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第7回嫌われる勇気_主題5

フランケンとの対談
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主題5フランケンの説教ポエム

アドラー心理学には様々な方面から解釈と応用が試されてきた。
共感と批判も数多くあった。

説教ポエムとしては、アドラー心理学をどう取り入れるべきか、という命題について考えて見たい。

・ポストモダンとしてのアドラー心理学
第6回で紹介した、ポストモダン、という流れを思い出して欲しい。ポスト構造主義、とほぼ同義で、構造主義のどん詰まりの思想体系に当たる。この辺りは長くなっちゃうので今日は割愛するが、この思想は哲学の終焉を意味している。フランケンラジオの73話ボードリヤールの話でやった。

アドラー心理学もそうだが、いわゆるポストモダン、ポスト構造主義には、えも言われぬ「ずるさ」があるという批判を知っておかなければならない。
ポストモダンが共通して持っているずるさとは、全ての批判を自説のなかで絡め取ってしまうずるさだ。
この本は、2人の登場人物、若者と哲人の対話によって構成されている。
若者は哲人に対して否定的なスタンスをとり、若者の問いに対して哲人が答えを与えるスタンスでストーリーが展開する。この形をとったのはおそらく偶然ではない。ポストモダンには、理論に矛盾がなく批判を吸収してしまうポテンシャルがある。あらゆる問いも、その理論の中で答えを導き出してしまう構造を持っている。したがって若者が哲人に問いを投げると言うスタンスでは初めから若者に勝利はない。

飲茶先生は、このずるさが哲学を殺したと言っている。まあ、僕たちのような一般人にとっては、哲学が死んでいても死にかけていても、明日の生活にはなんの影響もないのではあるけど、これらのポストモダン全般の説を信じるか、自分の中に飲み込むか、という時にはなんらかの主体的な決断が必要になる。
騙される勇気、とでも言おうか。
この説が間違っていたという後悔を、しない覚悟、みたいな意味だ。

これをシャープに論じたのがカール・ポパーだ。
ポパーが提唱した反証主義では、いわゆるポストモダン全般に見られる、反証可能性の無い理論を、科学では無いと断罪する。否定できないものの価値を証明することはできないからだ。
実際にポパーはアドラーに対して直接アドラー心理学の反証可能性の欠如を非難している。アドラー心理学とは、全ての主観的事象を「優越コンプレックスの克服」と言う命題に絡め取ってしまうものだ、と言う具合に。
そう言う意味で、アドラー心理学とは、正しい意味で科学では無いし、ましてや競争相手を倒す武器では無い。

そもそもアドラーは精神科医で、実際に患者の治療のメソッドとしてこの心理学を用いている。
かつての師であるフロイトが抑圧された欲求に病因を求めた、すなわち原因論を提唱したのに対して、目的論を提唱した。そのなかで、目的論から課題の分離を促し、他者の承認によらない自己受容、すなわち共同体に対する貢献感、という形で病的精神状態に対する治療を試みた。

この場合、世界は患者にとって過酷な環境として認識されているであろうが、実際には積極的な攻撃を仕掛けているわけではない。
すなわち、自己に対して実際には平和である世界、これに対する恐怖が解消されれば治療としては成り立つのである。
この理論は、治療学である。
治療学である限り、患者を治せればそれでいいのだ。
何が効いているのかわからない漢方のような。

この観点からは、アドラー心理学が攻撃的な社会、例えば誰かが積極的に害をなしてくるような状況、これに答えを持たない、という批判は意地が悪いといえよう。
この心理学は、平穏な環境に自己要因で適応できない患者に対する福音であって、排他競合の世界を戦い抜くためのライフハックではないからだ。
自分を動かすための救いであり、他者を打ち負かす武器ではない。
したがって、われわれは強者の立場でアドラー心理学を武器として用いるべきではない。

・アドラー心理学を武器として用いる間違い

1.時に強者はアドラーを語る。
強者の語るアドラーとは以下のようなものである。まず自責論から入り課題の分離により自己の行動を正当化する。
他者とのコンフリクトは他者の課題である。
最終的に他者との共存が不可能な場合、闘争によって勝利を収める覚悟がある。この考え方は他者貢献では決してないだろう。

同時に、強者はアドラー心理学を用いて、弱者を攻撃する。弱者が弱者たるのは目的論の結果であり、弱者は自分が弱者であることに優越コンプレックスを形成して自己肯定している、と。
目的論とは、自業自得論では無い。

自責論、課題の分離に加えて重要なのが、横の関係を築くこと。横の関係を築けずに人間関係に1つでも縦の関係を築いてしまうと、アドラー心理学は足元から崩れてしまう。ここは非常に大切なポイント

2.また、アドラー心理学の武器としての脆弱性を批判する論調も存在する。

この心理学は他者からの具体的な批判や攻撃に対して、なんら実行力を持たない。というのがその批判だ。

このジレンマは、企業マネジメントとしてアドラー心理学を用いようと試みた場合にさらに顕著となる。
共同体感覚を基本とする横関係の社会。褒める叱るではない感謝のネットワーク。承認によらない貢献感を重んじるポリシー。
これらは全て、マネジメントとして実践するには、関係者全員の合意を必要とする。

すなわち、「関係者の合意なく」アドラー心理学をマネジメントに取り入れることはできないのだ。

この構造は、「ティール組織」のもつジレンマに酷似している。

ティール組織は、指示系統も予算も何もない、組織の目的だけかあり、分散自立している運用を目指すものだ。アドラーの共同体感覚に酷似していると言える。そして、ティール組織の限界として、この組織づくりはトップダウンでなければ行えないことが挙げられている。組織の実力とはトップの理解力である。誰しも理解できないものを運用できないからだ。
ボトムアップのアプローチではでアドラーのいう共同体感覚に基づく組織運営はできない。従ってトップダウンアプローチが必須となるが、トップからダウン出来るような強者にアドラーは不要な概念である。
この理由から、マネジメントとしてアドラー心理学を取り入れることは原理的にできない。
戦略としての脆弱性を指摘することに意味はないのだ。

・それでも「共同体感覚」は目指すべき指針になりうる

話はやや飛躍するが、共同体感覚を共有しうる集団、とは、自発的に集まった集団であろう。外圧によって集められたのではなく、義務感で離れられないのではなく、各々が進みたいと思う道の上でたまたま距離が近くなった集団というものがそれに当たる。ベクトルとスピードが同じもの同士には、無理やり結びつけるようなエネルギーは必要がない。共通の目的のために貢献を行うことが、自分の目的そのものであり、他者貢献である。
これ以上に上質な集団というものは他に無いだろう。

抑圧的な集団の中でアイデンティティを保てない人間にとっては、共同体感覚とは、仮想的な存在であり、自己にのみ意味のある「個人的な救い」に過ぎないかもしれない。
しかし、先に述べたような、実体のある共同体は、実効性のあるエネルギーになりうる。共同体への貢献が、自分を前に進めるエネルギーに変換されるのだ。この感覚は実際に集団に加わらなければ実感できないかもしれない。でも、確かに存在している。

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