第8回ゴッホとピカソ5
フランケンとの対談
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いまだ金時ラジオ 第8回 なぜゴッホは貧乏で、ピカソは金持ちだったのか?
博士の説教ポエム
といいつつ説教でもなんでもない(笑)
1)お金の逓減(ていげん)
橘玲さんの幸福の資本論という本に書かれていた。経済用語に「限界効用の逓減(ていげん)」という言葉がある。
これは非常に単純な話で、1杯目のビールは美味い。2杯目もそこそこ美味い。
でも、5杯目のビールの味は、1杯目の同じだろうか?どちらのビールも値段は同じですよね。これと同じことが金融資産についてもいえる。100万円?1000万円?2000万円?1億円?5億円?それぞれの人にとって、どこまでが1杯目のビールなのかはわからないけれども、いずれ限界効用は逓減してくる。多くの勤め人にとって、お金は資本家に対して労働力を提供して得たもの。労働力とは、つまりは自分の時間だ。お金がたくさん貯まったというのは、言い方を変えるとそれだけ多くの時間を労働力として投下したとも言える。
お金はものすごく大切だけれども、お金を増やし続けることが人生の目的になってはいけないと最近感じる。
そして最近の僕は、お金の見方を少し変えた。
人に対してお金を使うようになった。
物をお金で買うのと、人に対してお金を使うのは全く違う。
2)飲茶先生の14歳からの哲学入門という本の中で、フランスの哲学者「ボードリヤール」について紹介されている。フランケンの通勤ラジオにもよくでてきますね。
かれは、「資本主義社会は、すでに生産時代を終えて、記号を消費する時代になった」と語る。
わかりやすく、中古車の軽トラ(15万円)と新車のベンツ(1500万円)について考えてみよう。ベンツと軽トラを並べて展示しておくとする。そこに、ベンチャー企業の社長がきて、新車のベンツを1500万円で購入したとする。セールスマンが、「隣にある軽トラも1500万円で買いませんか?」と話したとしても購入される可能性は0%だろう。
でも、これが、200年前の日本だったとする。当時の通貨価値で1500万円のベンツを購入した資産家に対して、「となりの軽トラも同じ価格で買いませんか?こちらはたくさんの荷物を運べますよ」とプレゼンしたらどうだろうか?おそらく購入してくれるはずだ。
現代では、中古の軽トラと新車のベンツは100倍の価格差がある。でも、それってベンツという記号を消費しているだけではないですか?というお話。
3)人にお金を使うということ
僕は、会いたい人がいたら、東京でも大阪でも気軽に飲みにでかける。最近の僕が好きなフレーズで、「クジラを釣りに、遠洋漁業にでかける」というもの。僕が会いに行く人はクジラだ。時間とお金をかけて会いに行く。交通費やホテル代を考えたら数万円はかかるだろう。でもそこで使ったお金は、二人の間に思い出や体験という共有財産として残される。お金が思い出や体験という形に置換されたともいえるだろう。現金(最近はお札を見る機会はなく、通帳に記録されている数字です)を蓄積するの?それともお金を思い出や体験にどんどん置換していくのか?
今の僕は、後者を選ぶ。
4)本当に楽しいことにはお金が必要なくなっている
僕の生活を振り返ってみて、人生の付加価値の高いことって、どんどんお金がかからなくなっている印象を持つ。例えば、このラジオ。かかったお金といったら、数千円のボイスレコーダーと書籍のお金くらい。でも、今まで自分にとっては未知の領域である、哲学について考えたり、自分の思考をまとめてみたり、ラジオやブログにのせて世間に広めることができる。少なくとも50年前には考えられなかったような道楽だ。僕は仮に1500万円のベンツを買ったしても、このラジオの面白さを超える喜びは得られないと思う。
価値の交換を基本原則にした僕は、なんかもう市場経済の枠組みの中でマネーを触ることはなくなっちゃった。誇張でもなんでもなく、全ての必要なものはマネーではなく価値の交換で捻出する。これは個人レベルで可能な生き方ですよ。そうじゃなきゃ僕は毎週飛行機乗ってないでしょう。これ、お金に換算するとどうなるんでしょうかね?4桁くらい行っちゃうんじゃないか。でも、全くリーガルな価値創造サイクルの中で、僕が移動すると色々なところに価値が発生するっていう世界が出現していて、みんなが利益を上げている。僕は信用、クレジットそのものとして商取引の中で流通しているのが実感できる。そんな世界の住人としては、この本が示す未来像は、全く違和感がないんですよ。
博士の説教ポエム
といいつつ説教でもなんでもない(笑)
1)お金の逓減(ていげん)
橘玲さんの幸福の資本論という本に書かれていた。経済用語に「限界効用の逓減(ていげん)」という言葉がある。
これは非常に単純な話で、1杯目のビールは美味い。2杯目もそこそこ美味い。
でも、5杯目のビールの味は、1杯目の同じだろうか?どちらのビールも値段は同じですよね。これと同じことが金融資産についてもいえる。100万円?1000万円?2000万円?1億円?5億円?それぞれの人にとって、どこまでが1杯目のビールなのかはわからないけれども、いずれ限界効用は逓減してくる。多くの勤め人にとって、お金は資本家に対して労働力を提供して得たもの。労働力とは、つまりは自分の時間だ。お金がたくさん貯まったというのは、言い方を変えるとそれだけ多くの時間を労働力として投下したとも言える。
お金はものすごく大切だけれども、お金を増やし続けることが人生の目的になってはいけないと最近感じる。
そして最近の僕は、お金の見方を少し変えた。
人に対してお金を使うようになった。
物をお金で買うのと、人に対してお金を使うのは全く違う。
2)飲茶先生の14歳からの哲学入門という本の中で、フランスの哲学者「ボードリヤール」について紹介されている。フランケンの通勤ラジオにもよくでてきますね。
かれは、「資本主義社会は、すでに生産時代を終えて、記号を消費する時代になった」と語る。
わかりやすく、中古車の軽トラ(15万円)と新車のベンツ(1500万円)について考えてみよう。ベンツと軽トラを並べて展示しておくとする。そこに、ベンチャー企業の社長がきて、新車のベンツを1500万円で購入したとする。セールスマンが、「隣にある軽トラも1500万円で買いませんか?」と話したとしても購入される可能性は0%だろう。
でも、これが、200年前の日本だったとする。当時の通貨価値で1500万円のベンツを購入した資産家に対して、「となりの軽トラも同じ価格で買いませんか?こちらはたくさんの荷物を運べますよ」とプレゼンしたらどうだろうか?おそらく購入してくれるはずだ。
現代では、中古の軽トラと新車のベンツは100倍の価格差がある。でも、それってベンツという記号を消費しているだけではないですか?というお話。
3)人にお金を使うということ
僕は、会いたい人がいたら、東京でも大阪でも気軽に飲みにでかける。最近の僕が好きなフレーズで、「クジラを釣りに、遠洋漁業にでかける」というもの。僕が会いに行く人はクジラだ。時間とお金をかけて会いに行く。交通費やホテル代を考えたら数万円はかかるだろう。でもそこで使ったお金は、二人の間に思い出や体験という共有財産として残される。お金が思い出や体験という形に置換されたともいえるだろう。現金(最近はお札を見る機会はなく、通帳に記録されている数字です)を蓄積するの?それともお金を思い出や体験にどんどん置換していくのか?
今の僕は、後者を選ぶ。
4)本当に楽しいことにはお金が必要なくなっている
僕の生活を振り返ってみて、人生の付加価値の高いことって、どんどんお金がかからなくなっている印象を持つ。例えば、このラジオ。かかったお金といったら、数千円のボイスレコーダーと書籍のお金くらい。でも、今まで自分にとっては未知の領域である、哲学について考えたり、自分の思考をまとめてみたり、ラジオやブログにのせて世間に広めることができる。少なくとも50年前には考えられなかったような道楽だ。僕は仮に1500万円のベンツを買ったしても、このラジオの面白さを超える喜びは得られないと思う。
価値の交換を基本原則にした僕は、なんかもう市場経済の枠組みの中でマネーを触ることはなくなっちゃった。誇張でもなんでもなく、全ての必要なものはマネーではなく価値の交換で捻出する。これは個人レベルで可能な生き方ですよ。そうじゃなきゃ僕は毎週飛行機乗ってないでしょう。これ、お金に換算するとどうなるんでしょうかね?4桁くらい行っちゃうんじゃないか。でも、全くリーガルな価値創造サイクルの中で、僕が移動すると色々なところに価値が発生するっていう世界が出現していて、みんなが利益を上げている。僕は信用、クレジットそのものとして商取引の中で流通しているのが実感できる。そんな世界の住人としては、この本が示す未来像は、全く違和感がないんですよ。
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