドラー心理学は、そういったアイデンティティの崩壊に優しい。実家のようなセーフティ。
ここから先では、自分の問題なんだから自分で解決できるんだいっていう事をおしえてくれる。
哲人が。それこそ力強く。

本当にそのとおり。人生の壁にぶち当たった時に、それをその場しのぎで乗り越えてしまうと同じ課題にまたぶち当たる。岸見アドラー心理学は、自分の脳内のOSを根本的に変えてしまうくらいのインパクトがある。

第三夜 他者の課題を切り捨てる
他者からの承認を求めることを否定する。あの人の期待を満たすために生きてはいけない。

あなたは、あなただけの人生を生きている。誰のために生きているのかといえば、無論あなたのためです。そしてもし、自分のために生きていないのだとすれば、いったい誰があなたの人生を生きてくれるのでしょうか。他者からの承認を求め、他者からの評価ばかりを気にしていると、最終的には他者の人生を生きることになります。もう一度いいます。他者からの承認を求めることを否定する。あの人の期待を満たすために生きてはいけない。ここはエッセンシャル思考にも通じるところ。

エッセンシャル思考にも、タルムード学で紹介されてた。ユダヤ教の古典。タルムードには、なるほどと思わせられるものがいっぱいある。
本は横に読む、他の本との関わりを意識しながら読むと、新しい発見があるね。

課題の分離
たとえば、なかなか勉強しない子どもがいる。授業は聞かず、宿題もやらず、教科書すらも学校に置いてくる。さて、もしもあなたが親だったら、どうしますか?
アドラー心理学では「これは誰の課題なのか?」という観点から考えを進めていきます。自分の課題と他者の課題とを分離していく必要があるのです。他者の課題には踏み込まない。それだけです。
およそあらゆる対人関係のトラブルは、他人の課題に土足で踏み込むこと——あるいは自分の課題に土足で踏み込まれること——によって引き起こされます。誰の課題かを見分ける方法はシンプルです。その選択によってもたらされる結末を最終的に引き受けるのは誰か?を考える。

この命題は、実はアドラー心理学の是非を真っ二つに割る命題と言える。これが高校生ならどうなのか、小学生なら?乳児にも当てはめる事が出来るの?自責マインドは未成熟な人格に求められるのか?という議論からアドラー批判は展開される。高層マンションのベランダの手すりで遊ぶ幼児を止めるかどうかは他者の課題への干渉なのか?というふうに。
もっともな批判だよね。でも、この問題こそ、アドラーが治療に携わる医師のスタンスを取っていた事に留意して考えたい。確立した人格を持っている人間がアイデンティティを喪失している状況に対する薬として、この心理学は作用する。未発達は病的精神状態ではないよね。
ちなみにこの、未成熟な自己、についての自由と制限については、飲茶先生の正義の教室でわかりやすく論じられている。
少なくとも人格が発達したと見なされる僕らに関しては、自責マインドでを容認する立場で考えたい。この弱点を掘ることはアドラー心理学の薬としての機能を無意味に損なうのだから。


自らの生について、あなたにできるのは「自分の信じる最善の道を選ぶこと」、それだけです。一方でその選択について他者がどのような評価を下すのか。これは他者の課題であって、あなたにはどうにもできない話です。相手が身分のことをどう思おうと、好いてくれようと嫌っていようと、それは相手の課題であって、自分の課題ではない。

他者の課題には介入せず、自分の課題には誰ひとり介入させない。これは具体的でなおかつ対人関係の悩みを一変させる可能性を秘めた、アドラー心理学ならではの画期的な視点である。対人関係のカードは常に私が握っている(自責マインド)。

自由とは他者から嫌われることである。自由を行使したければ、そこにはコストが伴います。そして対人関係における自由のコストとは、他者から嫌われることなのです。他者の評価を気にかけず、他者から嫌われることを怖れず、承認されないかもしれないというコストを支払わないかぎり、自分の生き方を貫くことはできない。つまり自由になれないのです。


僕なりの解釈だけど、これを「厳しい」と取るのか、「救いだ」と取るのかで、聞いている人が見ている世界観がわかると思う。
ある程度、自分の立ち位置を確保できている人っていうのは、このメッセージを「厳しい」と取るだろう。「自分の立ち位置を今より強固なものにするには、他者とのフリクションを物ともせずに自分のポジションを取りに行け」っていうメッセージと受け取るからだ。確かにそれは滅茶苦茶に厳しい。
でも、ベコベコに凹んでいる人間は、正常時であれば当たり前に出来るような事柄に精神的ハードルを抱えている。それこそ、休日に買い物に出かける事に罪悪感を感じるようなレベルで。
おそらく、本当に他者に嫌われる事を勧めてる訳じゃない。そういうつもりで動いてもいいんだよっていう「許し」のメッセージなんだよね。

第四夜 世界の中心はどこにあるのか
課題を分離することは対人関係の出発点。対人関係のゴールは共同体感覚。他者を仲間だとみなし、そこに自分の居場所があると感じられることを共同体感覚といいます。共同体の範囲は無限大なのだと考える。より大きな共同体の声を聴け。職場の対人関係で悩んだときは職場の外部の別の居場所を見つけたらよい。
そして自分を中心に世界がまわっているのではないということ。あくまで全体の一部である。(これはフラクタルの話を理解するとわかりやすい)

我々が他者を褒めたり叱ったりするのはアメを使うか、ムチを使うかの違いでしかなく、背後にある目的は操作です。誰かに褒められたいと願うこと、あるいは逆に他者をほめてやろうとすること。これは対人関係全般を縦の関係としてとらえている証拠です。アドラー心理学ではあらゆる縦の関係を否定し、すべての対人関係を横の関係にすることを提唱している。そして、すべての対人関係を横の関係にしないといけない。対人関係に1つでも縦の関係を築くと、縦の関係から抜け出せなくなる。
横の関係に基づく援助のことをアドラー心理学では、勇気づけと呼んでいます。自分に自信を持つために、まずは他者との間に、ひとつでいいから横の関係を築いていくこと。

この考え方は、既存の組織の中では絶対に体感できない。なんでもいいからニュートラルな関係のコミュニティに属してみる事だ。同じ方向を目指している人の、メッセージを眺めるだけでもいい、何かの役に立つと思うのなら、やってみるのもいい。コツとしては、「世の中の他人が全員自分だったら、これをやったら満足してくれる自分がいるかな」、というくらいの気持ちでやってみるのがいい。
何の気なしに開いたフォルダのファイルが、時系列にネーミングされてたら、過去の自分、グッジョブ!って思うでしょう。そんな感じで捉えていい。

第五夜 今、ここを真剣に生きる
共同体感覚を持つために必要になるのが、自己受容と他者信頼、そして他者貢献
自己受容とは、ありのままの自分を受け入れ、変えられるものと変えられないものを見極めること。
ニーバーの祈り
神よ、願わくば私に、変えることのできない物事を受け入れる落ち着きと、変えることのできる物事を変える勇気と、その違いを常に見分ける知恵とを授けたまえ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?