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第10回飲茶先生の本について語ろう2

フランケンとの対談
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主題1  哲学的な何か、あと数学とか
この本は個人的に思い入れがある本。
もう10年くらい前の本ですよ1番最初に飲茶先生の本に出会ったのが、これです。
というか、この当時は本じゃ無かったと思う。たしかネットのホームページ、ISDNの低速回線で読んでいた気がする。何を知りたかったのかはもう忘れたけど、フェルマーの最終定理を調べていたら行き着いたコンテンツだった気がします。
検索エンジンはネットスケープとかですよきっと。
いきなり脱線するけど、昔のネットって、今ほどウェブサイトの作り込みが丁寧じゃ無いから、検索して何かの記事の章とかにいきなり直リンでたどり着いたりするわけよ。だから、読んでたときは、「飲茶」っていうのが人名だとは全く思わず、ああ、コーヒーブレイク的な?みたいな記号だと思い込んでいて、誰が書いてるんだろうとか思ってた。フェルマーの定理で検索してきたわけだから、当然「哲学」というキーワードも頭の中にはなくて。ただただ読ませるホームページだなあ、と思いながら読んでた覚えがある。たしかネットでは全部は読めなくて、速攻で本屋に買いに行ったんだよ。

この本を読んだきっかけは、僕のラジオで進めたからだっけ?その前によんでた?

先生がこの本面白い、とコメントしていたのをみて、その日のうちにキンドルにダウンロードして、息継ぎなしで読みきった記憶がありますよ。

じゃあ、この本の紹介に入っていきましょう。僕がこの本を紹介の最初に持ってこようって思ったのは、飲茶先生の本をいろいろ読むにあたって、最初の一冊として最適だって思ったからなんですよ。基本的に物語調で書かれていて、紹介されている一人一人の数学者のストーリーが簡潔に纏まってる。最新刊の「正義の教室」も物語調なんだけど、最初の一冊としてはややトリッキーかな、と。

さて、この本はフェルマーの定理について、どのようにこの数学的難問が解かれていったか?というストーリーなんですよ。このストーリーを扱った本は世の中にいっぱいありますが、この本はちょっと違うんですよね。これがどう違うのかについてはこの章の最後のお楽しみにしましょう。

じゃあ、博士から、このストーリをざっくりと総括していただきましょう。

今回のラジオを収録するということで、もう一回読み返してみました笑
この本の凄さは、歴代の天才数学者たちがフェルマーの最終定理に挑み、夢やぶれていくところ。研究者の儚さ。
そして、その歴代の数学者たちが積み上げた業績が、あたかもお城の土台を築く岩のように積み上がり、フェルマーの最終定理の証明につながる過程。すべての研究者の業績が必要であり、どのパーツが欠損しても証明には至らなかったというところ。ちなみに、僕が1番好きなエピソードは、「谷山=志村予想」です。日本人のアイディアが最終定理証明の鍵になっているところ。そして、谷山=志村予想が、長い長い時を経て証明されて、最後に定理になるところが好きですね。


ラグランズプログラム
一つの分野のテクニックで解けない課題が、全然無関係と思われていた別分野のテクニックで解けることがある。
「ある日、実はその数式が 、幾何学の図形として表現できることがわかった 。そこでその数式を図形で書いてみる 。数式は図形になったから 、幾何学という別分野のテクニックを使うことができる。幾何学にしたがい定規とコンパスで、ある方向にスッと線を引いてみる。すると、その線が別の線と重なった点が答えだった!つまり元の数式の世界では解けなかった問題が、別分野の図形の世界に変換することであっさりと解けてしまうということもありうる 」
数学はこんなふうにどこかで繋がっていて、統一的な美しい構造を持っている、という哲学をラグランズプログラムと読んだ。
これ、なんだか示唆的で面白いエピソードですよね。押してダメなら引いてみなってなもんで、山の登り方は一つじゃ無いぞ、というか、どこかに全ての登山に通じるベストな登り方みたいなもので繋がっているから、なんでもどこかで応用が効くかもよ。みたいな感じの話ですかね。

ありきたりなフレーズでいえば、パラダイムシフトということなんでしょうけど、数学の世界「それぞれのパラダイムが全く別物であると認識されていること」そして、その連結があいまいさを一切残さず、完璧な連結になるところがすごいですね。そして、それぞれの理論が完全に連結することで、またあらたなパラダイムを生み出すというロマン。この瞬間に出くわした研究者は幸せでしょうね。

オイラーの公式:eiπ =−1
微分積分のために作ったネイピア数eと、虚数単位である√−1のi、円周率π、これらの解析・代数・幾何の三つの全く異なる数学を代表する三つの値が、こんなにシンプルな式にのるというというのが、痺れるっていう話ですよね。これがラグランズプログラムの目指すところを端的に表している例ですね。

ここは、しびれます。世界一美しい数式と呼ばれていますね。

ラグランズは「楕円方程式とモジュラー形式という別々の分野と考えられていた二つは同じものである」という谷山ー志村予想を証明すれば、このラグランズプログラムは完成すると考え、みんながそれを証明しようと頑張ったけど、谷山ー志村予想そのものが実はフェルマーの最終定理だったということがわかり、みんなでぶっ倒れるという落ちで終わる。
関係ない人から見るとコメディだけど、やってる本人たちにとっては地獄だったでしょうね。

ともあれ、この、「全然違う分野に共通する何かのロジックが存在する」、あるいは、「別もののように見えて、何かの変換を行うと同じものであることがわかる」みたいなものを見つける面白さっていうのは、ビジネスに通じるものがある気がするんですよ。「ある特定のビジネスの常識はその業界の入門から一歩一歩上がっていかなければいけない」、みたいな慣習って実はあんまり意味ないことが多くて、むしろ他業種の考え方を積極的に取り入れることで新しいソリューションが生まれやすい。これは何にでも共通する話なのかも。
さて、ちょっと脱線しました。
ともあれ、フェルマーの定理の物語では、谷山ー志村予想を証明しなければフェルマーの定理が証明できない、っていう話になっちゃって大変だったということなんですって。ちょっと絶望的な状況なんだけど、このストーリーはここから素敵な展開を見せるんですよ。楕円方程式の専門家だったアンドリューワイルズ、フェルマーの定理を証明したワイルズの登場です。


・ワイルズ登場。
ワイルズは楕円方程式の専門家。今のフェルマーの定理のステータスは、「谷山=志村予想を証明する」というものになっていて、それは、「楕円方程式がモジュラー形式であることを証明する」ことになっていたんだって。ワイルズはその楕円方程式の専門家。
ワイルズは10歳の時に図書館でフェルマーの最終定理に出会うという描写が、飲茶先生の物凄い表現力で綴られている。この物語めいた描写は、ちょっと鳥肌が立つ感じ。なんかもう、「文字を読んでるのに、アンドリューと目が合う」という不思議な体験。ここはぜひ原文をよんでほしいところ。
最終的にアンドリューワイルズは、楕円方程式を用いてフェルマーの最終定理を証明し、実は不完全で、諦めて、ほとんど偶然に最後の鍵を見つけて、その鍵がワイルズが最初に書いた学位論文だったという壮絶な流れになるんだけど、その辺りの流れは鳥肌ものなんですよ。ここはもう泣いちゃう。何度読んでも泣いちゃう。
研究者なら完全に泣いちゃう。ここに反応しない人は研究者じゃないよ。
しかも、研究者としてのワイルズ万歳というながれにはせずに、飲茶先生は、奥さんに対してのステキなエピソードとして話を締めるんですよ。これはもう、映画みたいなんですよ。

本当に映画のようなストーリーです。ちょっと出来すぎちゃうかと。でも、実際になにかに没頭して研究していると、それまで、全く解決の糸口がみつからなかった課題の答えが、何の前触れもなく頭にふってくるような瞬間がありますよね。忘れないうちに急いで紙にメモするみたいな。

のっけからテンション上げちゃったけど、飲茶先生の本は、どれもこれも、なんかのレセプターを持っている人にはストライクで決まっちゃう。アホほどテンションあがっちゃうんですよね。
理系出身にはど真ん中でしょうね。

でも、飲茶先生はなかなか冴えてて、この話をまるっと「数学の証明ができたとかできないとか、くだらなくね?」って言っちゃう人に対して、なんでここに価値があるのかっていうのも綺麗に表現してくれるんですよ。どの本も基本的にはそういう構成ですよね。
僕は飲茶先生の本で1番好きなところは、「価値を認めない人に、最後に丁寧に価値を解説する」ところなんですよ。これがあるから、わからない本でも最後まで読めばどう理解すればよかったのかがわかる構成になってる。読み方が分かると、面白くなるんですよね。最後まで読めば全部腹に落ちる。だから安心なんだよね。

あ、最後だけ読めば総括されてるっていう意味なんで、最後だけ読めば意味は通っちゃうんだけど、飲茶先生の本に限っては、その読み方はお勧めしないなぁ〜。僕推理小生をそんな読み方しちゃう人なんだけど。

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