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第8回ゴッホとピカソ4

フランケンとの対談
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いまだ金時ラジオ 第8回 なぜゴッホは貧乏で、ピカソは金持ちだったのか?

パネルディスカッション

さて、このラジオ、僕たちはこれまで「生き方」と言う観点を深掘りしながらここまでやってきた。そして最終的に、と言うか現時点で行き着いた共通の考え方というのが、価値っていうのは主観的なもので、その主観のベクトルが近い人、つまり「同じものに同じような価値観を与える人と価値を共有する」という考え方だった。ように思う。

だから僕らはなんらかの経済的基盤や生活の安定を確保した上で、人との繋がりをどうやって面白い形で繋げるかに重きを置いている。年がら年じゅう飛び回って人と会ってる。
そうですよね?

安定した収入があり、まとまった資産を蓄えた人がいたとする。その人は、そこから先も通帳に記される数字をどこまでも増やし続けるのだろうか?
僕は、そこから先は、コップから溢れたお金は、別の価値に変換したいと考えるようになった。働く時間を減らす、自分の人生豊かにする体験や交流にお金を使いたい。人生に彩りを添えるということを考えた時に、面白い人に会うというのは何にも代えがたい喜び。

「それがなんになるんだ」っていう人たちに、僕は今まで人の繋がりが持つ価値をうまく説明できなかった。
いわゆる営業っていうのは説明しやすい。例えば今週は公的な仕事で方々回ってきたんだけど、ひと契約取り付けていくら、あるいはいくら払うので仕事してねの交渉、なんていうのはマネーありきの仕事なんですよ。この一連の仕事で増えたコネクションって、契約期間が切れたら一緒に切れちゃう。もう一回繋がりたければ次の予算を用意しろよっていうコネクションなんですよ。
ビジネスライクに考えると、必要な時に仕事を持っていけるっていうのも大事なコネクションなので、それを人脈って言っちゃう風習があるけど、やっぱりなんか違う。テレビCMにあるでしょう?あそこの会社にコネあるか?ない、何とかして繋がりたい、みたいな流れから、社長のゴルフボールにその会社のロゴが印刷されていて、「社長〜勘弁してください!」名刺管理のナニナニサービス、みたいなやつ。あれなんなんですか。そんなのが繋がってたらなんだっていうんだよ、って思いますよね。
少なくとも僕はそう思うんですよ。名刺交換、しかも人づてなんて、コネクションって言わんでしょうよ。
でも、このコネクションに価値を見出す人は、今僕たちがやっているようなネットワークづくりに金と時間を注ぎ込む行為が理解してもらえない。
「それがなんになるの?」
「それがいくらになるの?」
僕らの主観では違うんですよ。
ネットワーク自体に価値が蓄積する、人の繋がりがそのまま価値になっていく、この感覚を綺麗に説明してくれた名著だと思います。

その辺りが今回は先生にビンビンきちゃってるわけで、いつもは最後のコーナーはフランケンのポエム説教で締めるんですが、今回は師匠のポエム説教が炸裂しますよ。

面白い人をみつけたら、日本中どこにいても、すぐに会いに行く。
交通費、宿泊費、飲食代が当然かかる。だから普通の人はそんなことしない。でも、相手にしてみたら、「この人は、それくらい高い価値を自分の中に見出してくれているんだ」という信用(クレジット)を生む。

同じ 1億円でも 、画家が一生をかけてその魂を描ききった傑作についた価格と 、株式公開によって 1日で増えた時価総額とでは 、背景にある意味や物語 、言語化できない価値がまるで違う 。だがそれらを値づけしたとき 、絵画と株式は同じ土俵で評価され 、比較できるようになり 、人びとの意識はそれらの 「生 」の価値からお金の額 =数字へとスライドさせられる 。こうして 、あらゆるものが無機化されてしまう 。

お金はお金にすぎない、お金を生む文脈が大事。これはこの本を読むと、そうそうそうってすんなり受け入れられる。

お金を中心とした資本主義の基本的な考え方は、17世紀、デカルトの時代に成立した哲学に基づいている。それは、「物事は、要素に分解し、客観化することによって捉えることができる」という思想である。この数字で世界を捉えるという哲学が、現在の「お金をコミュニケーションの中心に置く」という社会システムにつながっている。

お金によって下がるモラル(倫理)
月の土地が3000円から買えるし、角膜は3万ドル、肝臓は13万ドル、心臓は15万ドル。人身売買が自由にできる国もある。僕たちが、お金でケリをつけてはいけないと思っている魂や身体的なもの、柔らかい情緒的なものがどんどん商品化されることによって、僕たち自身も徐々に切り刻まれてはいないだろうか。労働の価値や時間も切り刻まれ、あるいは、もしかしたら人生そのものも切り刻まれていく。

何かに値段をつけるのはまあいい、損害賠償しかり、値段をつけざるを得ない側面は何にでもある。でも、僕の何かに値段をつけて、「金をやるからそれをよこせ」はお断りだ。角膜が3万ドルなら、角膜は中古車より貴重で、フェラーリより価値が低い、そういう理屈に巻き込まれると、文字通りモラルを失う。
昔、ラジオで伊集院光がすごいことを言ってた。善良そうなおばあさんに、いくら金を積んだらおじいさんをひっぱたくのかって。どこかに閾値はあるのかもしれない、でもそれがモラルの価値なんだろうかって。

物々交換
経済学では、「欲望の二重一致」という言葉がよく使われる。これは、AさんとBさんの双方が求めているものを厳密に一致させることは難しいため、お金の額という厳密な数字を使って、双方の欲望を一致させて取引を成立させるほうが効率的だという考え方だ。たしかに、二重の欲望を同時に一致させることは難しい。ところが、もしAさんとBさんに信用の土台があれば、厳密に欲望を合わせることができなくても、「まあ、ちょっと合わないけど、あの人だからこのくらいでいいか」という緩やかな基準が適用される。「遊び」が許容されるのだ。この許容は、双方の精神的な信用残高から生じるものである。信用(クレジット)の基盤のもとで、価値(バリュー)を直接交換する。信用のクッションがある程度の遊びとして作用するのだ。
(例)オリンピックをみに東京に行く。東京のホテル代はめちゃくちゃ高い。昔から仲の良かった友達の家に泊めてもらう。お礼に地元の肉とワインを持参してプレゼントする。

その意味において、僕たちは信用残高を積むことに加え、摩擦をマネジメントするスキルを学ばなければならない。それがなければ、摩擦はゼロだが切れ味が鋭すぎる化学物質、つまりお金に毒されて、今後も生きていくことになるのだから。

先生、今日はキレッキレですよ。
「摩擦をマネジメント」なんすかその切れ味のいいフレーズは。

give and take ではなく、give and givenという仕組み
それは、自分が価値を提供した相手本人から直接価値(貨幣)を得るのではなく、目の前の誰かに与えた価値が信用残高となって蓄積され、その価値が別の誰かから返ってくるという関係である。三者間以上の価値提供関係が幾重にも重なった世界、つまり、誰かに与えたら別の角度から与えられる関係が、これからの新しい経済システムになっていくのではないか。

そして、その経済は、長い目で見たら「まあ、いつかは返ってくるだろう」という程度の曖昧なものではない。与えた価値が別の角度から返ってくるということが、短期間に、確実に、明確な形を伴って起こる。そして、信用を土台とした価値の直接交換を実践する人が増えれば増えるほど、その価値還元速度は速まるのである。

昔、僕と師匠で寿司を食べてて、若い人間こそこの三角形をマネジメントするスキルを磨いてほしいっていう話をした。
そんなに高尚な話ではなく、お金がないのに信用だけでスタートアップするにはどうすればいいのかって話。

例えば何かの機材を作りたい、その予算はない、一銭もない。そんな時にどうするのか。
機材を作ることができるAさんを口説く、僕はこれがほしい、これを使ってこんな研究や活動をしたい。できる?作ったらそれはAさんの所で商品にして売っていいよ。いくらあればいける?100万。じゃあ、一緒にスポンサー探そう。Bさん、あなたこの領域のノイエスを導入してサービスの差別化を図りたいって話してたよね、今Aさんとこんなことやりたいんだけど、100の支援できない?もちろん商品展開するときは取り分ありで。原価ベースで100かかる仕事で、他所に外注だと300くらいになる内容なんだけど。この要素を入れるとBさんにも十分メリットある?じゃあAさんはこの要素入れ込むことできる?Ok、じゃあBさんとAさんの法人で100の契約を結んでもらって。
よかったよかった。

こんな感じ。元手ゼロでやる商品開発ってこんな感じ。誰かがAさんにマネーだけの関係でお願いすると300用意しなきゃいけない案件がみんなで価値とクレジットを持ち寄ることでウィンウィンが発生する。

もっと言えば、この時にBさんの技術でAさんに提供するようなものがあれば、共同開発事業として、この100万とバランスさせることで現金のやり取りを一切発生させずに2つのプロダクトを開発することができる。

わらしべ長者ですよ。
僕は最初のわらしべを10万でスタートした。今も忘れない。あの小さな10万のウィンウィンを自分で作り上げたことが全ての始まりだった。
あとは単にスケールの問題。バジェットが億を超えるのにはそうそう時間はかからない。

コミュニティーの創造に投資する
これからのコミュニティの土台は、場所でも仕事でもない。その人が何を考えているか、何を大事にするか(美意識)といった軸で、人びとはつながっていくようになる。価値観がコミュニティの土台になるのである。人は、近所に住んでいる他人、話の合わない職場の同僚より、世界の果てにいて価値観のあう友人との結びつきを、ますます強めていく。

これから、物質的に余剰の多い先進国に住む人びとは、人生の目的を、「生存」から「創造」へシフトしていかざるを得ないくなるだろう。そのとき、失業率は、もはや負の数字ではない。むしろ「労働開放率」と言い換えるべきかもしれない。

著者まとめ
さて、これから僕たちが住む世界は、お金がお金を生む世界ではない。価値(バリュー)が信用(クレジット)を紡ぎ、それが時にお金となって返ってくる。あるいは価値や信用が、その有機的な姿を保ったままで流通され、新しい価値を生み出していく世界である。その中で、僕たちはもっと幸せで自由に生きていくことができるのだ。

うーん、至言。
バリューとクレジットが紡ぐフラクタルなマーケット。
これを知識ではなく、皮膚感覚で捉えるスキルっていうのがこれから求められるようになるんだよ。間違いなく。

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